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第二章 雪泥鴻爪
十九
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野島屋に続く車道の向こうから、鈍い足音とともに人影が近づいてきた。
「潤さん……!」
ふだんより焦燥感を増した冷たい声に呼ばれ、心臓が早鐘を打つ。このまま鼓動が暴走して突然止まってしまうのではないかと思い、潤は胸にこぶしを押しつけた。
街灯が浮かび上がらせるのは、着物の上に羽織を着た女将が草履で小走りに向かってくる姿。それが薄く積もった雪に足を取られて一瞬よろけた。
潤はとっさに駆け寄った。
手を差し伸べられることを嫌ってか、女将はすかさず体勢を立て直し、ふだんどおりの立ち姿で静かに佇む。
白い息が女将に届かない距離で潤は立ち止まった。まっすぐに送られてくる鋭い視線は乱れたまとめ髪から徐々に下がり、やがて左手に収まるラッピング袋に留まった。トートバッグに入れておかなかったことを後悔してももう遅い。
穢らわしいものでも見るかのようなその目は、ため息とともに失望の色を濃くした。
「たかがこんなもの、疑いの種にもならないと思っているのでしょうね」
「…………」
「どこで手に入れたか尋ねられたら、あなた説明できるの」
「そ、それは」
「なんと軽率な」
そのひとことに心臓を突き刺されて口を閉ざすと、女将の冷ややかな視線はふと潤の後方に移された。
「それともあの方、わざと……」
疑念を孕んだその呟きと目線に突き動かされ、潤は衝動的に振り返った。
十数メートル先には黒いSUVが変わらず同じ位置にある。運転席の様子は暗くてよく見えない。
ドアがひらき、藤田がその姿を現した。
潤はとっさに女将に向き直る。彼女は厳しい表情で藤田を見据えていた。
ふたたび後ろへ視線を戻した潤の目に入ったのは、薄暗闇の中にある長身が深く一礼する瞬間だった。その所作が丁寧で美しいことは遠くから見てもわかった。
数秒後、藤田がゆっくりと上体を起こした。
きっと凛々しい表情を崩さずにいるに違いない。そう思いながら潤は無意識のうちに左手に力を込めた。ラッピング袋がかさりと音を立てた。
危うい均衡を引き裂く音に反応した女将が鋭い目をそれに落とす。
「私が処分しておきます」
それだけ言うと筋張った細い手を差し出した。
「あ、あの、これは……」
なんと説明すればよいのかわからずに口ごもると、すっと近づいてきた女将は続きを聞く気はないと言わんばかりにそれを奪い取った。
「そ、それはっ……先生の生徒さんがっ」
「だからなんだというの!」
冷気を切り裂く荒々しい声が放たれた。これほどまでに怒りを露わにする女将の姿を見るのは初めてだった。
脚が震えている。今にも崩れ落ちそうなほどに。寒さからか、それとも恐怖か。どちらにせよ全身が萎縮していることは明白だった。
女将は小さな息をひとつ吐き、藤田を一瞥すると、背を向けて静かに言った。
「雪、たいして積もらなかったわね。明日には解けているでしょう。今のあなたたちと同様」
突然の言葉に潤が息を呑むと、それを背中で感じ取ったのか女将はこう続けた。
「あの方との軽薄な関係など儚いものよ。すぐに解け、消える。跡形もなく。私の言わんとすること、わかるわね。誠二郎のそばを離れる覚悟がないのなら」
その名を耳にした瞬間、心が凍てついていく。流れる熱い血が凝固するように。
盲目的に、中途半端な覚悟で夫以外の男に抱かれようとした、ずるくて汚い女は現実に引き戻された。
「申し訳、ありませ……っ、申し訳ありません……」
頭を下げながら、なにに対する謝罪なのか自分でもわからなくなっていた。すでに起こってしまった過ちへの反省、あるいは、これから起こるかもしれない崩壊への懺悔。漠然とした不安にかき立てられるまま、潤は何度もそれを繰り返した。
やがて、「早く来なさい」という呆れ声が今夜の秘事を闇に葬った。振り返らずに歩き去る女将の足跡を追って、潤は冷えきった足を踏み出した。
薄い雪を踏みしめながら数歩進み、やはり耐えられずに後ろを振り向けば、遠くで佇んだまま動かない男の姿が視界に入った。
かすかに彼が笑みを浮かべたように見えた。だがそれは、そうであってほしいと切望する愚か者が脳内で創りあげた儚い幻だったのかもしれない。
潤は彼から顔を背け、溢れ出る涙を指で拭いながら未練を振り払うようにその場をあとにした。
明日には、雪解けとともにこの足跡も消えるだろう。跡形もなく。
『雪泥鴻爪』
雪泥の上の鴻の爪跡。雪解けのぬかるみに鴻が爪の跡を残してもすぐに消えるという意味から、世間の出来事や人の行いなどが消え跡形のないこと。
「潤さん……!」
ふだんより焦燥感を増した冷たい声に呼ばれ、心臓が早鐘を打つ。このまま鼓動が暴走して突然止まってしまうのではないかと思い、潤は胸にこぶしを押しつけた。
街灯が浮かび上がらせるのは、着物の上に羽織を着た女将が草履で小走りに向かってくる姿。それが薄く積もった雪に足を取られて一瞬よろけた。
潤はとっさに駆け寄った。
手を差し伸べられることを嫌ってか、女将はすかさず体勢を立て直し、ふだんどおりの立ち姿で静かに佇む。
白い息が女将に届かない距離で潤は立ち止まった。まっすぐに送られてくる鋭い視線は乱れたまとめ髪から徐々に下がり、やがて左手に収まるラッピング袋に留まった。トートバッグに入れておかなかったことを後悔してももう遅い。
穢らわしいものでも見るかのようなその目は、ため息とともに失望の色を濃くした。
「たかがこんなもの、疑いの種にもならないと思っているのでしょうね」
「…………」
「どこで手に入れたか尋ねられたら、あなた説明できるの」
「そ、それは」
「なんと軽率な」
そのひとことに心臓を突き刺されて口を閉ざすと、女将の冷ややかな視線はふと潤の後方に移された。
「それともあの方、わざと……」
疑念を孕んだその呟きと目線に突き動かされ、潤は衝動的に振り返った。
十数メートル先には黒いSUVが変わらず同じ位置にある。運転席の様子は暗くてよく見えない。
ドアがひらき、藤田がその姿を現した。
潤はとっさに女将に向き直る。彼女は厳しい表情で藤田を見据えていた。
ふたたび後ろへ視線を戻した潤の目に入ったのは、薄暗闇の中にある長身が深く一礼する瞬間だった。その所作が丁寧で美しいことは遠くから見てもわかった。
数秒後、藤田がゆっくりと上体を起こした。
きっと凛々しい表情を崩さずにいるに違いない。そう思いながら潤は無意識のうちに左手に力を込めた。ラッピング袋がかさりと音を立てた。
危うい均衡を引き裂く音に反応した女将が鋭い目をそれに落とす。
「私が処分しておきます」
それだけ言うと筋張った細い手を差し出した。
「あ、あの、これは……」
なんと説明すればよいのかわからずに口ごもると、すっと近づいてきた女将は続きを聞く気はないと言わんばかりにそれを奪い取った。
「そ、それはっ……先生の生徒さんがっ」
「だからなんだというの!」
冷気を切り裂く荒々しい声が放たれた。これほどまでに怒りを露わにする女将の姿を見るのは初めてだった。
脚が震えている。今にも崩れ落ちそうなほどに。寒さからか、それとも恐怖か。どちらにせよ全身が萎縮していることは明白だった。
女将は小さな息をひとつ吐き、藤田を一瞥すると、背を向けて静かに言った。
「雪、たいして積もらなかったわね。明日には解けているでしょう。今のあなたたちと同様」
突然の言葉に潤が息を呑むと、それを背中で感じ取ったのか女将はこう続けた。
「あの方との軽薄な関係など儚いものよ。すぐに解け、消える。跡形もなく。私の言わんとすること、わかるわね。誠二郎のそばを離れる覚悟がないのなら」
その名を耳にした瞬間、心が凍てついていく。流れる熱い血が凝固するように。
盲目的に、中途半端な覚悟で夫以外の男に抱かれようとした、ずるくて汚い女は現実に引き戻された。
「申し訳、ありませ……っ、申し訳ありません……」
頭を下げながら、なにに対する謝罪なのか自分でもわからなくなっていた。すでに起こってしまった過ちへの反省、あるいは、これから起こるかもしれない崩壊への懺悔。漠然とした不安にかき立てられるまま、潤は何度もそれを繰り返した。
やがて、「早く来なさい」という呆れ声が今夜の秘事を闇に葬った。振り返らずに歩き去る女将の足跡を追って、潤は冷えきった足を踏み出した。
薄い雪を踏みしめながら数歩進み、やはり耐えられずに後ろを振り向けば、遠くで佇んだまま動かない男の姿が視界に入った。
かすかに彼が笑みを浮かべたように見えた。だがそれは、そうであってほしいと切望する愚か者が脳内で創りあげた儚い幻だったのかもしれない。
潤は彼から顔を背け、溢れ出る涙を指で拭いながら未練を振り払うようにその場をあとにした。
明日には、雪解けとともにこの足跡も消えるだろう。跡形もなく。
『雪泥鴻爪』
雪泥の上の鴻の爪跡。雪解けのぬかるみに鴻が爪の跡を残してもすぐに消えるという意味から、世間の出来事や人の行いなどが消え跡形のないこと。
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