滲む墨痕

莇 鈴子

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第二章 雪泥鴻爪

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 宴会は午後六時に開始された。
 乾杯の挨拶が済むと、さっそく客たちは酒に口をつけたり料理に箸をつけたりして談笑をはじめた。下は三十代くらいから上はおそらく八十代くらいまで、年齢も性別も関係なく、酒を酌み交わし、愉しげに会話をして懇親を深めている。
 書道連盟というからには伝統を重んずる堅苦しい団体なのかと思ったがそうでもなく、人々から漂う和やかな空気は藤田のそれを思い出させた。だが上座に並ぶ七人の役員の中にも、下座へ連なる四本の列に座る会員たちの中にも、肝心のその姿はなかった。
 しかしながら、潤には気を落としている暇などない。配膳はベテラン仲居を中心とした数人のチームで行うが、宴会場での仕事が初めてとはいえ誰かのあとをついて回るわけにはいかない。美代子がいない分、ふだんよりも能動性が求められる。
「あ、お姉さん、ちょっといい?」
 下座付近の客のところに料理を出して戻ろうとしたとき、近くにいる五十代くらいの恰幅のよい男性に呼び止められた。
「いかがなさいましたか」
 なにを言われるだろうかと内心びくびくしながら、潤は着物の膝を落とし微笑んでみせた。
 男性は、細長い付出皿に少量ずつ取り合わせた八種の料理のうち、左から二番目の一品を指差す。
「これはなに?」
「そちらは旬のカマスを若狭焼きにしたものでございます」
「へえ、カマスかあ」
 男性は感心したように呟き、「ありがとう」と笑った。潤も柔和な笑みを返し、胸を撫で下ろす。
 それと同時に、美代子なら、という思いが浮かぶ。彼女なら、こうしてふいに料理について尋ねられたとき食材の特徴や味についても詳しく説明することができるだろう。料理名を答えるだけなら品書きを見せれば済むことだ。
 空になった皿を下げ、次の料理を運ぶ。合間に酒の追加注文を聞き、「この料理に合う日本酒を」と言われれば急いでベテラン仲居に訊きにいく。迅速な、しかし丁寧な対応を心がけた。
 季節の魚介のお造りや地産の和牛を使ったすき煮など、料理長自慢の料理が並ぶ膳を前に、酒が進む客たち。
 追加の瓶ビールを下座付近に届けると、さきほど料理について尋ねてきた男性が「お姉さん」とふたたび声をかけてきた。
「来てくれたついでにお酌してほしいな」
「あ……」
「おばちゃんより、若くて可愛い子についでもらった酒のほうがうまいからさ」
 ふっくらとした狸顔をにやりと緩めたその人の隣で、同じく五十代とおぼしき眼鏡をかけた女性が苦い顔で「失礼ね」と呟いた。そして潤にすまなそうな笑みを向ける。
「お姉さん、ごめんね。こんなおじさん気にしなくていいからね」
「い、いえ……」
 男性はその顔を歪め、拗ねた子供のように声を荒げる。
「なんだよお。少しくらい構わないだろう」
「お客様……皆様に順序よく召し上がっていただくためにすばやく料理をお配りしていますので……申し訳ございません」
 潤は折れそうな心をできるかぎりの笑顔で覆い隠し、男性の気分を損ねないよう言葉を選んでお酌を断った。早く配膳の仕事に戻らなければという焦りもあった。
 すると、男性が目の色を変えた。
「そんなマニュアル対応じゃつまらないよ」
「……っ」
「君、新人?」
 ここの嫁です、とはさすがに言えずに「はい」と返事をすると、男性はうすら笑いを浮かべた。
「やっぱり。笑顔が引きつっているからすぐにわかったよ。全体的にぎこちないんだよね。サービス精神が足りないっていうかさ。そんなんじゃ老舗旅館の仲居は務まらないよ」
 その言い分に内心傷つきながらも、たしかにそうだ、と潤は思った。基本的に宴会でのお酌は仲居の仕事ではない。だが時と場合を考えれば、もう少し柔軟にさりげなく対応できたかもしれない。
「ああ……まったくもう」
 眼鏡の女性が盛大なため息とともに呟いた。
「だから嫌だったのよ、木村さん酔うと面倒だから」
「なっ……」
 男性もなにかを言い返そうと口をひらいた、そのときだった。
「木村さん、ほどほどにしましょうよ。仲居さんはコンパニオンじゃないんですから」
 背後で聞こえた優しげな低音が救いの神のように降りてきた。
 すぐにそれが聞き覚えのある声だと気づき、はっと振り向いて見上げると、そこには淡い煤色のクルーネックセーターを着た男が立っていた。
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