ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜

夕凪ゆな

文字の大きさ
166 / 198
第二部

111.感情の狭間で(後編)

しおりを挟む

 ◇◇◇


 その日の夕方、そろそろ日が暮れようという時間帯。
 アレクシスはひとり、帰りの馬車に揺られていた。

 西日の差し込む車内で、セドリックから言われた言葉を思い出し、深い溜め息をついていた。


 ――「殿下、いいですか。決闘の件、必ず話してくださいね」


 この五日の間に、何度言われたかわからないその言葉。

 言わなければと頭では理解しているのに、先延ばしにした挙句、クロヴィスとの賭けにも負け、いよいよ後がないところまできてしまった。

 今夜こそは、絶対に話さなければならない。


(宮に戻るのがこんなに憂鬱なのは久しぶりだな。……いや、初めてか?)


 そもそも、アレクシスはエリスが嫁いでくるまで、エメラルド宮を完全に放置していた。

 十八で成人を迎えてから四年もの間、一度たりとエメラルド宮で寝起きしたことはなく、自分の所有物であるという認識すらなかった。
 所謂いわゆる、無関心というやつだ。

 だがエリスがやってきて、クロヴィスの忠告から共に過ごすようになり、それからというもの、恐らく一度も、エメラルド宮で過ごすことを不快だと思ったことはない。
 緊張することはあれど、憂鬱などと思ったことはないのだ。

 それはつまり、自分でも気付かないうちに、エリスのいるあの場所が、自分にとって当たり前の居場所になっていたということで――。


(……”居場所”、か。この俺が、随分と甘いことを考えるようになったものだ)


 昼間、セドリックから『何に悩んでいるのか』と尋ねられたとき、アレクシスは答えられなかった。

『エリスに嫌われることを恐れている』などと、情けないことは言えないと。

 だが、言えなかった理由はもう一つある。


(俺はどうしても嫌なんだ。エリスの優しさが、俺以外のものに向けられることが……)


 幼い頃に母親を亡くしてからというもの――いや、母が死ぬよりもずっと前から、アレクシスは自分には居場所がないと思っていた。

 母親であるルチア皇妃が不貞を働いていると偶然知ってしまったときから、母の愛が自分には向けられていないと悟ったときから、アレクシスは人を信じられなくなった。

 その感情は女性相手により顕著に表れ、気付いたときには、触れるだけで吐き気を催すほどの嫌悪感を抱くほどになっていた。


 当然その感情は、幼いエリスにも向けられた。

 それはアレクシスが十二のとき。

 ランデル王国内のとある湖の側で、病気で臥せっているセドリックの為に果物を探していたアレクシスは、偶然出会ったエリスに手を掴まれた際、容赦なく突き飛ばしたのだ。


「俺に触るな!」――と。


 そのときエリスは、スフィア語で「ここは危ないわ」と注意してくれていたのだが、帝国語しかわからなかったアレクシスにとって、エリスは年下とはいえ恐怖の対象でしかなかった。
 仮に言葉が通じたとしても、エリスを突き飛ばしていたことは変わらないだろう、というくらいには。

 つまりこの時点では、エリスはアレクシスの運命の相手でもなんでもなかったのだ。
 だが――。



(わかっている。あのときエリスは、単純な正義感のために俺を助けたのだろう。だが、俺にとってあの出来事は……)



 当時、全く泳ぎのできなかったアレクシスは、湖に落ちた瞬間死を覚悟した。
 湖の底に沈んでいく恐怖を感じながら、自業自得だとも思った。

 自分は少女を突き飛ばしたのだ。きっと助けすら呼んでもらえないだろうと。

 だが、少女は身の危険を顧みず、湖に飛び込んできたのである。


 ――その瞬間、アレクシスは、暗闇に一筋の光が差した気がした。

 必死に手を伸ばした指先にエリスの小さな手のひらが触れた瞬間、全身の血が沸き立つような心地がした。

 まだ生きていていいのだと、存在を認めてもらえたような気がしたのだ。



 ――わかっている。

 エリスにとって、それは当たり前の行動であったことを。

 建国祭のとき、川に落ちた子供を助けたのと同じように、エリスにとっては、何ら特別ではないことを。


 だが、自分にとっては特別なことだった。

 そして、これからは、自分だけが彼女の特別になりたいと思っている。


 だから嫌なのだ。

 もしエリスが決闘のことを知れば、リアムの出生の秘密を知れば、きっと彼女はリアムに同情し、自分が受けた被害のことなどすっかり忘れたような顔で、リアムを許してやってくれと言うのだろう。


 それが、アレクシスはどうしても許せなかったのだ。


(本当に俺は子供だな。あの頃と、何一つ変わっていない)


 あの日エリスを突き飛ばしたように、自分はオリビアを突き飛ばし、怪我を負わせた。

 そんな自分が、こんなことを言える立場ではないというのに。



 ――そんなことを考えているうちに、馬車はエメラルド宮の正門をくぐり、次第にスピードを緩めていく。

 そうして馬車が完全に停止したことを確認すると、アレクシスは肺から大きく息を吐く。


(考えるのは終わりだ。今は、目の前のことだけに集中しろ)


 そう自身に言い聞かせ、どうにか平静を装って、エリスの元へと向かった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

本日、貴方を愛するのをやめます~王妃と不倫した貴方が悪いのですよ?~

なか
恋愛
 私は本日、貴方と離婚します。  愛するのは、終わりだ。    ◇◇◇  アーシアの夫––レジェスは王妃の護衛騎士の任についた途端、妻である彼女を冷遇する。  初めは優しくしてくれていた彼の変貌ぶりに、アーシアは戸惑いつつも、再び振り向いてもらうため献身的に尽くした。  しかし、玄関先に置かれていた見知らぬ本に、謎の日本語が書かれているのを見つける。  それを読んだ瞬間、前世の記憶を思い出し……彼女は知った。  この世界が、前世の記憶で読んだ小説であること。   レジェスとの結婚は、彼が愛する王妃と密通を交わすためのものであり……アーシアは王妃暗殺を目論んだ悪女というキャラで、このままでは断罪される宿命にあると。    全てを思い出したアーシアは覚悟を決める。  彼と離婚するため三年間の準備を整えて、断罪の未来から逃れてみせると……  この物語は、彼女の決意から三年が経ち。  離婚する日から始まっていく  戻ってこいと言われても、彼女に戻る気はなかった。  ◇◇◇  設定は甘めです。  読んでくださると嬉しいです。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話

鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。 彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。 干渉しない。触れない。期待しない。 それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに―― 静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。 越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。 壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。 これは、激情ではなく、 確かな意思で育つ夫婦の物語。

処理中です...