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芯までとかされて 3

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アキさんと出逢ったのは、4年前の11月。
雨の降る、夜だった。
スーパーからの帰りに、アパートの前の電信柱に寄りかかるようにしてうずくまっている人影に、わたしは驚いて駆け寄った。

「どうしたの? 大丈夫ですか?」

その人は、肩まで届くくらいぼさぼさの焦げ茶色の髪。
前髪も頬のあたりまで伸びていて、顔すらはっきりしていなくて。
髭も伸ばし放題という感じで、げっそりやせ細っていた。

千春先生が風邪を引いたときに看病をしていたことが、わたしにとっては大切な思い出になっていて。
だからわたしはこの地にきてからも、風邪を引いている人がいたら、せめてすりりんごをごちそうすることにしていた。
それが最近ではこの近所でちょっとした噂になっていて、アパートの隣の公園で寝泊まりしているホームレスたちも、たまにわたしのところにごはんを食べにやってくるくらいだった。

この人も、こんな雨なのにこんなところにいたら、風邪を引いてしまう。
そう思ったわたしは、この男の人を自分のアパートに連れて行こう、と決めた。
男の人の身体を支えるためにその人の脇の下に自分の身体を入れると、ふわりとバニラの甘い香りがした。
この風貌にして、この香り。
不思議な取り合わせだな。

「りん子ちゃーん、なんか食わして……って、また誰か拾ったのか?」

折よくそこへ、ナナシさんが現れた。
当時、リストラにあったことがきっかけで奥さんにも愛想を尽かされたナナシさんは、ホームレスをやっていて。
わたしの噂を聞いて、アパートまでやってきたひとりだった。
ナナシさんはそれからもちょくちょくやってきていたのだけれど、男手が必要なときに現れるなんて、ほんとにタイミングがいい。

「ナナシさん、ちょっと手伝って」

「あ、ああ。なんだよおまえ、ずぶぬれじゃん」

そう言ってナナシさんとふたりで男の人の身体を支えながらアパートへ入ろうとしたとき、遠くに人影が見えた。

「いた! あそこだ!」

はっと、男の人が息を呑む。

「……おまえ、追われてるのか」

ナナシさんが、目を瞠る。
わたしの判断は、早かった。

「ナナシさん、早く」

「こいつのこと、匿うのか? なにしたやつなのか、わからないんだぞ?」

「こんなに身体、弱ってるじゃない。放っておけないよ」

「……わかった」

アパートに入るのを人影に見られたのか、それからほどなくして、ダンダンダン、と部屋の扉が乱暴に叩かれた。
男の人はわたしの布団に寝かせて、頭から毛布をかぶせてある。

「りん子ちゃんは、そこで待ってろ」

わたしたちをかばうようにそう言うと、ナナシさんはひとつ咳払いをして、少しだけ部屋の扉を開けた。

「なにかご用ですか?」

「失礼ですが、こちらに……男性はいませんか。髪も髭も伸び放題で、がりがりに痩せた男性です」

「この部屋に連れて入られるところを、見た気がするんですが」

相手はどうやら、二人組らしい。
けれどナナシさんは、怯まなかった。

「男性なら、この部屋にはオレしかいませんよ。妻が病気でしてね、あんまり騒がないでください」

すると、相手の声色が変わった。

「悪いけどなあ、その人はあんたたちとは違う世界にいるお方なんだよ。隠すとろくなことになんねぇぞ」

「よしなさい、ナツ」

もうひとりが、威嚇した若い男のほうをいさめる。

「……ほんとうに、ここにはあなたと奥さんしかいらっしゃらないのですね?」

「はい」

「──お邪魔して、騒ぎ立ててすみませんでした。では、我々は失礼いたします」

バタンと扉が閉まり、ふたりの足音がすっかり雨音に混じって消え去るのを待ってから、ナナシさんはわたしたちのほうに戻ってきた。

「ナナシさん、ありがとう」

わたしがそう言ったのとほぼ同時に、布団の中からむっくりと男の人が起き上がった。
そして、わたしたちに向けて深々と頭を下げてくる。
よく見れば、彼は病衣を身に着けていた。
そういえば、足も……裸足だ。

「もしかして、病院から抜け出してきたのか?」

わたしとおなじことを思ったのか、ナナシさんが男の人に尋ねる。
けれど男の人は、黙ったままだ。

「病院に戻ったほうが、いいんじゃないのか?」

その言葉には、男の人は激しく頭を左右に振った。
すがるように、わたしの腕をぎゅっとつかんでくる。
雨に濡れてびしょびしょなのに、とてもあたたかな手だった。

「とにかくいまは、なにか……そうだ、……すりりんごでも、食べませんか?」

守ってあげなくちゃ。
そう思ったのが母性本能と言われれば、そうなのかもしれない。
こんなに誰かに頼りにされたのは、千春先生を看病したとき以来だったから……だからかも、しれない。
わたしがそう言うと、男の人はちいさくうなずいた。
わけあり林檎は、実家にいたときのように毎日どこか安いところで手に入れて、アパートの部屋に置いてあった。
そのひとつをすりおろして、お皿に入れて、男の人に渡す。
男の人は、じっとそれを見下ろしていたかと思うと……つうっと、前髪の下──頬を涙が伝うのが、見えた。

「……兄さんが、死んだんです」

かすれたその声は、とてもとてもちいさくて、弱々しかった。
ああ、……この人はいまとてもとても疲れているんだ。
心も身体も疲れ果てて、誰かの手が必要なんだ。
そう思った瞬間、わたしはその人を、ぎゅっと抱きしめていた。
また、ふわりとバニラの香りが鼻孔をくすぐる。

「大丈夫。あなたは、生きています。まずは、食べましょう。食べることは生きること、ですよ」

そうして身体を離すと、彼は静かに涙をこぼしながら、すりりんごをひと口、口に入れた。

「……おいしい」

ささやくように、震える声でそう言って、その人は夢中ですりりんごを食べた。
その人は、自分のことを「アキ」とだけ名乗った。

「そのままじゃ、マジで風邪引くだろ」

とりあえずの着替えとして、ナナシさんが自分の古着を持ってきて、アキさんに渡してくれた。
わけありなのか、あまり口がきけないのか声を出しにくいのかはわからなかったけれど、しゃべることはほとんどなかった。
必要なときは、わたしがケータイを渡して、そのメモアプリにアキさんが言いたい文章を書く、という形だった。

『しばらく家には帰りたくない』

アキさんはそうメモアプリに打ってわたしたちに意志を伝え

「そういうことなら、オレの家に来いよ。さすがに男と女だし、りん子ちゃんのところにはいつまでも住まわせておけないだろ? まあ家っつっても、公園にテントはってるだけだけど。この時期布団かぶってないとマジ寒いけど、案外居心地いいぜ?」

快くナナシさんがそう言ってくれて、アキさんはナナシさんのテントに寝泊まりするようになった。
わたしは昼はいなかったから、彼らふたりは昼ごはんはなんとかしていたようだったけれど、たまに夕ご飯を食べにくるようになった。
夜はたまに、だけれど、朝ごはんは、必ず。
毎日、ふたりして現れる。
ほぼナナシさんが、アキさんをむりやり連れてくる、と言ったほうが正しい。

わたしはそのときもあまりお金がなかったのだけれど、ふたりの来訪は楽しかったし、アキさんとナナシさんが、ただのたまごかけごはんをほんとうにおいしそうに食べてくれるのが、うれしかった。
そう。
わたしの朝ごはんといえば、実家にいたときとおなじだった。
毎日が、たまごかけごはん。
最初アキさんは、出された白ごはんと卵とお醤油とを、不思議そうに、順番に見比べていた。

「アキさん、もしかして……食べ方わからなかったり、する?」

ふとそう聞いてみると、はたしてアキさんは、コクリと困ったようにうなずいた。

「まさかどっかのとんでもないボンボンか? おまえ」

ナナシさんが、からからと愉快そうに笑う。
たまごかけごはんの食べ方を知らない人って、いるんだなあ。
世の中って、ほんとにいろんな人がいる。

「これはね、たまごかけごはんって言って……」

わたしは丁寧に、わたし流のたまごかけごはんの食べ方をアキさんに教えてあげた。
まず、小皿に黄身と白身とをわけてから、白身だけを白ごはんにかけて、よーくかき混ぜる。
そうしてから、その上に黄身を乗せてお醤油を自分の好みのぶんだけかけて。

「たまごかけごはんなんて、食べ方は人それぞれ好きなようにで、ほんとはいいんだよ。でもこの食べ方、ひとりで住むようになってからテレビで見て、試してみたらすごくおいしくて。アキさんも、食べてみて?」

わたしがうながすと、アキさんは恐る恐る、たまごかけごはんを口に入れた。

「どうだ。うんめーだろ」

ニッとナナシさんが白い歯を見せて笑うと、アキさんも力強くうなずいて、うれしそうに微笑んだ。
アキさんがたまごかけごはんで戸惑ったのは、最初だけ。
彼は元々が器用なのか、二度目からはたまに食べる夕食のときとおなじように、実に上品な箸使いでたまごかけごはんを食べるようになった。

「オレ、こんなにお上品にたまごかけごはんを食べる奴、初めて見た」

ナナシさんは、そうヘンに感心していたものだ。
わたしが仕事休みの日は、ナナシさんのテントにトランプやウノ、懸賞で当たった人生ゲームなんかを持ち込んで、一日中三人で遊び倒したりもした。

アキさんがわたしたちの前に現れてから、約一ヵ月。
12月のその日もわたしは仕事休みで、みんなでナナシさんのテントで、人生ゲームをして盛り上がっていた。

「おっ。子供が産まれた。ほれほれ、ふたりともご祝儀ご祝儀~」

「あー、もうナナシさんて、へんなところで運が強いよね」

ルールどおりのぶんだけゲーム紙幣を渡す、わたしとアキさん。

「けど、またアキに一番であがられんのかな。今日こそは負けねーぞ、アキ!」

アキさんは、トランプやウノはともかくとして、人生ゲームもたまごかけごはん同様、初体験だったらしかった。
だけどルールを一度で覚えてからは、いつも一位。
ナナシさんが二位で、必ずわたしがビリ。
何度やっても、いままでその順位は変わらなかった。
つい、今日こそはとわたしも熱が入る。

「次、アキさんの番だよ」

わたしがそう言った、その瞬間。
テントが、ぐらりと大きく揺れた。

「きゃっ!?」

「なんだ!?」

わたしは驚き、ナナシさんが声を上げる。
とっさに、わたしをかばうように、アキさんがわたしの身体を抱きしめる。
汗のにおいのほうが強かったけれど、でも遠くのほうで、かすかに出逢ったころの、あのバニラの香りがする。
そんなことを頭のすみで考えていられたのも、そこまでだった。
完全にテントが取り払われ、3人の、ガラの悪いかっこうをした男たちが姿を現した。

「おまえら……」

彼らを見て、ナナシさんの顔色が変わる。
3人のうちのひとりが、ニヤリと嫌な笑みを見せた。

「やっと見つけたぜ。こんなところに隠れていたとはな。おまえがここに潜んでるって、調べ上げるのにずいぶん苦労したんだぜ」

この3人……ナナシさんと、顔見知り……?

「ナナシさん……?」

おろおろしながらわたしがナナシさんを見ると、ナナシさんは、彼らを睨みつけながらも説明してくれた。

「オレ、昔やんちゃやってて……ヤクザのダチがいてさ。そいつ、組の金盗んだ疑いかけられて、追われてて。でもそいつは絶対やってないってオレ、信じてたから匿ってさ。でもオレが留守のあいだにそのダチ、連れて行かれちまって」

その友達は、組からとんでもないお仕置きを受けたらしい。
そして、いままで誰に匿われてたかをどうやらしゃべってしまったらしく、ナナシさんがそのヤクザに狙われるようになった。
それが噂になり、会社をリストラされる原因になったのだという。

「まあ組長はオレのことなんか歯牙にもかけてないんだけど。こいつら下っ端は、まだ根に持ってんだよ。オレなんか痛めつけたって、しょうがないのにな。ほんとにチンピラそのものだぜ」

「てめえ!」

ナナシさんの憎まれ口に、男のひとりがナナシさんの頬を勢いよく蹴り上げる。
後ろに倒れ込んだナナシさんに男はまたがり、さらに何度も殴りつけた。

「ナナシさん! ──やめて!」

「女房はどこかに逃がしたようだが、こんな冴えねぇ愛人がいたのか」

チンピラの中でもリーダー格らしい耳にピアスをずらりとした男が、わたしの足の先から頭のてっぺんまでを、じっと見て嫌な笑みを浮かべる。
舐めまわすようなその視線に震えるわたしの手首を、その男がつかんだ。

「この女、もらっていく」

「やめろ!」

「離して!」

わたしは必死に身をよじり、ナナシさんも叫ぶけれど、ナナシさんには男のひとりがまたがって殴り続けているし、わたしも男の力にはかなわない。
だけど、それまでわたしを抱きしめ続けていたアキさんが、ふとわたしの身体から離れ……わたしの手首をつかんで引きずっていこうとした男の頬を、殴りつけた。
そしてまた、どこにも連れていかせない、というふうに、わたしの身体をぎゅっと抱きしめる。
さっきよりも、ずっと強く。

「こいつ、……その女を離せ!」

イラついたように別の男が言うけれど、アキさんはますます腕に力をこめる。

「離せって言ってんだろ!」

「こいつ、邪魔だな。──やっちまえ」

リーダー格の男の冷たい声に、わたしが背筋を震わせるより早く。
ドン、という鈍い衝撃があった。
アキさんの身体が、わたしの身体を抱きしめたまま……動い、た?

「……っ、」

なにか言いかけて、アキさんがその場に崩れ落ちる。
背中にはナイフが刺さっていて、じわじわと血が流れ出していた。

「早く来い!」

”邪魔”なアキさんを”どかした”男のひとりがわたしの手首をつかみ、急いでその場を離れようとする。

「そこの人! 警察呼んでください! 人が刺された!」

もう日は暮れていたけれど、時間的にはそう遅くはなかった。
だから、公園の街灯ごしに見えた人影にナナシさんがそう叫んでくれなかったら、あのとき、わたしもアキさんもどうなっていたか、わからない。

幸い、ナナシさんに助けを求められた通りすがりのサラリーマンが、すぐに警察と救急車を呼んでくれた。
チンピラたちは、ちりぢりになって逃げて。

アキさんはといえば、救急車で病院に搬送された。
けれど手術が無事に終わり、個室に移動になってもなかなか麻酔が切れずにいて

「明日、またおいでください」

看護師さんに、遠回しに「帰れ」というふうに言われたのは、とうの昔に面会時間が終わったこともあるだろうけれど。
わたしとナナシさんのかっこうが、あまりに汚れていたからもあるのかもしれない。

翌日、わたしは仕事を休んで、ナナシさんと一緒にまた病院に行った。
でも既にアキさんは、そこからいなくなっていた。

「ああ。あの人なら、ゆうべのうちに別の病院に移動されましたよ」

看護師のひとりに尋ねると、そんな答えが返ってきた。

「どこの病院か、わかりますか?」

食い下がってみると、看護師は

「あなたがた、身内の方ですか? ──申し訳ありませんが、お答えすることはできません」

あからさまにあやしまれて、結局、アキさんの居場所はわからなくなってしまった。

「──病院に搬送されたことで、家族に居場所がばれたんじゃねーかな」

病院の中庭のベンチに座り、途方に暮れていたわたしに、隣に腰をかけてなにごとか考え込んでいたナナシさんが、そんなふうに言った。

「アキはきっと、家族のところに帰ったんだ」

「……そうかも、しれないね」

「アキのことだ、きっと元気さ。あいつけっこう図太いところあるからな」

ナナシさんは励ますように明るくそう言って、んーっとひとつ伸びをした。

「オレもそろそろ観念して、雅(みやび)のところに帰るかなあ」

雅、というのは確かナナシさんの奥さんの名前。
ナナシさんは奥さんの写真をすっかり汚れたパスケースの中にいつも大事に入れていて、、わたしにもよく見せてくれていた。

「でも、あのチンピラたちにまた居場所をかぎつけられたら……?」

「そうなったらそうなったで、警察を呼ぶさ。いままでみたいに恐がって逃げてても、どうしようもない。周りの大切な人間を、巻き込むだけだ。今回のことで、それがよくわかったんだ、オレ」

ナナシさんはそう言って、わたしを見下ろし

「りん子ちゃん。いままで、ありがとうな」

ニッと白い歯を見せて笑って、そうして彼もわたしの前から姿を消した。
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