滲む墨痕

莇 鈴子

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第五章 泡沫夢幻

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 半年後に控えているという個展の打ち合わせのため訪れたのは、大通りから一本外れた道にひっそりと構える老舗画廊だった。
 入り口のガラス扉の向こうには、古めかしい洋館の一室を思わせる展示室が見える。
「少し驚かせてしまうかもしれませんが、僕を信じてくださいね」
 脱いだ黒のスタンドカラーコートを腕にかけながら意味ありげなことを言った藤田は、先に一歩踏み出しておもむろにガラス扉を開けた。
 彼の言葉を反芻する暇もなく、潤は急いで薄灰色のチェスターコートを脱ぐと、前を行く葡萄茶色のセーターの背中を追って絨毯の敷かれた室内にパンプスの足を踏み入れた。
 ちょうどそのとき、受付台の奥に見える事務室らしき部屋からひとりの女性が出てきた。
「あら、お早いですね」
 細身の上質そうな濃紺のパンツスーツを着こなすその人は、有能さが窺える低めの透きとおった声を発して知的な微笑をたたえた。
「お久しぶりです、藤田さん」
 親しげに声をかけてきた女性は、ふと視線を藤田から潤に移し、注視した。知った顔ではないと判断したのだろう、改めてとびきり美しい笑みを浮かべた。
「はじめまして。白石です」
「あっ、はじめまして。私、野島と申します。藤田先生とは、その……」
 関係性をうまく説明することができずに言い淀むと、隣で低い咳払いが聞こえた。
「彼女は僕のアシスタントです」
 白石からなにか問われる前に、それまで黙っていた藤田がさりげない嘘で助け舟を出した。
「アシスタント……」
 白石は呟きながら探るようなまなざしで潤の全身をひと撫ですると、うふふ、と上品に笑った。
「かわいらしい奥様が付き添いでいらしたのかと思いました」
 藤田に買ってもらった洋服の中からブラウスとタイトスカートを合わせてビジネスらしさを意識したのだが、そう言われてしまうと、たしかに助手には見えないかもしれない。醸し出す空気がビジネスの場とはすっかり縁遠くなったことを実感し、潤は繕った笑みを返すしかなかった。
「きちんとご挨拶もせずに失礼いたしました」
 わざとらしく眉を下げて申し訳なさげに言った白石は、スーツの内ポケットからごく薄いレザーケースを抜き取ると、長細い指で一枚の白い紙を取り出した。正面に立ってそれを差し出してくる。名刺だ。
「改めまして、白波画廊の白石真波と申します。以後、お見知りおきを」
 ブラウンレッドの唇から発されたその美しい名は、打ち寄せる波の音のように心地よく響いた。
 潤は、おずおずと両手で名刺を受け取った。こちらが持っていないことをどう言い訳しようかと思った矢先、藤田がふたたび口を挟んだ。
「彼女の名刺はまだできていないんです。アシスタントになって間もないので」
「構いませんわ。どうぞこちらへ」
 笑顔で言い、白石は背を向けた。すらりとした後ろ姿が受付台のすぐ横に見える扉を開けて入っていく。
 無言でそれを追う藤田についていくと、ここも芸術のひとつだと言わんばかりの重厚感溢れる空間が広がっていた。柔らかな照明の下には黄朽葉色の革張りソファ、マホガニーの猫脚ローテーブル、古そうな置物を飾ったキャビネット、そして壁にはいくつかの絵画が掛けられている。
 白石に促され、奥のふたり掛けソファに藤田と並んで座る。
 ローテーブルを挟んだひとり掛けに腰を下ろした白石は、姿勢を整えてから切り出した。
「まずは八月に開かれた藤田千秋展、ご成功おめでとうございます。招待していただきありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざ足を運んでくださり感謝しています」
 藤田が穏やかな声で応えると、白石は嬉しそうに語りだした。
「藤田さんの生まれ故郷の空気を感じながら作品に触れるなんて、これほどすばらしいことはありません。いつにも増して字に魂が宿っているように思えました。場所の力、というのでしょうか……もっと感じていたかったのですが、日帰りなのが残念でした」
「愉しんでいただけたようでなによりです」
「ええ、とても。歴史ある旅館の多い町ですから、今度はゆっくり宿泊させていただきます」
「ありがとうございます」
「そのときは案内していただけますか」
「喜んで」
「まあっ、嬉しいです」
 両手で口を覆いながら声をあげた白石は、視線だけをずらして潤に笑いかけた。
 冷ややかなようで、いやらしくもある目つき。激しく焦燥感を煽られ、潤は膝の上でこぶしを握りしめた。
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