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第二部
89.シオンとの一夜(前編)
しおりを挟むエリスの記憶の中のシオンは、よく泣く子どもだった。
何もないところで転んでは怪我もないのに大泣きし、小さな虫が部屋に入り込んだだけで悲鳴を上げ、夜中にトイレに行くことができずにおねしょをしては、グズグズと泣いて使用人を困らせる。
ひとたび笑えば少女のように可憐な笑顔で周りを陥落させたけれど、決して利発とは言い難く、初対面の相手には挨拶も返せないほどの人見知りで、父親から毎日のように叱られていた。
けれどエリスにとっては、シオンはたったひとりの弟であり、愛すべき存在だった。
いつだって自分の後ろについて回り、手を差し伸べればふにゃふにゃとした笑顔を浮かべ、「ねぇさま、ねぇさま」と自分を慕ってくれる弟を心の底から愛しく思っていたし、守らなければと思っていた。
母親が病気で死んだときも。
父親が継母とクリスティーナを屋敷に連れてきたときも。
親しかった使用人たちが次々に解雇され、居場所を失っていったときも。
自分が弟を守らなければと、シオンを守れるのは自分だけなのだと、必死に自分を奮い立たせた。
それなのに、自分はシオンを守れなかった。
寂しがりやで甘えん坊で、まだ何一つ満足にできない弟を、たったひとりで遠い国へと追いやってしまった。
その負い目は、幼いエリスの心に大きな傷痕を残した。
けれどそれでも、エリスは折れるわけにはいかなかった。
いつかシオンと共に暮らせるようになるそのときまで、強くあらねばならないと。
(シオンは、わたしが守るのよ)
ランデル王国から毎週のように届くシオンからの手紙。
そこに残る、乾いた無数の涙の跡。
エリスは必死にシオンを慰め、愛を綴った。
「毎日あなたを思っているわ」
「シオン、わたしの愛しい弟」
「大好きよ。あなたはわたしの宝だわ」
「心からあなたを愛している」
――守らなければ。
わたしがシオンを守らなければ。
あの子を守れるのは、この世にわたししかいないのだから――。
けれど、いつからだろうか。手紙の向こうのシオンの態度が、少しずつ変わっていったのは。
毎週届いていた手紙の間隔が、だんだんと開いていく。
二週間に一度、三週間に一度。そして、ひと月に一度。
そのころには、手紙に涙の跡が残ることはなくなっていた。
弱音や泣き言は一切書かれなくなった。
その代わり、友人と過ごす学園生活のことや、エリスを気遣う言葉が並ぶようになった。
けれどエリスは、その便りを素直に喜ぶことができなかった。
姉として弟の幸福な日々を嬉しく思うと同時に、シオンにはもう自分は必要ないのだろうかと、言いようのない寂しさに襲われたのだ。
それからというもの、エリスは益々頑なになった。
彼女は一層、いい姉でいることに固執した。
それだけが、シオンにとって唯一自分の存在価値であるのだと。
それが、大きな過ちだとは気付かずに。
◇
そして今、エリスの前には謝罪するシオンの姿があった。
シオンはベッド脇の椅子に座り、
「無断外泊なんてさせてごめんね。エメラルド宮の皆には、僕からちゃんと謝るから」
と、申し訳なさ気に瞼を伏せていた。
それは一見して、いつもと変わらないシオンだった。
――シオンが部屋を訪れてから数分足らず。
昼間に比べ顔に疲れは出ているが、エリスの体調を気遣い、これまでの経緯やオリビアから聞いた最近のリアムのおかしな態度について説明し、自身の突発的な行動を冷静に反省しているところなど、普段のシオンのまま。
声にも乱れはないし、視線も合う。
正直、言うほど思いつめている様子はない。
かと言って、ジークフリートの言葉が勘違いだとも思えなかった。
(わたしの目には、いつも通りのシオンに見える。でもジークフリート殿下は『一晩、側にいてあげて』とまで仰った。……それはつまり、シオンはわたしに本音を隠しているということなの? もしかして、あの日わたしがこの子を追いかけなかったせい?)
「……っ」
刹那、脳裏に過ぎるシオンの泣き顔。
シオンがエメラルド宮を去ったあの日、『姉さんと一緒にいられないなら、生きる意味はない……!』と叫んだ、悲痛な声。
あのときの言葉は、紛れもなくシオンの本心だった。
もう何年も聞いていなかった、シオンの弱音。
そのときエリスは、シオンを心配に思うと同時に、心の底から安堵した。
わたしはまだ、シオンに必要とされている、と。
けれど結局シオンは宮を去り、その後図書館で偶然再会するまで、手紙一つ寄越さなかった。
(あのときはシオンの行動が理解できなかったけれど、もしかしたらシオンは、あれ以上本心を見せたらいけないと思ったのかもしれないわ。わたしが長い間、そう思ってきたのと同じように)
実際のところは、本人に尋ねなければわからない。
けれどもし僅かでも、シオンがそう思っていたのなら――。
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