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二度目の恋の予感

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思えば、あれが
あのときが、わたしの
これまでの人生の中での
最初で最後の、恋愛だったな。

風に乗って、ふわふわと穏やかに揺れる焦げ茶色のくせっ毛を思い出すたび、いまでも胸がきゅんとする。
甘酸っぱい、わたしのただ一度の恋の相手。
千春(ちはる)先生。

『七瀬さんには、もっと素敵な恋愛が、きっと未来に待っていますよ』

先生は、いま
どこで、なにをしてるのかな。

先生みたいに、恋愛に興味がなさそうな人でも
いまごろ奥さんがいて、家庭なんてものを持っちゃったりもしてるのかな──。

「りんごちゃん。りんごちゃん」

ぼうっと思い出に浸っていたところへ、小声でささやかれ
ふっと現実に戻ってきたわたしは、「りんごちゃんの番だよ、ご挨拶」と右隣に立っている椛さんにうながされ、はっと背筋を伸ばした。

テレビや雑誌の中でしか見たことのないような日本風の料亭に入って、ナントカの間、に通されて。
会食のお相手が、先に見えていた。

車の中での、椛さんからのあり得ない襲撃のおかげで緊張はせずにすんだけれど
かわりにというか、お相手ににこやかに挨拶をする、椛さんの焦げ茶色の髪の毛を見ていたら
甘酸っぱい初恋の思い出まで、よみがえってきてしまって……ぼうっとしてしまっていた。

気がつけばわたし、しっかりとお相手の名刺も人数分受け取っていたようで、手に持っている。

「あっ……す、すみません! わたし、七瀬りん子と申します」

慌ててお相手に頭を下げるわたしの隣から、

「ここだけの話ですが、彼女は昨日からぼくの妻になっていて、正しくは結木りん子です」

椛さんが、訂正してくる。
あ、そうだ。わたし、結婚したから結木りん子って名乗るべきだったんだ!

え、いや……
でも、まだ椛さんの口から言うまでは、本社以外の人間には他言無用じゃなかったっけ?

あ、いやでも、椛さんの口から言うぶんにはいいのか……な?
軽く混乱に陥るわたしに、椛さんの右隣から冷たい一瞥を送りつつ、静夜。

「彼女は私とおなじ、社長秘書です。まだ名刺もない新米のふつつかものですが、よろしくお願いいたします」

あんたはわたしの保護者かっ!
……でも、ここはおとなしく頭を下げておくべきだろう、とわたしは急いでまたおじぎをする。

「おや、結木社長。ついにご結婚なさったんですか。おめでとうございます。これは正式に公表したら、世間もマスコミも黙っていなさそうですね」

「なにしろ結木社長は、この業界ではここ数年連続『結婚したい男NO.1』でしたからねー。それにしても、ほんとめでたいですね」

そっと顔を上げると、色白で線の細い穏やかそうな男の人と、対照的に小麦色の肌に黒髪短髪の、ちょっと粗野な感じの男の人が、それぞれ紺色のスーツを着て笑顔で立っている。
どちらも40代前半くらい……かな?

ほんとうはもっと若いかもしれないけど、小麦色の肌の人はともかく
色白の男の人のほうは、かなり雰囲気が落ち着いているから、それくらいに感じられる。

「ありがとうございます。まあ、料理もそのうちくるでしょうし、座りましょうか」

椛さんは穏やかな笑顔を返し、ひとまずみんな席に落ち着いた。

「しかし私どものようにちいさな会社のために、豪奢な個室を取ってくださったのですね」

色白の男の人のほう、たぶんこちらが社長さんだろう。
その人の言葉に、わたしは改めて部屋を見回してみる。

天井と欄間(らんま)には、恐らく有名な画家の手によるものだろうと思われる、たおやかな女性と七羽の鳥が描かれていて
座椅子もテーブルも、新品のように磨かれている。

ちょっと指紋をつけるのも、ためらってしまいそう。

「ちいさい会社だなんて、ご謙遜を。いまではミナミコーポレーションといったら、知らない人間はいないでしょう」

ミナミコーポレーション……うん、確かにこのわたしでさえも聞き覚えがある。
会社を起ち上げて数十年かかって、息子兄弟の代になって急成長し出した会社だ。

なんでも下積み時代、貧乏だった時代にさんざんマスコミにばかにされたからという理由で、いまでもマスコミ嫌いでマスコミの前には決して姿を現さないし、取引相手と会うのにも周囲に気を遣っているとかなんとか。

結局はそんなふうにマスコミに騒がれているけれど、でもそういうニュースをしているときでさえ
ミナミコーポレーションの警戒は厳重らしく、社員のひとりの姿も映せず、背景はせいぜいがミナミコーポレーションのオフィスビルだけだ。

椛さん、よくそんな難しそうな相手と会食なんて取りつけられたなあ。
それだけルミエール・ファクトリーに力があるってことなんだろうけれど。

世間話で盛り上がるミナミコーポレーションの社長と秘書、そして椛さんだけどわたしと静夜は、なかなか輪の中に入れない。
わたしはともかくとして静夜は、書類を脇に置いているから彼らが仕事の話に入るのを、待っているだけなのかもしれないけれど。

やがて料理が運ばれてきて、その見たこともない豪華な日本料理に、わたしはすっかり魅了されてしまった。
お寿司とお蕎麦と混ぜご飯、そして茶わん蒸しが、いっしょくたに大きなお盆に乗っている。

どの順番で食べるのが正しいのかわからなかったけれど
すっかりお腹が空いていたわたしは、「では、いただきましょうか」という椛さんの声を皮切りに、「いただきます」をしてお箸を手に取った。

まずは、お寿司をひと口。
……んーっ!

「おいしい! たまんない!」

とろりと口の中でほどけるお刺身とシャリの食感に、思わず満面の笑みになってしまう。
これは……もしかして、鯛かな?

大学時代、入っていた文学部の知り合いに、すごくお金持ちの女の子がいて。
彼女の誕生日のとき、わたしもパーティーに招かれた。
そのとき出たのが、特上のお寿司。
いまわたしが食べたのが鯛のお寿司だとしたら、そんなの食べるのはあのとき以来だ。
でもほかのお寿司は、なんのお刺身なのかよくわからない。
根っから貧乏人のわたしには、みんなおなじに見える。
マグロだったら、さすがにわかるんだけど。
なんのお刺身かはわからない、けど。でも抜群においしい!

ぱくぱくと、食が進む、進む。
椛さんまでもが、にこにことうれしそう。

「りんごちゃん。これはね、炙り寿司。そっちのお蕎麦は稲庭蕎麦なんだよ」

「よくわからないけど、ものすっごくおいしいです!」

「あはは」

軽快に笑う椛さん、と……ミナミコーポレーションの、秘書。
見ればミナミコーポレーション社長まで、わたしを見つめてにっこり微笑んでいる。

う……調子に乗って、次から次へと食べすぎたかな?
食べ方も考慮しないで、自分の食べたいように食べていたし……見苦しかった、かな。
静夜に至っては、冷たかった目つきがさらに冷たいものになっている。

「あ、あの……すみません、わたし……マナーもなにも知らないで……」

そう言いつつも、わたしの目はいまだ手つかずの茶わん蒸しに注がれている。
お寿司やお蕎麦がこんなにおいしいんだから、茶わん蒸しだってきっとおいしいはず。

茶わん蒸しは自分でも作るし、おいしかったらよーく味わって、どんな味つけかを自分なりに分析して
そしたら、家でもいつでも椛さんに作ってあげられるな、なんてちょっと思ったりするわけで。

食べることが大好きなわたしは、料理をするのも大好き。
得意かどうかは自分ではわからないけど、人に食べてもらって「まずい」と言われたことは一応、ない。
初めて作る料理が、失敗することなんて、ざらだけれど。

椛さんと夫婦らしい夫婦になるには、わたしの手料理を食べてもらえばいいかな、なんて
このおいしい日本料理を食べながら思っただなんて、……やっぱりおかしい、かな。
どんどん肩身が狭くなるわたしに、微笑みかけてくれたのはやっぱりというか、椛さんだった。

「いいんだよ。いっぱい食べて元気出してねって言ったのは、ぼくなんだから」

「ですが、このままでは社長が恥をかくだけです」

横から突っぱねるように、冷たく静夜。
だけど、そこでミナミコーポレーションの社長が穏やかに、微笑しながら口添えしてくれた。

「いえいえ、久し振りにこんなに食べっぷりのいいお嬢さんを見ましたよ。りん子さん、あなたはずいぶんおいしそうにものを食べますね。茶わん蒸しもどうぞ、召し上がってください」

うわ、恥ずかしい。
茶わん蒸しを食べたいって思ってたの、ばれてた!
さすがのわたしもそこまで厚かましくはできなくて、ただうつむいていると

「うめー! マジうまいですよ、この茶わん蒸し。中に入ってんの、銀杏(ぎんなん)だけじゃねーんだな。俺、いままで銀杏だけの茶わん蒸ししか食べたことないからなー。豪華! すげー!」

ミナミコーポレーションの秘書が、一足早く茶わん蒸しに手をつけて、感嘆の声を上げる。
そしてわたしに、人好きのする笑顔を向けた。

「りん子さんも食べてみなよ、うまいですよ」

「あ……は、はい!」

こんなふうにすすめてくれたら、安心して食べることができる。

ほっとしたわたしは、茶わん蒸しの蓋を開け
中のたまごの部分を、木のスプーンでひとすくい。

ぷるぷるとスプーンの上で震えるたまごは、口に入れるととろりと溶けて──。

「おいしい! 最高です!」

「だろ? うまいでしょ?」

「ほんとにおいしい! 食材はわかるんだけど、味つけは……昆布だしのほうがかつおだしより少し多めかな?」

「お、りん子さん、家でこれ作る気だったんですか? もしかして、結木社長に家でも食べさせるために茶わん蒸し、食べたかったとか?」

返事のかわりに、恥ずかしさで熱くなってしまう、わたしの顔。
わたしと秘書さんのやり取りを見ていた椛さんが、満面の笑みになった。

「会食中じゃなければ、いますぐりんごちゃんにキスしてるところなんだけどなあ」

その発言に、「社長」と静夜がいさめるように言ったけれど、ミナミコーポレーションのおふたりは、気さくに笑うだけ。

「夫婦仲がいいのは、いいことですよ」

「南(みなみ)社長も、たいそうな愛妻家だって聞いてますよ」

すかさずの椛さんのやり返しに、南社長は糸のように細い目を、さらに細くして微笑む。

「ええ。私の妻は、世界一の妻です」

「あ、失礼。ぼく、本物の南社長に言ったんですけど」

わたしと静夜は、きょとんとして椛さんを見つめる。

南社長と秘書さんは、驚いたように椛さんを見つめていて
椛さんだけが、その場でにこにこと笑っていた。

静夜が、ささっとテーブルの下で
さっきお二方にいただいた名刺を、確認するのが目の端に映る。

わたしも急いで、スプーンを置いて
バッグに入れておいた名刺を出して、しっかりと確かめる。

名刺を受け取ったとき、ぼうっとしてはいたけれど
色白の人に「ミナミコーポレーション社長 南薫(かおる)」、小麦色の肌の人に「ミナミコーポレーション社長秘書 難波玲人(なんば・れいじ)」と順番に渡されたのは、ぼんやりとだけど覚えている。

なのに、椛さん……どうして?
わたしと静夜の、心の中の問いかけに応ずるかのように椛さんは、ゆっくりとお茶を飲む。

「どうして入れ替わって会食なんてしているのかまでは、わかりませんけど。簡単なことですよ。そんなんじゃ子供にだってばれますよ、南社長」

そう言って椛さんがにっこりと笑いかけたのは、小麦色の肌の人……難波玲人、の名刺を差し出した人のほう、で。
彼はばつが悪そうに、首の後ろを掻いた。

「まさか、こんなに簡単に見破られるとは思わなかったな。結木社長、なんでわかりました?」

え……
ってことは
ほんとにこの人が、本物の南社長だったの!?

「左手の薬指。その一部分だけ、日に焼けていません」

椛さんの指摘に、わたしと静夜は南社長のそこに視線をやり──あ、と同時にちいさく声を上げた。
確かに、小麦色に焼けた肌の持ち主の南社長、その左手の薬指の一部分だけが、わっかのように白い。

「そうか、南社長は愛妻家だって……社長、さっき言ってましたよね」

「うん」

「いつもはずっと結婚指輪をしているから、そこだけ日焼けしていない。だけど急に指輪を外せば、指輪の跡は隠せない……です、よね?」

「よくできました」

そんな場合じゃないだろうに、椛さんはうれしそうにわたしの頭をぽんぽんと撫でる。
南社長は、「あー」と額に手を当て天井を向いた。

「玲人、だからおまえも早く結婚しろっつってたんだよ。指輪の跡でばれるなんて、初めてのことだぞ」

「すみません」

「まあ、ばれちまったら仕方ないよな。……結木社長、寝屋川さん、りん子さん。だますような真似をして、ほんとに申し訳ない」

そう言うと、南社長は難波さんとともに深々と、その場で頭を下げる。
そして南社長は、終始申し訳なさそうにしつつも事情を話してくれた。
会社が軌道に乗り始めたのは、とある大手企業との取引がきっかけ。

それまでは、セレブな人たちの言うところの「育ちの悪い」「品のない」南社長がミナミコーポレーションの社長だとわかると、大手企業はみんな頭でっかちに嫌がって、取引をしてくれなかったということ。
それからは南社長の案で、大きな取引のときには南社長と「見た目も態度も雰囲気も、育ちがよくて品のいいと常日頃評されている」難波さんが、入れ替わることにしたということ。

もちろんそのときには、南社長は愛妻家だと知られてもいたし
前もって、それくらいは調べがつくことだろうからと、念のため取引のときだけ、南社長は結婚指輪を外していた。

もちろん入れ替わっているあいだ、南社長はもって生まれた自分の言葉や仕草以外の立ち居振る舞いに、気をつけた。
たとえば難波さんより先に名刺を出さなかったり、会食の席で難波さんより先に椅子に座らなかったり。
幸い、いままでどの企業相手にもばれることなく取引は進められ、会社も順調でいる。

「俺たちの入れ替わりは、いわばジンクスみたいなものになっちまってるんです」

南社長は、沈痛な面持ちだ。

「こんなことを頼むのは、お門違いだってわかってる。だけど、……どうか……結木社長。このことはもうしばらく、ほかには言わないでいただけませんか。お願いします」

再び頭を下げるおふたかたに、椛さんは「まあまあ」と穏やかに微笑む。

「もちろん言うつもりはありませんよ。おふたりが自分たちの口から公表する、そのときがほんとうに”そのとき”なんでしょう。だけど、もう入れ替わりは必要ないくらいにミナミコーポレーションは独り立ちしていると思いますけどね」

「それは、私もそう思います。業界では数字がすべてです。いまのところ、ミナミコーポレーションは安泰だと思います」

こちらはその「数字」とやらをきっちり下調べしてきたんだろう、静夜がそう補足する。

「ありがとうございます」

「ありがとう……ございます」

ほっとしたように南社長と難波さんは顔を見合わせ、また頭を下げる。

「さて、じゃあ本題にとりかかりましょうか」

にこやかに言う椛さんの言葉に、南社長は「え?」と聞き返した。

「本題って……」

「もちろん、我が社と御社との取引について、ですよ」

南社長と難波さんの瞳が、またも見開かれる。

「騙すようなことをしたのに……問題児のような俺たちと、取引してくれるんですか」

「だから、言ったでしょう。もうあなた方に入れ替わりは必要ないって。それにぼくは元から、中身で勝負するのが好きなんです。見た目や育ちなんて、ぶっちゃけどうでもいい」

あ、この茶わん蒸しほんとにおいしい、と言いながら
こっそりテーブルの下で、椛さんがわたしの手を握ってきたけれど
わたしは、すっかり椛さんの観察眼に感嘆してしまっていて振り払うどころじゃ、なかった。

椛さんて、見た目だけじゃなくて実はこんなにかっこいい人なんだ……。

きゅん、と胸のどこか、心のどこかが疼いてしまったのは
たぶん、今度は……気のせいなんかじゃ、ないと思う。

わたし……この人に、惹かれてる。
椛さんのこと……好きに、なっちゃいそう。

もしも、椛さんとちゃんとした恋愛ができるのなら──先生。
わたし、先生への恋に終止符を打つことが、できるのかもしれない。

あの日、先生に告白したときから
宙ぶらりんだった、わたしの心の中に
いまはいつのまにか、椛さんが
ほんの少しだけだけど、入り込んでいるから──。
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