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第一部
23.宮廷舞踏会(前編)
しおりを挟むアレクシスと共に王宮の大ホールに足を踏み入れたエリスは、その荘厳さと人の多さに圧倒された。
まずとにかく広いのだ。
スフィア王国の王宮の十倍はあるだろう。
二階席のある吹き抜けの天井は、見上げると首を痛めてしまいそうなほどの高さがあり、ぶら下がるシャンデリアの数も馬鹿にならない。
二十……いや、三十はあるだろうか。
あれだけの数のシャンデリアを支えるためには、天井にも柱にもかなりの強度が必要なはず。
壁や柱に施された彫刻や金の装飾も、見事という他ない。
(やっぱり、帝国って凄いんだわ。それに、聞いてはいたけど人がとても多い)
エリスは女官から、宮廷舞踏会について一通りの説明を受けていた。
まず、宮廷舞踏会が行われるのは年に一度。開催時期は、社交シーズンの最も盛りな五月の初めだ。
時間は午後八時から十二時までの四時間。
出席者は成人済みの皇族と妃たち、伯爵位以上の貴族とその妻。また、軍の将官、それに各国から招かれた王族など総勢千名以上が参加する、政治的に重要な行事である。
とは言え、舞踏会のしきたりは全く厳格なものではなかった。
最初に皇帝と皇后が一曲踊り、次に皇子とその妃が躍る。そして未婚の皇子と皇女が躍ったら、あとは最後まで自由時間というフランクなものだ。
踊りたければ踊ればいい、食事をしてもいい。帰りたければ帰ってもいい、と。
実際、アレクシスは馬車の中でこう言っていた。
「陛下は毎年最初の一曲を踊られたら、すぐに退席される。俺も去年まではそうしていた」と。
エリスはそれを聞いたとき、まさか冗談だろうと思った。
一曲で退席するなんてことが本当に許されるのかと。
だが、一緒に馬車に乗っていたセドリックが事実であると認めたのだ。
「殿下は毎年一曲踊ったら、すぐお帰りになられます」――と。
それを聞いた瞬間、エリスはそれまで多少は感じていた緊張というものが全て吹き飛んでしまった。
だが、それでも一つだけ気がかりなことがあった。
それは、アレクシスとちゃんと踊れるだろうかということだった。
そもそも、エリスとアレクシスは一度も一緒にダンスをしたことがない。
アレクシスは三日前までずっと帰りが遅かったため、ダンスのことに気を回している余裕がなかったからだ。
(そう言えばわたし、去年ユリウス殿下と踊ったのを最後に、もうずっと踊ってないわ)
エリスは案内された皇族専用の席に腰を落ち着けながら、ユリウスと踊った最後のダンスのことを思い出す。
――それはもう半年も前、ユリウスから婚約破棄される一月前の、雪の降る寒い日のこと。
ユリウスがウィンザー公爵邸を訪れて、エリスにドレスをプレゼントしてくれた。
「年が明けた最初の宮廷舞踏会で、これを着てほしい。きっと君に似合うと思う」と。
もちろんエリスは喜んで受け取った。
恋人からの贈り物だからというのもあるが、自分を虐げる家族も、ユリウスからの贈り物には絶対に手を出さなかったからである。
「ありがとうございます、殿下。舞踏会、楽しみにしています」
エリスがそう答えると、ユリウスは嬉しそうに笑った。
そしてその後「せっかくだから今から一曲踊ろうよ。予行練習だと思って」と誘われ、一曲踊ったのだ。
(今思えば、あれが最後のダンスだった。舞踏会当日は、ダンスどころかエスコートすらなかったから……)
婚約破棄されたあの日のことを思い出し、エリスは顔を曇らせる。
ここが舞踏会場だからだろうか。
最近はすっかり思い出さなくなっていたあの夜の辛い記憶が、急に鮮明に蘇ってくる。
会場のざわめきが、女性たちのヒソヒソという話し声が、シャンデリアの眩い灯りが、この広い空間が、自分を蔑むように見下ろす沢山の目が……「君との婚約を破棄する」と冷たく言い渡されたときのあの声が、耳の奥でこだまする。
「――っ」
――怖い。
ここにいるのが怖い。今すぐ逃げだしてしまいたい。
ここはあのときの場所ではないのに、隣にいるのはユリウスではなくアレクシスだと理解しているのに、手足が急激に体温を失っていく。
(どうしましょう……。わたし、踊れそうにない)
踊れない。こんな状態で踊れるわけがない。
でも、踊らなくては。……踊らなくては。
(だってわたしは、皇子妃なのだから)
けれどそんな思いとは裏腹に、どんどんと冷えていく指先。無くなっていく手足の感覚。
いつの間にか始まっていた皇帝と皇后のダンスを前にしても、自分の踊っているイメージが少しも湧いてこなかった。
美しい弦楽器の音色も、好きだったはずの三拍子のリズムも、今はただ、耳を塞いでしまいたいものでしかなくて。
それでも、否応なしにダンスの順番は回ってくる。
エリスは真っ白な頭のままアレクシスに手を引かれ、気付いたときには他の皇子や妃らと共に、ホールの中央に立っていた。
「――っ」
(待って……まだ、踊れない)
手足に震えが走る。
怖くて怖くて、足が竦んでしまう。
人の視線が痛い。注目されるのが、どうしようもなく怖い。
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