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26、墓前
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顔を上げると柔らかい野花の香りが広がった。次男が地面に置いていた花束を持って差し向けていた。有之助は兄の着物から手を離し、花束を受け取って墓前に供えた。兄はもういない。分かってはいたが受け入れられなかった現実が、今になってようやくすーっと心の中に入っていった。
石碑には死者の名前が刻み込まれ、ずらりとならんだ名前を目で追っていった先に兄の名前があった。初めて目にした文字だった。
使 信之助
有之助は兄の字をなでるようにさすると次男に振り返った。
「ありがとうございます、次男さん。一緒に来てくれて。あまりの恐怖と悲しみで、1人で来る勇気がなかったんです。でも、ちゃんとここへ来られた。信は二度と戻るなと僕に言ったけど、来てよかった。呉服屋夫人、あなたにも感謝しています」
「有之助さん」
呉服屋夫人は静かに近づくと有之助の手に小包を渡した。
「これを差し上げます。きっと、役立つでしょう。名切り同盟の彼があなたの主人である今、昔のような危険は及ばないとは思いますが、くれぐれも協会の人間には気を付けてください。使用人協会だけでなく、さまざまな職業協会もまた似たようなもの。協会は残酷な手口で人を売りさばいています。違法でもなく、国が認めた組織として、さも当たり前のように」
有之助は唇をかみしめた。
「分かっています。それに僕は、油を探す以外にも変えたいものがあるんです。ただの旅では終わりにしない、絶対に。死んだ人のため、今を生きる僕がやらなければいけない。本当の自由を取り戻す。だから、これは名前を切るための旅でもあるんです」
有之助の穏やかな横顔を次男は無言で見つめていた。呉服屋夫人もしばらく有之助のことを真っすぐ見ていたが目には心配の色が浮かんでいた。
「有之助さん。少し言い方が悪いですが、私たちは協会からあなた方を”買う”という形で間接的に救えると、そう信じてきたのです。次男さんもその一人でしょう。私はこれからも使用人協会から使用人をとります。おこがましいですが、それが、私にできる人助け」
呉服屋夫人は有之助と次男を交互に見た。
「だから、どうか忘れないでください。例え不信に満ちようとも、信じることを諦めてはならないと。私たちは探し続けるしかないのです、信じられるものを」
今、自分の目はどう見られているのだろうか。有之助は穏やかな顔で見る呉服屋夫人を見て思った。心の中には不信だらけだ。母を苦しめた宝屋、兄を殺した協会の会頭、誘拐し売り払おうとした男たち……皆、信じられない人間だった。同時に、心にポッと同じ、もしくはそれ以上の美しい光が瞬いた。同盟のことを教えてくれた善三郎、母の美し笑顔、兄の熱いまなざし、主人を引き受けてくれた次男、旅の無事を祈ってくれた花、そして……
目の前には呉服屋夫人がいる。
彼女のしなやかな手が2人を包み込んだ。
ふわっと広がった太陽の光みたいに温かい匂い。彼女は優しく2人を思いやるように引き寄せた。初めて会った人なのに。それなのに、こんなにも温かく満たされた気持ちになるのはなぜだろうか。
次男は拒絶するように身を引いたが怒っているわけではなさそうだった。ただ、18の青年がよく母親に見せるような気恥ずかしそうな顔をしていた。
「いつまでもお元気で」
「はい」有之助は顔を引き締めた。「呉服屋夫人もお元気で」
次男は歩き出した。有之助は最後に深々とお辞儀してから手を振って彼の後を追った。
「心置きはないな」
次男は前だけ見て有之助にそう呼び掛けた。
「あっ! ちょっとだけ時間をもらってもいいですか? 確か、協会に善三郎さんって男の人がいたはずなんです。僕に名切り同盟を頼るよう教えてくれた恩人です」
有之助は協会の敷地内を捜しまわったが、彼の姿を見つけることはできなかった。
「いなかったのか」
「はい。タイミングが悪かったようです」
そう言って有之助がさみしげに協会を見上げると、強い風が吹いて背中を押した。
駅のホームには緑色をした寝台特急が停車していた。2人は荷物を持って列車内に乗り込み、予約していた個室に入った。二段ベッドにソファ、テーブルと簡素な雰囲気で窓が大きかった。ガコンと列車が動きだし、ゆっくりと景色が動いて見えた。徐々に速度が上がっていく光景を、有之助は落ち着きなく窓に張り付いて見ていた。
「初めてか」
「はい。ずっと宝屋の屋敷で母さんと働いていたから、遠出することもなかったんです。あなたは?」
「船も、列車も、仕事柄しょっちゅう乗る」
「へぇ、すごいな」有之助は目を輝かせながら言った。次男はきょとんとした。
「だって、次男さんは商人の中でもすごく若いんでしょう?」
「おやじが死ぬ前から仕事はしていた。それに、商人と言っても種類は様々。不正な取引をする闇商人、道端で売る大道商人、旅をしながら売る旅商人。俺の場合は外国に品物を輸出したり輸入したりする貿易商だ。もっと手広くやってる」
「なおさらすごいですよ!」
自分には到底なれない仕事の話を聞き、有之助は目をキラキラ輝かせた。次男は黙って通り過ぎていく街並みを眺めていた。
石碑には死者の名前が刻み込まれ、ずらりとならんだ名前を目で追っていった先に兄の名前があった。初めて目にした文字だった。
使 信之助
有之助は兄の字をなでるようにさすると次男に振り返った。
「ありがとうございます、次男さん。一緒に来てくれて。あまりの恐怖と悲しみで、1人で来る勇気がなかったんです。でも、ちゃんとここへ来られた。信は二度と戻るなと僕に言ったけど、来てよかった。呉服屋夫人、あなたにも感謝しています」
「有之助さん」
呉服屋夫人は静かに近づくと有之助の手に小包を渡した。
「これを差し上げます。きっと、役立つでしょう。名切り同盟の彼があなたの主人である今、昔のような危険は及ばないとは思いますが、くれぐれも協会の人間には気を付けてください。使用人協会だけでなく、さまざまな職業協会もまた似たようなもの。協会は残酷な手口で人を売りさばいています。違法でもなく、国が認めた組織として、さも当たり前のように」
有之助は唇をかみしめた。
「分かっています。それに僕は、油を探す以外にも変えたいものがあるんです。ただの旅では終わりにしない、絶対に。死んだ人のため、今を生きる僕がやらなければいけない。本当の自由を取り戻す。だから、これは名前を切るための旅でもあるんです」
有之助の穏やかな横顔を次男は無言で見つめていた。呉服屋夫人もしばらく有之助のことを真っすぐ見ていたが目には心配の色が浮かんでいた。
「有之助さん。少し言い方が悪いですが、私たちは協会からあなた方を”買う”という形で間接的に救えると、そう信じてきたのです。次男さんもその一人でしょう。私はこれからも使用人協会から使用人をとります。おこがましいですが、それが、私にできる人助け」
呉服屋夫人は有之助と次男を交互に見た。
「だから、どうか忘れないでください。例え不信に満ちようとも、信じることを諦めてはならないと。私たちは探し続けるしかないのです、信じられるものを」
今、自分の目はどう見られているのだろうか。有之助は穏やかな顔で見る呉服屋夫人を見て思った。心の中には不信だらけだ。母を苦しめた宝屋、兄を殺した協会の会頭、誘拐し売り払おうとした男たち……皆、信じられない人間だった。同時に、心にポッと同じ、もしくはそれ以上の美しい光が瞬いた。同盟のことを教えてくれた善三郎、母の美し笑顔、兄の熱いまなざし、主人を引き受けてくれた次男、旅の無事を祈ってくれた花、そして……
目の前には呉服屋夫人がいる。
彼女のしなやかな手が2人を包み込んだ。
ふわっと広がった太陽の光みたいに温かい匂い。彼女は優しく2人を思いやるように引き寄せた。初めて会った人なのに。それなのに、こんなにも温かく満たされた気持ちになるのはなぜだろうか。
次男は拒絶するように身を引いたが怒っているわけではなさそうだった。ただ、18の青年がよく母親に見せるような気恥ずかしそうな顔をしていた。
「いつまでもお元気で」
「はい」有之助は顔を引き締めた。「呉服屋夫人もお元気で」
次男は歩き出した。有之助は最後に深々とお辞儀してから手を振って彼の後を追った。
「心置きはないな」
次男は前だけ見て有之助にそう呼び掛けた。
「あっ! ちょっとだけ時間をもらってもいいですか? 確か、協会に善三郎さんって男の人がいたはずなんです。僕に名切り同盟を頼るよう教えてくれた恩人です」
有之助は協会の敷地内を捜しまわったが、彼の姿を見つけることはできなかった。
「いなかったのか」
「はい。タイミングが悪かったようです」
そう言って有之助がさみしげに協会を見上げると、強い風が吹いて背中を押した。
駅のホームには緑色をした寝台特急が停車していた。2人は荷物を持って列車内に乗り込み、予約していた個室に入った。二段ベッドにソファ、テーブルと簡素な雰囲気で窓が大きかった。ガコンと列車が動きだし、ゆっくりと景色が動いて見えた。徐々に速度が上がっていく光景を、有之助は落ち着きなく窓に張り付いて見ていた。
「初めてか」
「はい。ずっと宝屋の屋敷で母さんと働いていたから、遠出することもなかったんです。あなたは?」
「船も、列車も、仕事柄しょっちゅう乗る」
「へぇ、すごいな」有之助は目を輝かせながら言った。次男はきょとんとした。
「だって、次男さんは商人の中でもすごく若いんでしょう?」
「おやじが死ぬ前から仕事はしていた。それに、商人と言っても種類は様々。不正な取引をする闇商人、道端で売る大道商人、旅をしながら売る旅商人。俺の場合は外国に品物を輸出したり輸入したりする貿易商だ。もっと手広くやってる」
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