滲む墨痕

莇 鈴子

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第三章 一日千秋

十二

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 優秀な兄が勉強部屋として使っていたこの場所は、誠二郎が中学二年のころに兄が大学進学を機に出ていってから誠二郎のものになった。
 そして高校二年の夏休み。当時二十三歳だった美代子と出会って以来、ここは特別な場所となった。
 美代子のことはひと目で気に入った。旅館の仕事になど興味がない誠二郎だったが、彼女見たさにこっそりと侵入し、廊下の陰からその姿を観察した。
 慣れないはずの着物でもしなやかに動き、周りをよく見て気配りのできる優秀な新人。その身体から滲み出る妖艶さと、ふいに見え隠れする愁いを直感的に感じ取ったとき、腹の底でなにかが暴発した。
 誠二郎は美代子から勉強を教わりたいと父に打ち明けた。長男と違って物静かな次男の頼みということもあり、父は小首を傾げながらも美代子に話をつけてくれた。彼女は快諾した。
 それがふたりきりで会うための口実だと、賢い彼女は気づいていたのかもしれない。この部屋に来るときだけ、美代子は唇を紅く塗っていた。食べごろの果実のごとく鮮やかで、薄化粧された顔の中でそこだけが浮いていた。まるで強調されているように。
 誠二郎は、色を濃くしたその薄い唇が醜い欲望ごと自身を吸い込んでくれると錯覚していた。そうして迷わずその色情に従った。
 きっかけはささいなことだった。並んで机に向かう美代子がなにかをノートに書くためわずかに首を前に倒したときだった。白い首筋にはほんのりと汗が滲み、綺麗なうなじに湿った細い毛が貼りついていた。それを凝視していると、気づいた美代子がこちらに顔を向けた。
 困惑と静かな興奮の中で数秒見つめ合ったのち、美代子が視線を誠二郎の口に落としながらうっすらと唇をひらいた。それが暴走への合図となった。ゆっくりと首をひねる扇風機の風がノートをぱらぱらとめくり、貪り合うふたりの汗ばんだ頬を撫でた。
 あの頃は、本当に夢中だった。逢瀬を重ねるごとに秘密の行為は濃厚になり、湿度を増した。
 はち切れそうな分身を自分の手以外で最初に慰めたのは美代子の口だった。柔らかな唇、這いまわる濡れた舌に弄ばれ、あたたかな口内に吸い込まれた瞬間、はじめて得る感覚に少年は震えあがった。ときにはよつ這いで後ろを舐めまわされながら分身を扱かれ、狼狽と羞恥と快感に情けない声で喘いだ。
 しかし、美代子は最後の一線を越えることを許さなかった。彼女の中に自身を沈めたくてたまらない誠二郎を優しくなだめ、ほとばしる欲をその口で受け止めた。
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