つれづれ、ぐさり

小町そと

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    厳寒の2月、珍しく雪が積もった。太平洋側の雪とは楽観的なもので、3日もすれば景色は元通り、路肩に雪が残るのみである。とはいえ不便だ。慣れていないぶん怪我人も出る。
 母も例に漏れずその一人だった。
 「車出せなくなっちゃうと困るから、雪かきしようと思って。用心はしたのよ。でもまさか、玄関出た途端に滑っちゃうなんてね。もう歳かしら。今日晴れたから、お花屋さんに行く予定だったのに」
 母、久子は50代手前である。そして語尾に「のに」がついたなら、それは何かしらの形で「お前が代わりに行ってこい」のポーズである。高校生にもなってそれに無頓着でいるのは……大人ではないだろう。
 「お母さん、俺行こうか」
 「いいの?助かるわ~。矢野さんのとこよ。悠人、道分かるわよね?」
 「もちろん。どんなの買えばいいの」
 助かるわ~、ってなぁ……。でも正直、お使い(半ば圧によるものだが)を頼まれる面倒さよりも小4以来の雪に外出したい欲が勝っていた。その点で自分はまだ子供であったし、行きたい理由はもうひとつあった。寧ろそっちが目的かもしれないな、なんて。
 
 *
 玄関を出ると、冷たい空気が頬を刺してきた。午前9時5分。なるべく足跡のついていない道をザクザク進んでいった。雪上の感覚は、歯ごたえの微妙なリンゴを噛んだ時に似る。その腑に落ちない感じが、逆に新鮮で楽しい。
 フラワーショップ矢野は、クラスメイトの矢野綾也あやなりの家で経営している花屋だった。駅前の大通りを右にそれて、神社の前を通り過ぎてすぐの角にある。1階が店で、2階が住居。綾也の父が久子の幼なじみにあたるため花が入り用となればいつもここだ。
 花屋の入り口をくぐる。ふわり、と芳しい香りに包まれた。この時期でも置いてある花が案外多いことに驚く。他に客はおらず、レジも無人だった。
 「おはようございます。橋本です」
 母の、いつもの挨拶に倣う。この時間ならこんにちはでも良かったかな、なんてどうでもいいことを考えた。奥から店員が出てくる。
 「いらっしゃいませ。あ、悠人」
 綾也だ。ゆるい天然パーマを少し伸ばして、細縁の眼鏡を掛けている。色も白く、クラスではあまり目立たない。休みの日は大体こうして店番をしている。
 「よー、綾也」
 「どうしたの、こんな雪なのに。大変じゃなかった?」
 綾也は笑った。心配する言葉とはうらはらに嬉しそうだ。
 「その雪で母親が足滑らせちゃってさ。代打、俺」
 「え、そうなの。お大事にね」
 「さんきゅー、伝えとく。それに、雪積もるとか本当久しぶりだし。むしろ楽しみながら来た」
 「足跡つけたり?」
 「そう」
 「僕も、朝やった」
 「だよな」 
 お互いに笑った。
 「今日はどうしたの?」
 「なんか母親がブーケを作ってほしいみたいでさ。あ、買うんじゃなくて予約なんだけどな。星野さんの下の子が小学校卒業するからって」
 「星野さんって悠人の隣に住んでる?」
 「そう。俺の時も貰ったから、って」
 学区が小さいため、子どものイベントを含め地域内のことは皆ほとんど把握しているのだ。近隣の花屋もここの他に2軒あるかどうかで、予約は早めにしておかないと3月なんて慌ただしくなってしまう。
 「了解。サイズは小さめ?確か女の子だったよね、ピンク系でまとめた感じが良いかな」
 「うん、そんな大きくなくていい、って。色とかは俺詳しくないから任せるよ」
 「はーい、承りました。ありがとうございます」
 綾也は注文票に、悴んでいるであろう手で書き込む。なめらかな前髪が俯く顔を隠している。地味に見えるが、すっと通った鼻筋と、うす紅いろの唇を持つ少年だ。よく見なければ分からない。目立つのが嫌いなために似合わない眼鏡を掛けているからだ。意図的に地味に徹している。綾也はひとを惹き付けるなにかを、その双眸にたたえている。誰もそれに気付かない。
 少なくとも、俺以外は。
 書き終わったらしく顔を上げた綾也は、ずっと俺が見ていたことに気付くとうっすらと頬を染めた。
 「あの、悠人──」
 なにか言いたそうな唇に構わず、静かにキスを落とす。
 「ん……」
 ぱっと離れてみる。
 「綾也、遮ってごめん。なに?」
 「……何言おうとしたか忘れた」
 綾也はふい、と横を向いた。赤い耳を隠しきれていないあたり、いとおしい。
 「綾也、かわいい」
 「……うるさい」
 「ねぇ、」
 眼鏡とっていい?
 こちらに顔を向けた綾也は、とんでもなく恥ずかしそうで、たまらなくかわいかった。そのまま目を閉じた。とっていい、の合図だ。
 眼鏡のつるを広げ、慎重に外してやる。長い睫毛をゆるりと持ち上げて、切れ長の美しい眼が現れた。ああ、やっぱりきれいだ。透明なガラス玉のような、それでいて奥深い黒を併せ持った稀有な眼だった。
   「……ね、好きだよ」
     素顔を散々見たあとで耳元に囁くと、綾也はびくんと肩を震わせた。軽く涙目になっている。
  「…………ほんとにもう、悠人の声は」
  「なあに」
  「…………」
  「俺の声は……?」
  「……腰に、くる」
  「知ってる」
  するり、と腰を抱き寄せた。
 
 *
 「ただいま」
 「おかえり、悠人。遅かったんじゃない?お花予約出来た?」
 見れば時計は午後に差し掛かろうとしていた。
    「うん。綾也が店番だったから雪かきの手伝いしてきた」
 「あら、そうなの。お疲れさま。寒かったでしょ、顔赤いわよ。ココアか何か飲む?」
 「あー……ごめん、甘いのはいいや」
 
    雪。どんなに不純な動機も行動も、覆い隠してしまうような白。そんな天の寛容さに甘えた朝だった。
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