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第二部
110.感情の狭間で(前編)
しおりを挟む(わたしは、どうしたらいいのかしら……)
シオンとオリビアの馬車を見送ったエリスは、今、厨房にいた。
今朝アレクシスと約束した、ミートパイを焼くためである。
使用人たちは、「今日はお疲れでしょう? パイは料理人に任せて、エリス様はお部屋でお休みになられた方が」と気を遣ってくれたのだが、エリスは「何かしていた方が気がまぎれるのよ」と、譲らなかった。
それに何より、エリスは理解していたからだ。
確かにミートパイはアレクシスの好物だが、彼が望んでいるのは、『ただのミートパイ』ではない。
『エリスの作ったミートパイ』である、と。
ならば約束どおり、パイは自分で焼くべきだろう。
例え今、純粋にアレクシスを想うことができなかったとしても――。
エリスは、午前中のうちに仕込んでおいたパイ生地をタルト型に成形しながら、先ほどのことを思い出す。
シオンとオリビアが去った後、ようやくシオンに使いを出した侍女が戻ってきて、エリスに頭を下げたことを――。
◆
「戻るのが遅くなり、申し訳ございません!」
「いいのよ。無事に戻ってきてくれて良かったわ。それで、何があったのか教えてくれる?」
「……はい。それが……」
今より一時間ほど前のこと。
シオンとオリビアの乗せた馬車が宮を出るとのほぼ入れ違いで戻ってきた侍女は、エリスに謝罪し、こう説明した。
学院に手紙を届けた際、シオンから「しばらくここで待っていてください。二時間経っても僕が戻らなければ、帰ってもらって構いません」と言われ、学院内の待合室で待ち続けていたこと。
だが結局シオンは約束の時間になっても戻らず、一人でエメラルド宮に帰ってきたところ、他の侍女たちから、シオンとオリビアが宮を訪れたと聞かされたことを。
「決闘のこと、聞いてしまわれましたよね。ですが、どうか殿下をお責めにならないでください。殿下は少し、不器用なだけなのです」
侍女は、アレクシスの命令を遂行できなかったことに顔色を悪くしながらも、言葉を続ける。
宮廷内で流れているエリスの噂を巡り、アレクシスがリアムと決闘することになったことを。
その事実をエリスの耳に入れないようにするために、アレクシスはエリスを外出禁止にし、シオンとの接触を禁じたことを。
「エリス様の母国ではどうかわかりませんが、帝国での決闘は、相手を殺してしまっても罪に問われないのです。例えそれが、王侯貴族であろうと……」
つまり、決闘では何が起こるかわからない。
だから、アレクシスはエリスに心労をかけないようにしたかったのだ――と。
◇
(シオンの話を聞いたときから、わかっていた。殿下がわたしに隠し事をしていたのは、わたしを守るため。つまり、何も聞かなかった振りをするのが、正解なのかもしれない。でも……)
一度聞いてしまったことを無かったことにはできない。
それに、あんな状態のオリビアを見てしまった以上、傍観しているわけにはいかない。
そもそも、シオンが宮に入り込んだことをアレクシスに内緒にするのは不可能だ。
使用人たちには、「シオンが来たことはわたしから殿下に話すから、黙っていてね」と口留めしてあるが、彼らがそれを受け入れてくれたのは、『エリスがアレクシスに話す』と約束したから。
もしエリスがアレクシスに伝えなければ、使用人の誰かが報告することになるだろう。
つまり、話さない選択肢はないのである。
「…………」
(結局、オリビア様の『願い』というのが何だったのかは分からずじまいだけど……でも、これだけはわかる。オリビア様はただ、リアム様と一緒にいたかっただけ。リアム様のことを愛していただけ。そしてそれは、きっとリアム様も同じ)
でも、リアムはそれを知らないのだ。
オリビアがアレクシスを慕っていたこと自体が、そもそも嘘であったのだと。
オリビアの嘘が、リアムと一緒にいたいがためのものであったことを。
つまり、今回の一件はいくつかの誤解と、気持ちのすれ違いが生んだものであり、本来なら決闘などせずとも済むはずなのではないか――エリスの気持ちは、そんな風に揺れ動いていた。
(一度決まった決闘が無くなることはないと、さっき侍女が教えてくれたけど……。でも、お互いの気持ちを、理由を知れば、命を賭けて戦うことは避けられるんじゃないかしら)
とにかく、事実関係を確認するためにも、アレクシスときちんと話をしなければならない。
例えそれが、アレクシスの望まぬことだとしても――。
エリスはそう考えながら、約束のミートパイを完成させるため、残りの作業に勤しんだ。
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