25 / 52
25、呉服屋夫人
しおりを挟む
車は病院前で止まり、有之助は母がいる病室に真っすぐ向かって歩いた。部屋を訪ねると、いつものように目を閉じて眠る母の姿があった。
「おはよう、母さん」
有之助は母に寄り添い手を握った。
「どう? 母さんがいつか着せたいって言ってた着物、着てみたんだ。あと四つ分足りないけど、そのくらい許してよ。次男さんが宝屋の屋敷から交渉して取り返してくれたんだ」
母はやはり目を開けないが、有之助はそれでも語り掛けた。
「しばらく会えなくなる。この町よりずっと先にいった半島だよ。いつか絶対によくなるから、信じて待っていて。大丈夫、宝屋も協会も、ここに母さんがいることを知らないよ」有之助はほほ笑み掛けた。
次男は病室の入り口に寄りかかって有之助が話し終わるのを待っていた。
「突然で驚いたよ、商屋くん」
有之助の母を担当した主治医が来て言った。
「良明先生」
次男は壁に寄りかかっていた背を離した。
「あの少年は頑張っている」
「えぇ」
「君の弟子かい?」
「いえ」
「なんにせよ、君も相変わらず元気そうでよかった。旅の目的は知らないが、体だけは大事にしろよ。命に代えは利かないからな」
「はい」
「なにかあれば手を貸そう」
「十分あなたには世話になりました」
「そういうな、商屋くん。困ったときは素直に頼りたまえ」
次男は言われながら病室で母に寄り添う有之助を見つめた。
「母さん。元気になったら、また一緒にご飯を食べよう。散歩もして、市場で買い物もするんだ」
有之助はポケットから自分で作ったみつあみの飾りを母の細い腕にくくりつけ、同じものをつけた自分の腕を並べた。有之助は次男をそばに呼ぶと彼のことを母に伝えた。
「次男さんが僕の力になってくれるって。だから心配しないで」
次男は黙って母の寝顔を見下ろしていた。
「それじゃあ、もう行くね」
有之助は力を込めて母に呼び掛けた。
有之助が病室を出たところで次男は立ち止まり、そっと彼女のそばに立つと刀を横に持ち上げた。横から差し込む朝日が2人を照らす。
「あんたの息子は俺が守る」
駅に行く前、有之助にはどうしても立ち寄る場所があった。2人を乗せた車は一本道を進んで行き、隣町の協会前に止まった。全ての歯車が狂いだした場所。有之助はあの日のことを鮮明に思い出した。腰に携えた銀の刀にそっと手を置いてしばらく呼吸を整えた。
信、戻ってきた。
有之助は外套を目深にかぶり協会を見上げた。
2人は協会裏手にある共同墓地に向かった。有之助は数週間前、ある人から電話を受け取っていた。信之助が仕えていた主人の呉服屋という夫人からだった。電話越しの呉服屋夫人は終始憔悴しきった様子で時折鼻をすすりながら話した。
”私、信之助さんの主人をしておりました、呉服屋と申します。あなたたちの足取りを知るのに時間がかかりましたゆえ、連絡が遅れたことご容赦ください。すべて聞いております。信之助さん、それからあなたたち家族に起こったことも。こんなひどい仕打ち、許してなんて言えませんよね――あの日、信之助さんは私たちに黙って姿を消しました。なにもかも、1人で背負おうとして、協会の手によって……ごめんなさい、私はあの子を本当の家族のように思っておりました。今すぐとは言いません。少し落ち着いたら、一度お会いできませんか?”
呉服屋夫人は協会裏手にある共同墓地に兄が埋葬されたのだと教えてくれた。聞くのはつらかったが、向こうも声を詰まらせながらつらそうに話した。
彼女には油を探すため、しばらく旅に出て戻らないことを伝えてある。
大きな石碑の前にやってきた有之助は、高貴そうな黒い着物姿で立ち尽くす1人の女性を見つけた。
「使有之助さんですね」
「はい」
「本当にごめんなさい」
呉服屋夫人は深々と頭を下げた。
「あなたはなにも悪いことをしていないじゃないですか」
「もっと早く手を尽くしていれば、救えることができたかもしれないと。後悔してもしきれないんです」
「あなたは、信を救ってくれました。だって、信は、あなたのことを本当に優しい人だと言っていましたから。信は、宝屋のような主人にもらわれなかったんだって、それだけで僕、よかったなって、思ってます」
呉服屋夫人は有之助が腰に携える銀の刀を見て目をうるませ、持ってきた紙袋を手渡した。中をのぞいてみると、きれいに繕われた兄の着物が入っていた。青色の生地に銀の鶴が刺しゅうされた、兄がいつも身にまとっていた宝物。完全には落ちなかったのか生地には黒いシミが無数に浮かんで見えた。切りつけられた跡を見るだけで胸が引き裂かれそうだ。
こんなに深く切りつけられたのか。痛かっただろう。信じていた者に裏切られ、悔しかっただろう。
でも、同時に勇ましい力を感じ取った。瀕死の一太刀を受けてもなお、相手を殺すほどの力で立ち上がり、刀を振った。有之助と母を守るために。
有之助はその場にしゃがみ込んで信之助の着物を強く抱き締めた。
「信……ごめん。こんな弟で――本当にごめん」
血とは違う、長年染み込んだような懐かしい匂いがした。目を閉じると兄が目の前にいるような気さえした。
「もっと早く、来てほしかったよな。分かってる。僕は腰抜けだ。ここに来るのが怖かったなんて」有之助は兄の着物をくちゃくちゃに握りしめた。
「おはよう、母さん」
有之助は母に寄り添い手を握った。
「どう? 母さんがいつか着せたいって言ってた着物、着てみたんだ。あと四つ分足りないけど、そのくらい許してよ。次男さんが宝屋の屋敷から交渉して取り返してくれたんだ」
母はやはり目を開けないが、有之助はそれでも語り掛けた。
「しばらく会えなくなる。この町よりずっと先にいった半島だよ。いつか絶対によくなるから、信じて待っていて。大丈夫、宝屋も協会も、ここに母さんがいることを知らないよ」有之助はほほ笑み掛けた。
次男は病室の入り口に寄りかかって有之助が話し終わるのを待っていた。
「突然で驚いたよ、商屋くん」
有之助の母を担当した主治医が来て言った。
「良明先生」
次男は壁に寄りかかっていた背を離した。
「あの少年は頑張っている」
「えぇ」
「君の弟子かい?」
「いえ」
「なんにせよ、君も相変わらず元気そうでよかった。旅の目的は知らないが、体だけは大事にしろよ。命に代えは利かないからな」
「はい」
「なにかあれば手を貸そう」
「十分あなたには世話になりました」
「そういうな、商屋くん。困ったときは素直に頼りたまえ」
次男は言われながら病室で母に寄り添う有之助を見つめた。
「母さん。元気になったら、また一緒にご飯を食べよう。散歩もして、市場で買い物もするんだ」
有之助はポケットから自分で作ったみつあみの飾りを母の細い腕にくくりつけ、同じものをつけた自分の腕を並べた。有之助は次男をそばに呼ぶと彼のことを母に伝えた。
「次男さんが僕の力になってくれるって。だから心配しないで」
次男は黙って母の寝顔を見下ろしていた。
「それじゃあ、もう行くね」
有之助は力を込めて母に呼び掛けた。
有之助が病室を出たところで次男は立ち止まり、そっと彼女のそばに立つと刀を横に持ち上げた。横から差し込む朝日が2人を照らす。
「あんたの息子は俺が守る」
駅に行く前、有之助にはどうしても立ち寄る場所があった。2人を乗せた車は一本道を進んで行き、隣町の協会前に止まった。全ての歯車が狂いだした場所。有之助はあの日のことを鮮明に思い出した。腰に携えた銀の刀にそっと手を置いてしばらく呼吸を整えた。
信、戻ってきた。
有之助は外套を目深にかぶり協会を見上げた。
2人は協会裏手にある共同墓地に向かった。有之助は数週間前、ある人から電話を受け取っていた。信之助が仕えていた主人の呉服屋という夫人からだった。電話越しの呉服屋夫人は終始憔悴しきった様子で時折鼻をすすりながら話した。
”私、信之助さんの主人をしておりました、呉服屋と申します。あなたたちの足取りを知るのに時間がかかりましたゆえ、連絡が遅れたことご容赦ください。すべて聞いております。信之助さん、それからあなたたち家族に起こったことも。こんなひどい仕打ち、許してなんて言えませんよね――あの日、信之助さんは私たちに黙って姿を消しました。なにもかも、1人で背負おうとして、協会の手によって……ごめんなさい、私はあの子を本当の家族のように思っておりました。今すぐとは言いません。少し落ち着いたら、一度お会いできませんか?”
呉服屋夫人は協会裏手にある共同墓地に兄が埋葬されたのだと教えてくれた。聞くのはつらかったが、向こうも声を詰まらせながらつらそうに話した。
彼女には油を探すため、しばらく旅に出て戻らないことを伝えてある。
大きな石碑の前にやってきた有之助は、高貴そうな黒い着物姿で立ち尽くす1人の女性を見つけた。
「使有之助さんですね」
「はい」
「本当にごめんなさい」
呉服屋夫人は深々と頭を下げた。
「あなたはなにも悪いことをしていないじゃないですか」
「もっと早く手を尽くしていれば、救えることができたかもしれないと。後悔してもしきれないんです」
「あなたは、信を救ってくれました。だって、信は、あなたのことを本当に優しい人だと言っていましたから。信は、宝屋のような主人にもらわれなかったんだって、それだけで僕、よかったなって、思ってます」
呉服屋夫人は有之助が腰に携える銀の刀を見て目をうるませ、持ってきた紙袋を手渡した。中をのぞいてみると、きれいに繕われた兄の着物が入っていた。青色の生地に銀の鶴が刺しゅうされた、兄がいつも身にまとっていた宝物。完全には落ちなかったのか生地には黒いシミが無数に浮かんで見えた。切りつけられた跡を見るだけで胸が引き裂かれそうだ。
こんなに深く切りつけられたのか。痛かっただろう。信じていた者に裏切られ、悔しかっただろう。
でも、同時に勇ましい力を感じ取った。瀕死の一太刀を受けてもなお、相手を殺すほどの力で立ち上がり、刀を振った。有之助と母を守るために。
有之助はその場にしゃがみ込んで信之助の着物を強く抱き締めた。
「信……ごめん。こんな弟で――本当にごめん」
血とは違う、長年染み込んだような懐かしい匂いがした。目を閉じると兄が目の前にいるような気さえした。
「もっと早く、来てほしかったよな。分かってる。僕は腰抜けだ。ここに来るのが怖かったなんて」有之助は兄の着物をくちゃくちゃに握りしめた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる