空に墜ちる──if

琉斗六

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16年後の二人の章

4.見えない溝

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 午前の打ち合わせを終えて廊下を曲がった瞬間、真壁の視界に懐かしい後ろ姿が飛び込んできた。
 見慣れたフライトスーツではなく、公務の──グレーの制服姿だが、見まごうはずもない。
 あれは、若桐の後ろ姿だ。

 心臓が軽く跳ね、足が自然と速くなる。
 静浜勤務のはずの若桐が、なぜ浜松に? と疑問は浮かんだが、それよりも会えた嬉しさが先に立つ。

「若桐さん!」

 こちらを振り返った若桐は──、しかし真壁が期待するような笑みを浮かべてはくれなかった。
 教科書通りの敬礼。

「お疲れさまです、一佐」

 硬い──事務的な挨拶。

「若桐さ……」

 言いかけたところで、すっと視線が外された。
 その瞬間、若桐の喉元がわずかに動き、息が短く切れたように見えた。
 けれど声は続かず、代わりに足音だけが近づき、真壁の脇をすり抜けていく。

 微笑みも、談笑もない。
 すれ違いざま、一瞬だけ──視線がこちらに戻った気がした。
 けれどそれは、ガラスに映る冬空の光と重なって、真壁の目にははっきりとは映らなかった。

 振り返った真壁に、視線の投げかけもない。

 胸の奥に、冷たい石を落とされたような感覚だけが残る。

「若桐さんっ!」

 慌てて、真壁は若桐の背を追い、二の腕を掴む。

「なんで、連絡をくれないんですか……」

 廊下に響かない程度の小声だったが、若桐はわずかに眉を動かし、掴まれた二の腕に視線を落とす。

「すみません、一佐。時間が押してまして」

 上げられた視線に含まれた "圧" に、真壁はハッとした。
 その瞬間、胸の奥で何かがきしむ。
 この公共の場で、これは逸脱した行為だ。

 その一瞬の気後れで、若桐はそっと真壁の手をほどいた。

「失礼します」

 視線を前に向け、若桐は歩き去る。
 その背中を、真壁は呆然と見送った。


§


 午後の会議で、真壁は資料の数値を読み違えた。
 すぐに訂正し、事なきを得たが、周囲の視線がわずかに刺さる。
 自分らしくない、と分かっているのに、集中できない。

 執務室に戻っても、ペン先が止まる。
 書類の行が妙にぼやけ、数字が頭に入ってこない。
 紙をめくる手は、次の瞬間には机の上で固まっている。

「一佐、どうかなさいましたか?」

 副官の西條の声に、我に返る。
 その場は取り繕い──。

「なんでもない」

 と短く返したが、書類は山のまま。
 いつもならば、西條が追いつけないほど速やかに回される決裁が滞っている様子に、彼の心配は深まるばかりだった。

「……今日は早めにお休みになられたほうが」

 当然の言葉だろう……とは思うが。

「まだ終わっていない」

 と、やはり短く返すのが精一杯だった。
 冷たく聞こえたのは自覚している。
 だが、心はとっくに仕事の外へ飛んでいた。

──なぜ? どうして?
──僕が……なにかをしましたか?
──まさか、辞めるという噂は本当なんですか?

 あの廊下で交わした数秒のやり取りが、頭の中で延々と繰り返される。
 思考が空回りし、現実の音が遠くなる。

「きみの言う通りだ……」

 三度目に西條が様子を見に来た時、真壁は自分の集中力のなさを認めて、席を立った。


§


 廊下の向こうに、若桐の姿が見える。

『若桐さんっ!』

 真壁は、呼びかけようとしたが、喉に声が引っかかって出てこない。
 床に足が張り付いていて、走り出そうにも足が動かない。

『若桐さんっ!』

 声にならない叫びに、若桐がこちらを向いた。
 歩み寄る気配に、微かな安堵を覚えるが──。

 傍に立った若桐は、冷たい眼差しのままだ。

「すみません、一佐。時間が押してまして」

 笑みもなく、淡々と告げると背を向けた。
 必死になって、動かぬ足を前に出し、真壁は叫ぶ。

「若桐さんっ!」

 声と同時に飛び起きた。
 暗い天井と、自分の荒い息だけが残っている。
 冷たい汗をびっしょりとかいていて、顔に手を当てると、泣いていた。

 胸の奥に溜まった重さは、夢の中よりもはっきりと、そこにあった。
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