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第二部
111.感情の狭間で(後編)
しおりを挟む◇◇◇
その日の夕方、そろそろ日が暮れようという時間帯。
アレクシスはひとり、帰りの馬車に揺られていた。
西日の差し込む車内で、セドリックから言われた言葉を思い出し、深い溜め息をついていた。
――「殿下、いいですか。決闘の件、必ず話してくださいね」
この五日の間に、何度言われたかわからないその言葉。
言わなければと頭では理解しているのに、先延ばしにした挙句、クロヴィスとの賭けにも負け、いよいよ後がないところまできてしまった。
今夜こそは、絶対に話さなければならない。
(宮に戻るのがこんなに憂鬱なのは久しぶりだな。……いや、初めてか?)
そもそも、アレクシスはエリスが嫁いでくるまで、エメラルド宮を完全に放置していた。
十八で成人を迎えてから四年もの間、一度たりとエメラルド宮で寝起きしたことはなく、自分の所有物であるという認識すらなかった。
所謂、無関心というやつだ。
だがエリスがやってきて、クロヴィスの忠告から共に過ごすようになり、それからというもの、恐らく一度も、エメラルド宮で過ごすことを不快だと思ったことはない。
緊張することはあれど、憂鬱などと思ったことはないのだ。
それはつまり、自分でも気付かないうちに、エリスのいるあの場所が、自分にとって当たり前の居場所になっていたということで――。
(……”居場所”、か。この俺が、随分と甘いことを考えるようになったものだ)
昼間、セドリックから『何に悩んでいるのか』と尋ねられたとき、アレクシスは答えられなかった。
『エリスに嫌われることを恐れている』などと、情けないことは言えないと。
だが、言えなかった理由はもう一つある。
(俺はどうしても嫌なんだ。エリスの優しさが、俺以外のものに向けられることが……)
幼い頃に母親を亡くしてからというもの――いや、母が死ぬよりもずっと前から、アレクシスは自分には居場所がないと思っていた。
母親であるルチア皇妃が不貞を働いていると偶然知ってしまったときから、母の愛が自分には向けられていないと悟ったときから、アレクシスは人を信じられなくなった。
その感情は女性相手により顕著に表れ、気付いたときには、触れるだけで吐き気を催すほどの嫌悪感を抱くほどになっていた。
当然その感情は、幼いエリスにも向けられた。
それはアレクシスが十二のとき。
ランデル王国内のとある湖の側で、病気で臥せっているセドリックの為に果物を探していたアレクシスは、偶然出会ったエリスに手を掴まれた際、容赦なく突き飛ばしたのだ。
「俺に触るな!」――と。
そのときエリスは、スフィア語で「ここは危ないわ」と注意してくれていたのだが、帝国語しかわからなかったアレクシスにとって、エリスは年下とはいえ恐怖の対象でしかなかった。
仮に言葉が通じたとしても、エリスを突き飛ばしていたことは変わらないだろう、というくらいには。
つまりこの時点では、エリスはアレクシスの運命の相手でもなんでもなかったのだ。
だが――。
(わかっている。あのときエリスは、単純な正義感のために俺を助けたのだろう。だが、俺にとってあの出来事は……)
当時、全く泳ぎのできなかったアレクシスは、湖に落ちた瞬間死を覚悟した。
湖の底に沈んでいく恐怖を感じながら、自業自得だとも思った。
自分は少女を突き飛ばしたのだ。きっと助けすら呼んでもらえないだろうと。
だが、少女は身の危険を顧みず、湖に飛び込んできたのである。
――その瞬間、アレクシスは、暗闇に一筋の光が差した気がした。
必死に手を伸ばした指先にエリスの小さな手のひらが触れた瞬間、全身の血が沸き立つような心地がした。
まだ生きていていいのだと、存在を認めてもらえたような気がしたのだ。
――わかっている。
エリスにとって、それは当たり前の行動であったことを。
建国祭のとき、川に落ちた子供を助けたのと同じように、エリスにとっては、何ら特別ではないことを。
だが、自分にとっては特別なことだった。
そして、これからは、自分だけが彼女の特別になりたいと思っている。
だから嫌なのだ。
もしエリスが決闘のことを知れば、リアムの出生の秘密を知れば、きっと彼女はリアムに同情し、自分が受けた被害のことなどすっかり忘れたような顔で、リアムを許してやってくれと言うのだろう。
それが、アレクシスはどうしても許せなかったのだ。
(本当に俺は子供だな。あの頃と、何一つ変わっていない)
あの日エリスを突き飛ばしたように、自分はオリビアを突き飛ばし、怪我を負わせた。
そんな自分が、こんなことを言える立場ではないというのに。
――そんなことを考えているうちに、馬車はエメラルド宮の正門をくぐり、次第にスピードを緩めていく。
そうして馬車が完全に停止したことを確認すると、アレクシスは肺から大きく息を吐く。
(考えるのは終わりだ。今は、目の前のことだけに集中しろ)
そう自身に言い聞かせ、どうにか平静を装って、エリスの元へと向かった。
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