1 / 2
白
しおりを挟む
厳寒の2月、珍しく雪が積もった。太平洋側の雪とは楽観的なもので、3日もすれば景色は元通り、路肩に雪が残るのみである。とはいえ不便だ。慣れていないぶん怪我人も出る。
母も例に漏れずその一人だった。
「車出せなくなっちゃうと困るから、雪かきしようと思って。用心はしたのよ。でもまさか、玄関出た途端に滑っちゃうなんてね。もう歳かしら。今日晴れたから、お花屋さんに行く予定だったのに」
母、久子は50代手前である。そして語尾に「のに」がついたなら、それは何かしらの形で「お前が代わりに行ってこい」のポーズである。高校生にもなってそれに無頓着でいるのは……大人ではないだろう。
「お母さん、俺行こうか」
「いいの?助かるわ~。矢野さんのとこよ。悠人、道分かるわよね?」
「もちろん。どんなの買えばいいの」
助かるわ~、ってなぁ……。でも正直、お使い(半ば圧によるものだが)を頼まれる面倒さよりも小4以来の雪に外出したい欲が勝っていた。その点で自分はまだ子供であったし、行きたい理由はもうひとつあった。寧ろそっちが目的かもしれないな、なんて。
*
玄関を出ると、冷たい空気が頬を刺してきた。午前9時5分。なるべく足跡のついていない道をザクザク進んでいった。雪上の感覚は、歯ごたえの微妙なリンゴを噛んだ時に似る。その腑に落ちない感じが、逆に新鮮で楽しい。
フラワーショップ矢野は、クラスメイトの矢野綾也の家で経営している花屋だった。駅前の大通りを右にそれて、神社の前を通り過ぎてすぐの角にある。1階が店で、2階が住居。綾也の父が久子の幼なじみにあたるため花が入り用となればいつもここだ。
花屋の入り口をくぐる。ふわり、と芳しい香りに包まれた。この時期でも置いてある花が案外多いことに驚く。他に客はおらず、レジも無人だった。
「おはようございます。橋本です」
母の、いつもの挨拶に倣う。この時間ならこんにちはでも良かったかな、なんてどうでもいいことを考えた。奥から店員が出てくる。
「いらっしゃいませ。あ、悠人」
綾也だ。ゆるい天然パーマを少し伸ばして、細縁の眼鏡を掛けている。色も白く、クラスではあまり目立たない。休みの日は大体こうして店番をしている。
「よー、綾也」
「どうしたの、こんな雪なのに。大変じゃなかった?」
綾也は笑った。心配する言葉とはうらはらに嬉しそうだ。
「その雪で母親が足滑らせちゃってさ。代打、俺」
「え、そうなの。お大事にね」
「さんきゅー、伝えとく。それに、雪積もるとか本当久しぶりだし。むしろ楽しみながら来た」
「足跡つけたり?」
「そう」
「僕も、朝やった」
「だよな」
お互いに笑った。
「今日はどうしたの?」
「なんか母親がブーケを作ってほしいみたいでさ。あ、買うんじゃなくて予約なんだけどな。星野さんの下の子が小学校卒業するからって」
「星野さんって悠人の隣に住んでる?」
「そう。俺の時も貰ったから、って」
学区が小さいため、子どものイベントを含め地域内のことは皆ほとんど把握しているのだ。近隣の花屋もここの他に2軒あるかどうかで、予約は早めにしておかないと3月なんて慌ただしくなってしまう。
「了解。サイズは小さめ?確か女の子だったよね、ピンク系でまとめた感じが良いかな」
「うん、そんな大きくなくていい、って。色とかは俺詳しくないから任せるよ」
「はーい、承りました。ありがとうございます」
綾也は注文票に、悴んでいるであろう手で書き込む。なめらかな前髪が俯く顔を隠している。地味に見えるが、すっと通った鼻筋と、うす紅いろの唇を持つ少年だ。よく見なければ分からない。目立つのが嫌いなために似合わない眼鏡を掛けているからだ。意図的に地味に徹している。綾也はひとを惹き付けるなにかを、その双眸にたたえている。誰もそれに気付かない。
少なくとも、俺以外は。
書き終わったらしく顔を上げた綾也は、ずっと俺が見ていたことに気付くとうっすらと頬を染めた。
「あの、悠人──」
なにか言いたそうな唇に構わず、静かにキスを落とす。
「ん……」
ぱっと離れてみる。
「綾也、遮ってごめん。なに?」
「……何言おうとしたか忘れた」
綾也はふい、と横を向いた。赤い耳を隠しきれていないあたり、いとおしい。
「綾也、かわいい」
「……うるさい」
「ねぇ、」
眼鏡とっていい?
こちらに顔を向けた綾也は、とんでもなく恥ずかしそうで、たまらなくかわいかった。そのまま目を閉じた。とっていい、の合図だ。
眼鏡のつるを広げ、慎重に外してやる。長い睫毛をゆるりと持ち上げて、切れ長の美しい眼が現れた。ああ、やっぱりきれいだ。透明なガラス玉のような、それでいて奥深い黒を併せ持った稀有な眼だった。
「……ね、好きだよ」
素顔を散々見たあとで耳元に囁くと、綾也はびくんと肩を震わせた。軽く涙目になっている。
「…………ほんとにもう、悠人の声は」
「なあに」
「…………」
「俺の声は……?」
「……腰に、くる」
「知ってる」
するり、と腰を抱き寄せた。
*
「ただいま」
「おかえり、悠人。遅かったんじゃない?お花予約出来た?」
見れば時計は午後に差し掛かろうとしていた。
「うん。綾也が店番だったから雪かきの手伝いしてきた」
「あら、そうなの。お疲れさま。寒かったでしょ、顔赤いわよ。ココアか何か飲む?」
「あー……ごめん、甘いのはいいや」
雪。どんなに不純な動機も行動も、覆い隠してしまうような白。そんな天の寛容さに甘えた朝だった。
母も例に漏れずその一人だった。
「車出せなくなっちゃうと困るから、雪かきしようと思って。用心はしたのよ。でもまさか、玄関出た途端に滑っちゃうなんてね。もう歳かしら。今日晴れたから、お花屋さんに行く予定だったのに」
母、久子は50代手前である。そして語尾に「のに」がついたなら、それは何かしらの形で「お前が代わりに行ってこい」のポーズである。高校生にもなってそれに無頓着でいるのは……大人ではないだろう。
「お母さん、俺行こうか」
「いいの?助かるわ~。矢野さんのとこよ。悠人、道分かるわよね?」
「もちろん。どんなの買えばいいの」
助かるわ~、ってなぁ……。でも正直、お使い(半ば圧によるものだが)を頼まれる面倒さよりも小4以来の雪に外出したい欲が勝っていた。その点で自分はまだ子供であったし、行きたい理由はもうひとつあった。寧ろそっちが目的かもしれないな、なんて。
*
玄関を出ると、冷たい空気が頬を刺してきた。午前9時5分。なるべく足跡のついていない道をザクザク進んでいった。雪上の感覚は、歯ごたえの微妙なリンゴを噛んだ時に似る。その腑に落ちない感じが、逆に新鮮で楽しい。
フラワーショップ矢野は、クラスメイトの矢野綾也の家で経営している花屋だった。駅前の大通りを右にそれて、神社の前を通り過ぎてすぐの角にある。1階が店で、2階が住居。綾也の父が久子の幼なじみにあたるため花が入り用となればいつもここだ。
花屋の入り口をくぐる。ふわり、と芳しい香りに包まれた。この時期でも置いてある花が案外多いことに驚く。他に客はおらず、レジも無人だった。
「おはようございます。橋本です」
母の、いつもの挨拶に倣う。この時間ならこんにちはでも良かったかな、なんてどうでもいいことを考えた。奥から店員が出てくる。
「いらっしゃいませ。あ、悠人」
綾也だ。ゆるい天然パーマを少し伸ばして、細縁の眼鏡を掛けている。色も白く、クラスではあまり目立たない。休みの日は大体こうして店番をしている。
「よー、綾也」
「どうしたの、こんな雪なのに。大変じゃなかった?」
綾也は笑った。心配する言葉とはうらはらに嬉しそうだ。
「その雪で母親が足滑らせちゃってさ。代打、俺」
「え、そうなの。お大事にね」
「さんきゅー、伝えとく。それに、雪積もるとか本当久しぶりだし。むしろ楽しみながら来た」
「足跡つけたり?」
「そう」
「僕も、朝やった」
「だよな」
お互いに笑った。
「今日はどうしたの?」
「なんか母親がブーケを作ってほしいみたいでさ。あ、買うんじゃなくて予約なんだけどな。星野さんの下の子が小学校卒業するからって」
「星野さんって悠人の隣に住んでる?」
「そう。俺の時も貰ったから、って」
学区が小さいため、子どものイベントを含め地域内のことは皆ほとんど把握しているのだ。近隣の花屋もここの他に2軒あるかどうかで、予約は早めにしておかないと3月なんて慌ただしくなってしまう。
「了解。サイズは小さめ?確か女の子だったよね、ピンク系でまとめた感じが良いかな」
「うん、そんな大きくなくていい、って。色とかは俺詳しくないから任せるよ」
「はーい、承りました。ありがとうございます」
綾也は注文票に、悴んでいるであろう手で書き込む。なめらかな前髪が俯く顔を隠している。地味に見えるが、すっと通った鼻筋と、うす紅いろの唇を持つ少年だ。よく見なければ分からない。目立つのが嫌いなために似合わない眼鏡を掛けているからだ。意図的に地味に徹している。綾也はひとを惹き付けるなにかを、その双眸にたたえている。誰もそれに気付かない。
少なくとも、俺以外は。
書き終わったらしく顔を上げた綾也は、ずっと俺が見ていたことに気付くとうっすらと頬を染めた。
「あの、悠人──」
なにか言いたそうな唇に構わず、静かにキスを落とす。
「ん……」
ぱっと離れてみる。
「綾也、遮ってごめん。なに?」
「……何言おうとしたか忘れた」
綾也はふい、と横を向いた。赤い耳を隠しきれていないあたり、いとおしい。
「綾也、かわいい」
「……うるさい」
「ねぇ、」
眼鏡とっていい?
こちらに顔を向けた綾也は、とんでもなく恥ずかしそうで、たまらなくかわいかった。そのまま目を閉じた。とっていい、の合図だ。
眼鏡のつるを広げ、慎重に外してやる。長い睫毛をゆるりと持ち上げて、切れ長の美しい眼が現れた。ああ、やっぱりきれいだ。透明なガラス玉のような、それでいて奥深い黒を併せ持った稀有な眼だった。
「……ね、好きだよ」
素顔を散々見たあとで耳元に囁くと、綾也はびくんと肩を震わせた。軽く涙目になっている。
「…………ほんとにもう、悠人の声は」
「なあに」
「…………」
「俺の声は……?」
「……腰に、くる」
「知ってる」
するり、と腰を抱き寄せた。
*
「ただいま」
「おかえり、悠人。遅かったんじゃない?お花予約出来た?」
見れば時計は午後に差し掛かろうとしていた。
「うん。綾也が店番だったから雪かきの手伝いしてきた」
「あら、そうなの。お疲れさま。寒かったでしょ、顔赤いわよ。ココアか何か飲む?」
「あー……ごめん、甘いのはいいや」
雪。どんなに不純な動機も行動も、覆い隠してしまうような白。そんな天の寛容さに甘えた朝だった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
まどろむ朝、ふたりのぬくもり
推原すずめ
BL
豪とユウの予定のない休日の朝のお話。
ショートショートストーリーです。
予定のない休日の朝、まだ夢の続きにいるようなまどろみの中で目覚めたユウ。
隣にはまだ夢のなかの豪。
言葉はいらなくて、ただ腕の中のぬくもりがあればいい。
静かで穏やかな時間が、ふたりの幸せを彩ります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる