60 / 198
第二部
5.エリスとシオンの午後のひととき(後編)
しおりを挟む
◇
それからしばらく、二人はお茶を嗜みながら談笑した。
エリスが、「勉強の方はどう?」と聞くと、シオンは「順調だよ。今日は帝国法について勉強したんだけど、法体系はランデル王国とそれほど変わらなかったんだ。これならきっと、入学までには間に合うと思う」と笑顔で答え、
シオンが「姉さんは今日何をしていたの?」と尋ねれば、エリスは「午前中は本を読んで、その後はスコーンを焼いていたわ。今あなたが食べているものを」と微笑み、シオンを驚かせた。
「えっ、これ、姉さんが焼いたの?」
「そうよ。実は昨日のパイと、一昨日のサンドイッチもわたしが作ったの」
「嘘!? ……全然気が付かなかった。確かに、度々部屋から姉さんの気配がなくなるなと思ってはいたけど……」
「? わたしの気配?」
「――あ。……いや、こっちの話」
「……?」
シオンはエリスから視線を逸らし、皿の上の食べかけのスコーンをじっと見下ろす。
あまりに居心地が良すぎて、本来の目的を忘れてしまっている自分を不甲斐なく思いながら――。
シオンが予定より早く帝国にやってきたのは、エリスとアレクシスを別れさせたいがためだった。
冷酷無慈悲として悪名高い帝国の第三皇子。そして、過去に五回もの婚約を破談にしたほどの大の女嫌い。
でありながら、ランデル王国に初恋の女性がいるというアレクシスの魔の手から、姉を解放しなければと。
そのために、まずは内情を探らねば――そう考えたシオンは、アレクシスのいない時間帯を狙ってエリスを訪ね、宮に泊めてもらえるよう誘導した。
と同時に、「お世話になる人たちの名前を憶えたい」と言って、エリスから使用人のリストをもらい、徹夜して頭に叩きこんだ。
翌日からは、使用人たちと親密になるため奔走した。
仕事を手伝い、愚痴や悩みを聞き、彼らの主人であるアレクシスとエリスを褒め称えた。
そうして使用人たちが自分をすっかり信用したところで、アレクシスの情報を聞き出すつもりでいた。
だが、それよりも早く、シオンは気付いてしまったのだ。
エリスがアレクシスを好いていることに。
そしてまた、アレクシスもエリスを愛しているということに。
(帝国では『離縁』が認められている。だから、殿下さえ納得させることができれば、姉さんを取り戻せるはずだったのに……)
三ヵ月前の舞踏会のときは、二人の間に今のような信頼感は生まれていなかった。
少なくとも、エリスはアレクシスに、それほど好意を抱いているようには見えなかった。
だからシオンはあの日、堂々とアレクシスに牽制したのだ。「姉を返せ」と。
それなのに、この三ヵ月の間にいったい何が起きたのか。
本命がいるはずのアレクシスはどこまでもエリスを大切にしているし、エリスがアレクシスに向ける微笑みはまさに、『愛する夫』へ向けるそれである。
(まさか、姉さんは本気で殿下を慕っているのか?)
演技であると思いたかった。
仲のいい夫婦の振りをしているだけだと信じたかった。
けれど、エリスにアレクシスのことを尋ねれば尋ねるほど、エリスの本気が伝わってくる。
それに、アレクシスがエリスを見つめる瞳に秘めた熱情は間違いなく本物で、シオンは悟らざるをえなかった。
――自分こそが邪魔者なのだ、と。
二人はとっくに相思相愛で、弟の自分が出る幕はないのだと。
けれどだからといって「はいそうですか」と退散することはできなかった。
たった一人の大切な姉を奪っていったアレクシスに、苦汁を舐めさせてやりたい。
どんな小さなことでもいい。復讐してやらねば気が済まない、と。
(こうなったら、居座れるだけ居座ってやる。――ああ、そうだ。どうせなら、ここから学院に通えばいいじゃないか。そうすれば、僕は毎日姉さんに会える)
それが子供っぽい考えであるとはわかっていた。
エリスのことを少しも考えていない、自分本位の我が儘だということを、頭ではちゃんと理解していた。
それでも、どうしようもなく許せなかったのだ。
エリスの心を攫っていった、アレクシスのことが。
(姉さんは、僕の姉さんなんだ。簡単には渡さない)
シオンは決意した。
このまま大人しくここを離れて堪るかと――それは、意地のようなものだった。
だがエリスは、そんなシオンの邪な考えには少しも気が付かず、シオンを昔のように可愛がった。
失った十年の歳月を取り戻すように、どこまでもシオンを子供扱いし、甘やかすのだ。
おかげでシオンは日を追うごとに毒気を抜かれていった。
宮に来たばかりのときは昼も夜もエリスにべったり張り付いていたのが、今ではそれも、アレクシスがいるときだけ。
昼間は自室で、学院入学前の予習をするほどの落ち着きぶりだ。
(きっと姉さんは、僕が二人の邪魔をしようと思っていることなんて、少しも気付いていないんだ)
そう思うと、途端に罪悪感が込み上げてくる。
だがそれでも、今のシオンの中に『エメラルド宮を出ていく』という選択肢は存在しなかった。
――急に静かになったシオンを心配したのか、エリスはティーカップをソーサーに置き、小さく首を傾げる。
「シオン、どうしたの? あなた最近、よくそういう顔をするわね。何か悩み事があるなら、話してくれていいのよ? わたしじゃ頼りなければ、殿下に相談しても――」
「――ッ」
するとシオンは、ハッと一度は顔を上げたものの、再び視線を手元に落としてしまった。
何か考えている顔だ。
実際シオンは、今ここで言うべきか、言わざるべきか、悩んでいた。
――が、数秒考えたのち、決意したようにエリスを見据える。
「じゃあ、一つ。お言葉に甘えて……いいかな?」
いつになく真剣な表情の弟に、エリスは少しばかり違和感を覚えたものの、「もちろん」と微笑む。
すると、シオンは躊躇いがちに唇を開き――、
「僕、これからも今みたいに、ずっと姉さんと暮らしたい。寮には入らずに、ここから学院に通いたいんだ。だから、お願い、姉さん。一緒に、殿下を説得してくれない?」
――と、縋るような声で告げたのだった。
それからしばらく、二人はお茶を嗜みながら談笑した。
エリスが、「勉強の方はどう?」と聞くと、シオンは「順調だよ。今日は帝国法について勉強したんだけど、法体系はランデル王国とそれほど変わらなかったんだ。これならきっと、入学までには間に合うと思う」と笑顔で答え、
シオンが「姉さんは今日何をしていたの?」と尋ねれば、エリスは「午前中は本を読んで、その後はスコーンを焼いていたわ。今あなたが食べているものを」と微笑み、シオンを驚かせた。
「えっ、これ、姉さんが焼いたの?」
「そうよ。実は昨日のパイと、一昨日のサンドイッチもわたしが作ったの」
「嘘!? ……全然気が付かなかった。確かに、度々部屋から姉さんの気配がなくなるなと思ってはいたけど……」
「? わたしの気配?」
「――あ。……いや、こっちの話」
「……?」
シオンはエリスから視線を逸らし、皿の上の食べかけのスコーンをじっと見下ろす。
あまりに居心地が良すぎて、本来の目的を忘れてしまっている自分を不甲斐なく思いながら――。
シオンが予定より早く帝国にやってきたのは、エリスとアレクシスを別れさせたいがためだった。
冷酷無慈悲として悪名高い帝国の第三皇子。そして、過去に五回もの婚約を破談にしたほどの大の女嫌い。
でありながら、ランデル王国に初恋の女性がいるというアレクシスの魔の手から、姉を解放しなければと。
そのために、まずは内情を探らねば――そう考えたシオンは、アレクシスのいない時間帯を狙ってエリスを訪ね、宮に泊めてもらえるよう誘導した。
と同時に、「お世話になる人たちの名前を憶えたい」と言って、エリスから使用人のリストをもらい、徹夜して頭に叩きこんだ。
翌日からは、使用人たちと親密になるため奔走した。
仕事を手伝い、愚痴や悩みを聞き、彼らの主人であるアレクシスとエリスを褒め称えた。
そうして使用人たちが自分をすっかり信用したところで、アレクシスの情報を聞き出すつもりでいた。
だが、それよりも早く、シオンは気付いてしまったのだ。
エリスがアレクシスを好いていることに。
そしてまた、アレクシスもエリスを愛しているということに。
(帝国では『離縁』が認められている。だから、殿下さえ納得させることができれば、姉さんを取り戻せるはずだったのに……)
三ヵ月前の舞踏会のときは、二人の間に今のような信頼感は生まれていなかった。
少なくとも、エリスはアレクシスに、それほど好意を抱いているようには見えなかった。
だからシオンはあの日、堂々とアレクシスに牽制したのだ。「姉を返せ」と。
それなのに、この三ヵ月の間にいったい何が起きたのか。
本命がいるはずのアレクシスはどこまでもエリスを大切にしているし、エリスがアレクシスに向ける微笑みはまさに、『愛する夫』へ向けるそれである。
(まさか、姉さんは本気で殿下を慕っているのか?)
演技であると思いたかった。
仲のいい夫婦の振りをしているだけだと信じたかった。
けれど、エリスにアレクシスのことを尋ねれば尋ねるほど、エリスの本気が伝わってくる。
それに、アレクシスがエリスを見つめる瞳に秘めた熱情は間違いなく本物で、シオンは悟らざるをえなかった。
――自分こそが邪魔者なのだ、と。
二人はとっくに相思相愛で、弟の自分が出る幕はないのだと。
けれどだからといって「はいそうですか」と退散することはできなかった。
たった一人の大切な姉を奪っていったアレクシスに、苦汁を舐めさせてやりたい。
どんな小さなことでもいい。復讐してやらねば気が済まない、と。
(こうなったら、居座れるだけ居座ってやる。――ああ、そうだ。どうせなら、ここから学院に通えばいいじゃないか。そうすれば、僕は毎日姉さんに会える)
それが子供っぽい考えであるとはわかっていた。
エリスのことを少しも考えていない、自分本位の我が儘だということを、頭ではちゃんと理解していた。
それでも、どうしようもなく許せなかったのだ。
エリスの心を攫っていった、アレクシスのことが。
(姉さんは、僕の姉さんなんだ。簡単には渡さない)
シオンは決意した。
このまま大人しくここを離れて堪るかと――それは、意地のようなものだった。
だがエリスは、そんなシオンの邪な考えには少しも気が付かず、シオンを昔のように可愛がった。
失った十年の歳月を取り戻すように、どこまでもシオンを子供扱いし、甘やかすのだ。
おかげでシオンは日を追うごとに毒気を抜かれていった。
宮に来たばかりのときは昼も夜もエリスにべったり張り付いていたのが、今ではそれも、アレクシスがいるときだけ。
昼間は自室で、学院入学前の予習をするほどの落ち着きぶりだ。
(きっと姉さんは、僕が二人の邪魔をしようと思っていることなんて、少しも気付いていないんだ)
そう思うと、途端に罪悪感が込み上げてくる。
だがそれでも、今のシオンの中に『エメラルド宮を出ていく』という選択肢は存在しなかった。
――急に静かになったシオンを心配したのか、エリスはティーカップをソーサーに置き、小さく首を傾げる。
「シオン、どうしたの? あなた最近、よくそういう顔をするわね。何か悩み事があるなら、話してくれていいのよ? わたしじゃ頼りなければ、殿下に相談しても――」
「――ッ」
するとシオンは、ハッと一度は顔を上げたものの、再び視線を手元に落としてしまった。
何か考えている顔だ。
実際シオンは、今ここで言うべきか、言わざるべきか、悩んでいた。
――が、数秒考えたのち、決意したようにエリスを見据える。
「じゃあ、一つ。お言葉に甘えて……いいかな?」
いつになく真剣な表情の弟に、エリスは少しばかり違和感を覚えたものの、「もちろん」と微笑む。
すると、シオンは躊躇いがちに唇を開き――、
「僕、これからも今みたいに、ずっと姉さんと暮らしたい。寮には入らずに、ここから学院に通いたいんだ。だから、お願い、姉さん。一緒に、殿下を説得してくれない?」
――と、縋るような声で告げたのだった。
336
あなたにおすすめの小説
本日、貴方を愛するのをやめます~王妃と不倫した貴方が悪いのですよ?~
なか
恋愛
私は本日、貴方と離婚します。
愛するのは、終わりだ。
◇◇◇
アーシアの夫––レジェスは王妃の護衛騎士の任についた途端、妻である彼女を冷遇する。
初めは優しくしてくれていた彼の変貌ぶりに、アーシアは戸惑いつつも、再び振り向いてもらうため献身的に尽くした。
しかし、玄関先に置かれていた見知らぬ本に、謎の日本語が書かれているのを見つける。
それを読んだ瞬間、前世の記憶を思い出し……彼女は知った。
この世界が、前世の記憶で読んだ小説であること。
レジェスとの結婚は、彼が愛する王妃と密通を交わすためのものであり……アーシアは王妃暗殺を目論んだ悪女というキャラで、このままでは断罪される宿命にあると。
全てを思い出したアーシアは覚悟を決める。
彼と離婚するため三年間の準備を整えて、断罪の未来から逃れてみせると……
この物語は、彼女の決意から三年が経ち。
離婚する日から始まっていく
戻ってこいと言われても、彼女に戻る気はなかった。
◇◇◇
設定は甘めです。
読んでくださると嬉しいです。
余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~
流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。
しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。
けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話
鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。
彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。
干渉しない。触れない。期待しない。
それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに――
静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。
越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。
壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。
これは、激情ではなく、
確かな意思で育つ夫婦の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる