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Ep.04 昼下がりの再会(後)≪晴れ時々曇り≫
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◇
昼休みになると一気に教室から生徒たちがあふれ出していく。俺もその人の流れに乗って白河と学食へ向かった。窓ガラスの向こう、陽ざしはもう初夏の一歩手前で、芝生の緑がまぶしい。光が強いほど、心の影だけ濃くなる。
弁当箱のふたを外すと、白河が覗き込んでくる。
「彩りチャンピオン。卵焼きうまそう」
「お前は今日もカレー?」
「当たり。ダブル大盛り」
『たまご……!』
肩のスイが、俺の弁当を興味深そうに見て小さく鳴く。
『ひとかけ、ほしい』
白河が笑って「こら」と軽くたしなめる。スイはちょん、と頭を下げた。礼儀正しい文鳥だ。俺はケロスケを人前では出さない。それが約束。
ガラス越しに芝生を見やると、歓声と笑い声が風に運ばれてくる。生徒会の一団が資料を抱え、立ち位置を確認していた。
その中心にいるのは、やっぱり神代 怜——風に揺れた前髪の薄茶が陽を拾って、やわらかく光る。制服の線は一ミリも乱れない。黒いネクタイのくぼみを指で整え、短く頷くだけで列がすっと揃う。遠目にも“正解の形”がそこに立っていた。
「朝の掲示、神代くんがまとめたんだって。仕事速いよね」
「怜先輩、こっちの方見ないかな……」
「わかるー!目、合っただけで一日テンション上がる」
ひそひそ声がテーブルのあいだに漂う。羨望と信頼が混ざった、あの“中心にいる人”に向ける空気だ。学校ではいつも見えない種類の“熱”が、彼の周囲だけ別の温度を作っている。
先生が近づき何かを相談していた。神代は短く頷き、二言三言で話をまとめる。笑顔は完璧に整っていて、まるでCMのワンシーンみたいだった。無駄がない。そのことが、俺は少し怖かった。
白河がスプーンを止めて、ぽつりと言う。
「神代、目立つよな。副会長っていうか、もう完全に学校の顔だな。誰でも名前知ってる。学年主席、スピーチ上手い、行事の段取りも早い。体育も“普通以上にできる”。あと、あれで人の距離感をちゃんと測ってくるから、男ウケも良い。噂だと、家もいいとこらしいけど——まあ、あの感じで嫌味ゼロってのが、さらにズルい」
知らないままでよかった、と心の中でだけ、俺は呟く。自分の“静かな日常”と、あの人たちの“中心にある世界”が、同じ校内に存在してるのが不思議だ。空気が繋がっている、と意識した途端、少し息が詰まる気がした。
ガラス越しの声が少し遠のいて、かわりに足音が1つ、真っ直ぐこちらへ寄ってくる気配がした。
白河がゴミを捨てに立った。俺は水筒の蓋を回して、ひと息つく。
その時、
——影がすっと差す。
顔を上げると、神代 怜が立っていた。
昼の光を背にして、輪郭だけが白く縁取られている。シャツの襟はまっすぐ、ネクタイの結び目に指が触れ、形を整える仕草も澱まない。新緑を思わせる微かな柔軟剤の匂い。誰かに呼び止められて振り返った直後みたいに、息だけが少し高いのに、眼差しは落ち着いている。
「——ああ、いた。雨宮くん」
名前を呼ばれた瞬間、喉がかすかに鳴った。水筒の金具が手の中でコト、と音を立てる。
神代はテーブルの縁に片手を置いて、覗き込むように身を傾けた。指先が長い。爪の形まで整っている。時計の金属が光って、その上で白い何かが細く、筆先で引いた線みたいに動いた。
見ない。見たくない。——見えないふりをする。
視線のピントを、わざと肩の縫い目にずらす。縫い目はきれいで、糸目が揃っている。今の俺の安全圏は、その数ミリのラインだけ。そこだけを見ていれば、呼吸ができる。
喉の奥がじんわりと乾いてきた。心臓の音が、昼のざわめきにまぎれない。——近い。空気の境目が、静かにきしむ音を立てた。
「昨日のお礼、きちんとできなかったなって」
声がよく通る。さっき誰かも言っていた。声量とかじゃなく、空気ごと整えて届く声。ひとつひとつ言葉の端が澄んでいて、耳の奥にすっと入ってくる。
俺の舌は逆にうまく回らない。
「い、いえ、別に……」
目立ちたくない。ここで。今。
通りすがりの後輩が「副会長、お疲れさまです」と会釈していく。その子の名札をさりげなく読み取り、名前で返す。
「北川さん、ありがとう」
相手の顔がぱっと明るくなる。その流れがあまりにも自然で、完璧すぎて、眩しい。神代はそちらに軽く笑みを返して、すぐまた俺へ視線を戻す。
光をまとっている人間を、真正面から見るのは苦手だ。世界の中心にいる人の明るさは、直視すると目が痛い。
「あの後さ、君、濡れて帰った?」
喉がひっかかる。
「……はい。少しだけ」
「少し、ね」
今度は目を細めて笑う。柔らかいけれど、目の奥の温度は一定のままだ。爽やかで、教科書に載っていそうな“正解の笑顔”。完璧すぎて、安心する前にどこか落ち着かなかった。
神代は視線をテーブル脇の掲示に移して、何気ない口ぶりで続ける。
「昨日、予報は晴れだったのに。突然降ったろ。ああいうのって、好き嫌い分かれるよね」
「……どう、ですかね」
「俺は、けっこう好きでさ。雨音とか、匂いとか。輪郭が少し霞む感じがね。世界が静かに整理されるみたいで落ち着くんだ」
さすが王子は詩的なことを言う。神代らしいな、と思いながらも何故か、微かに不調和のようなズレを感じてしまった。会話の形は“世間話”。けれど、言葉の端が、俺の呼吸に合わせて滑ってくる気がする。まるで見えない糸で距離を測られているような、そんな感覚。
「雨宮くんは?」
「……嫌いじゃ、ないです」
「うん。君はそう言うと思った」
軽く頷いた指先が時計の金属を一度だけ叩くと、それに反応を示すように、神代の腕を白い線が細く滑った。
俺の背筋がぴくっと固まると、水筒が手のひらで滑って、ぎゅっと握り直す。落ち着け心臓、静かにして。
白いもの。見ない。見たくない。
けれど、見ないよう意識するほど、視界の端の残像が、余計に光を増して消えない。
「昨日はさ、降り出す直前に傘が目の前に帰ってきた。いいタイミングだったから、本当に助かったよ」
息が止まりそうだった。水筒の金具がまた小さく音を立てた。
「……たまたま、見つけただけで」
「偶然、ね。そういうことにしておこうか。俺は嫌いじゃないよ。ただ、それでも重なるときは不思議と重なるから」
柔らかく笑いながら、言葉はふわりと先に置かれる。真正面からではないのに、芯だけは射抜くみたいに届く。
「いえ、本当に、偶然で——」
「雨の日って、誰かの気配が少し近くなる。音が丸くなるからかな。だから、助けてもらえたことも、忘れにくい」
周囲がざわめく。
「神代くんが誰かと話してる」
「あの子、誰だっけ?」
集まる視線を肌で感じて、耳が熱くなる。体温が上がるのに、指先だけ冷たい。
俺が俯きかけたとき、白河が戻ってきた。
「あれ、神代?二人、知り合いだったっけ?」
「いや、全然!」
声が思ったより大きく出て、空気が一瞬止まった。
——やった。また、やらかした。
神代は、ほんの僅かに目を細めて短く言った。
「——これから、ね」
次の瞬間には何事もなかったように白河へ顔を向ける。そのまま別の枝に移る鳥みたいに、声の角度が滑らかに変わった。
「白河は陸上部だよね。頑張ってる?」
「え、……ああ。まあ、ぼちぼち」
「来月の体育祭、期待してるよ」
神代はどこまでも完璧な微笑み、そして温度まで設計された声だった。
白河が照れ笑いを返すあいだも、彼の視線だけが俺から離れない。正面からでなく、横目でなぞっていくようで、逃げ場がない。
脳のどこかが、点滅する。——逃げろ。って。
神代は最後に「またね、雨宮くん」と言った。
“またね”なんて、誰にでも言う社交辞令。そうに決まってる。俺に向けられた意味をもつ言葉ではないのに、口を開こうとしても、俺は同じ言葉が出なかった。口の中が砂みたいに乾いて、舌が重い。
神代が背を向ける。彼の時計の上で白い影が、ほんの一瞬だけ頭をもたげて、すぐに隠れた。気のせいだ。気のせいであってほしい。
……けど、胸の中の雨音だけが、確かに強くなっていた。
白河が、俺の顔を覗き込む。
「……大丈夫か」
「だいじょうぶ。……多分」
「“多分”はやめろって。顔、真っ青だぞ。酸素薄い山頂から帰ってきたやつみたい」
「……住む世界が違う人の近くは、酸欠になる」
「じゃ、息吸え。三秒吸って、三秒止めて、三秒吐け。お前はお前の気圧で生きろ」
白河の肩で、スイが小さく羽を揺らした。
その瞬間、空気がふっとやわらいだ気がした。教室のざわめきも遠のいて、喉の奥のつまりが少しほどける。吸う息が、ちゃんと胸の奥まで入っていく。
「保健委員でもないのに指導が的確すぎる」
「友人歴、年季入ってるからな」
ケロスケが真似をして、『“多分”禁止』と小声で言う。だから今は笑えないんだって。
でも、さっきより呼吸はずっと楽だった。
◇
放課後、風が乾いて、空の青が濃くなる時間だ。校門を出て、住宅街へ続く坂を下るまでの間、俺は無言だった。
ケロスケがぴょこっと制服のポケットから頭を出す。
『なぁ湊。もしかして恋の予感?』
「は?どこにそんな要素あった?恐怖以外のなにものでもない」
『紙一重じゃん。心臓バクバクしてたろ?』
「それは昨日言ってた本能。物理的にも精神的にも心臓に悪い」
『同じ臓器、恋も恐怖も心臓だろ。判定:恋でよくない?』
「良くない。本能が“関わりたくない”って叫んでる」
電柱の影が長く伸びて、足元に縞模様を作る。空の雲は薄い。けれど、胸の中にだけ小さな曇りが居座っている。
雲の上の存在、ってああいう人のことを言うんだろう。俺の生活には到底、縁がない。
……はず、なのに。
今日の神代の瞳の奥に、ほんの少しだけ違和感みたいな、温度のずれみたいなものを見た気がする。完璧に整えられた表紙の裏で、ページの端が一枚だけ折れている、みたいな。
見間違いかもしれない。見間違いであってほしい。でも、その折り目は、一度気づくともう目についてしょうがない。
「晴れ時々曇り、って今日みたいな日だな」
言うと、ケロスケがうん、と頷いた。
『お前の人生、そんな天気が一番似合ってる気がする』
「褒めてる?」
『バランスがいいって意味。たぶん』
「“多分”禁止って言わなかった?」
『言ったのは白河』
坂の下で、風が少し強くなった。前髪が持ち上がる。
ふと振り返る。
小さくなった校門の向こう、人影の集まるあたりに、誰かの横顔がきらりと浮いた……気がした。逆光で、表情はよく分からない。腕を少し上げて、時計を押さえている。白いものが、そこにいるかどうかは分からない。
気のせい、だよな——。
俺は前を向き直って、歩幅を一段だけ広げた。
——晴れ、ときどき曇り。心も、だいたいその天気。
その夜、校内ポータルに「図書委員への連絡」が上がっていた。
《差出人:生徒会副会長 》
目に入っただけで、スクロールはしなかった。
昼休みになると一気に教室から生徒たちがあふれ出していく。俺もその人の流れに乗って白河と学食へ向かった。窓ガラスの向こう、陽ざしはもう初夏の一歩手前で、芝生の緑がまぶしい。光が強いほど、心の影だけ濃くなる。
弁当箱のふたを外すと、白河が覗き込んでくる。
「彩りチャンピオン。卵焼きうまそう」
「お前は今日もカレー?」
「当たり。ダブル大盛り」
『たまご……!』
肩のスイが、俺の弁当を興味深そうに見て小さく鳴く。
『ひとかけ、ほしい』
白河が笑って「こら」と軽くたしなめる。スイはちょん、と頭を下げた。礼儀正しい文鳥だ。俺はケロスケを人前では出さない。それが約束。
ガラス越しに芝生を見やると、歓声と笑い声が風に運ばれてくる。生徒会の一団が資料を抱え、立ち位置を確認していた。
その中心にいるのは、やっぱり神代 怜——風に揺れた前髪の薄茶が陽を拾って、やわらかく光る。制服の線は一ミリも乱れない。黒いネクタイのくぼみを指で整え、短く頷くだけで列がすっと揃う。遠目にも“正解の形”がそこに立っていた。
「朝の掲示、神代くんがまとめたんだって。仕事速いよね」
「怜先輩、こっちの方見ないかな……」
「わかるー!目、合っただけで一日テンション上がる」
ひそひそ声がテーブルのあいだに漂う。羨望と信頼が混ざった、あの“中心にいる人”に向ける空気だ。学校ではいつも見えない種類の“熱”が、彼の周囲だけ別の温度を作っている。
先生が近づき何かを相談していた。神代は短く頷き、二言三言で話をまとめる。笑顔は完璧に整っていて、まるでCMのワンシーンみたいだった。無駄がない。そのことが、俺は少し怖かった。
白河がスプーンを止めて、ぽつりと言う。
「神代、目立つよな。副会長っていうか、もう完全に学校の顔だな。誰でも名前知ってる。学年主席、スピーチ上手い、行事の段取りも早い。体育も“普通以上にできる”。あと、あれで人の距離感をちゃんと測ってくるから、男ウケも良い。噂だと、家もいいとこらしいけど——まあ、あの感じで嫌味ゼロってのが、さらにズルい」
知らないままでよかった、と心の中でだけ、俺は呟く。自分の“静かな日常”と、あの人たちの“中心にある世界”が、同じ校内に存在してるのが不思議だ。空気が繋がっている、と意識した途端、少し息が詰まる気がした。
ガラス越しの声が少し遠のいて、かわりに足音が1つ、真っ直ぐこちらへ寄ってくる気配がした。
白河がゴミを捨てに立った。俺は水筒の蓋を回して、ひと息つく。
その時、
——影がすっと差す。
顔を上げると、神代 怜が立っていた。
昼の光を背にして、輪郭だけが白く縁取られている。シャツの襟はまっすぐ、ネクタイの結び目に指が触れ、形を整える仕草も澱まない。新緑を思わせる微かな柔軟剤の匂い。誰かに呼び止められて振り返った直後みたいに、息だけが少し高いのに、眼差しは落ち着いている。
「——ああ、いた。雨宮くん」
名前を呼ばれた瞬間、喉がかすかに鳴った。水筒の金具が手の中でコト、と音を立てる。
神代はテーブルの縁に片手を置いて、覗き込むように身を傾けた。指先が長い。爪の形まで整っている。時計の金属が光って、その上で白い何かが細く、筆先で引いた線みたいに動いた。
見ない。見たくない。——見えないふりをする。
視線のピントを、わざと肩の縫い目にずらす。縫い目はきれいで、糸目が揃っている。今の俺の安全圏は、その数ミリのラインだけ。そこだけを見ていれば、呼吸ができる。
喉の奥がじんわりと乾いてきた。心臓の音が、昼のざわめきにまぎれない。——近い。空気の境目が、静かにきしむ音を立てた。
「昨日のお礼、きちんとできなかったなって」
声がよく通る。さっき誰かも言っていた。声量とかじゃなく、空気ごと整えて届く声。ひとつひとつ言葉の端が澄んでいて、耳の奥にすっと入ってくる。
俺の舌は逆にうまく回らない。
「い、いえ、別に……」
目立ちたくない。ここで。今。
通りすがりの後輩が「副会長、お疲れさまです」と会釈していく。その子の名札をさりげなく読み取り、名前で返す。
「北川さん、ありがとう」
相手の顔がぱっと明るくなる。その流れがあまりにも自然で、完璧すぎて、眩しい。神代はそちらに軽く笑みを返して、すぐまた俺へ視線を戻す。
光をまとっている人間を、真正面から見るのは苦手だ。世界の中心にいる人の明るさは、直視すると目が痛い。
「あの後さ、君、濡れて帰った?」
喉がひっかかる。
「……はい。少しだけ」
「少し、ね」
今度は目を細めて笑う。柔らかいけれど、目の奥の温度は一定のままだ。爽やかで、教科書に載っていそうな“正解の笑顔”。完璧すぎて、安心する前にどこか落ち着かなかった。
神代は視線をテーブル脇の掲示に移して、何気ない口ぶりで続ける。
「昨日、予報は晴れだったのに。突然降ったろ。ああいうのって、好き嫌い分かれるよね」
「……どう、ですかね」
「俺は、けっこう好きでさ。雨音とか、匂いとか。輪郭が少し霞む感じがね。世界が静かに整理されるみたいで落ち着くんだ」
さすが王子は詩的なことを言う。神代らしいな、と思いながらも何故か、微かに不調和のようなズレを感じてしまった。会話の形は“世間話”。けれど、言葉の端が、俺の呼吸に合わせて滑ってくる気がする。まるで見えない糸で距離を測られているような、そんな感覚。
「雨宮くんは?」
「……嫌いじゃ、ないです」
「うん。君はそう言うと思った」
軽く頷いた指先が時計の金属を一度だけ叩くと、それに反応を示すように、神代の腕を白い線が細く滑った。
俺の背筋がぴくっと固まると、水筒が手のひらで滑って、ぎゅっと握り直す。落ち着け心臓、静かにして。
白いもの。見ない。見たくない。
けれど、見ないよう意識するほど、視界の端の残像が、余計に光を増して消えない。
「昨日はさ、降り出す直前に傘が目の前に帰ってきた。いいタイミングだったから、本当に助かったよ」
息が止まりそうだった。水筒の金具がまた小さく音を立てた。
「……たまたま、見つけただけで」
「偶然、ね。そういうことにしておこうか。俺は嫌いじゃないよ。ただ、それでも重なるときは不思議と重なるから」
柔らかく笑いながら、言葉はふわりと先に置かれる。真正面からではないのに、芯だけは射抜くみたいに届く。
「いえ、本当に、偶然で——」
「雨の日って、誰かの気配が少し近くなる。音が丸くなるからかな。だから、助けてもらえたことも、忘れにくい」
周囲がざわめく。
「神代くんが誰かと話してる」
「あの子、誰だっけ?」
集まる視線を肌で感じて、耳が熱くなる。体温が上がるのに、指先だけ冷たい。
俺が俯きかけたとき、白河が戻ってきた。
「あれ、神代?二人、知り合いだったっけ?」
「いや、全然!」
声が思ったより大きく出て、空気が一瞬止まった。
——やった。また、やらかした。
神代は、ほんの僅かに目を細めて短く言った。
「——これから、ね」
次の瞬間には何事もなかったように白河へ顔を向ける。そのまま別の枝に移る鳥みたいに、声の角度が滑らかに変わった。
「白河は陸上部だよね。頑張ってる?」
「え、……ああ。まあ、ぼちぼち」
「来月の体育祭、期待してるよ」
神代はどこまでも完璧な微笑み、そして温度まで設計された声だった。
白河が照れ笑いを返すあいだも、彼の視線だけが俺から離れない。正面からでなく、横目でなぞっていくようで、逃げ場がない。
脳のどこかが、点滅する。——逃げろ。って。
神代は最後に「またね、雨宮くん」と言った。
“またね”なんて、誰にでも言う社交辞令。そうに決まってる。俺に向けられた意味をもつ言葉ではないのに、口を開こうとしても、俺は同じ言葉が出なかった。口の中が砂みたいに乾いて、舌が重い。
神代が背を向ける。彼の時計の上で白い影が、ほんの一瞬だけ頭をもたげて、すぐに隠れた。気のせいだ。気のせいであってほしい。
……けど、胸の中の雨音だけが、確かに強くなっていた。
白河が、俺の顔を覗き込む。
「……大丈夫か」
「だいじょうぶ。……多分」
「“多分”はやめろって。顔、真っ青だぞ。酸素薄い山頂から帰ってきたやつみたい」
「……住む世界が違う人の近くは、酸欠になる」
「じゃ、息吸え。三秒吸って、三秒止めて、三秒吐け。お前はお前の気圧で生きろ」
白河の肩で、スイが小さく羽を揺らした。
その瞬間、空気がふっとやわらいだ気がした。教室のざわめきも遠のいて、喉の奥のつまりが少しほどける。吸う息が、ちゃんと胸の奥まで入っていく。
「保健委員でもないのに指導が的確すぎる」
「友人歴、年季入ってるからな」
ケロスケが真似をして、『“多分”禁止』と小声で言う。だから今は笑えないんだって。
でも、さっきより呼吸はずっと楽だった。
◇
放課後、風が乾いて、空の青が濃くなる時間だ。校門を出て、住宅街へ続く坂を下るまでの間、俺は無言だった。
ケロスケがぴょこっと制服のポケットから頭を出す。
『なぁ湊。もしかして恋の予感?』
「は?どこにそんな要素あった?恐怖以外のなにものでもない」
『紙一重じゃん。心臓バクバクしてたろ?』
「それは昨日言ってた本能。物理的にも精神的にも心臓に悪い」
『同じ臓器、恋も恐怖も心臓だろ。判定:恋でよくない?』
「良くない。本能が“関わりたくない”って叫んでる」
電柱の影が長く伸びて、足元に縞模様を作る。空の雲は薄い。けれど、胸の中にだけ小さな曇りが居座っている。
雲の上の存在、ってああいう人のことを言うんだろう。俺の生活には到底、縁がない。
……はず、なのに。
今日の神代の瞳の奥に、ほんの少しだけ違和感みたいな、温度のずれみたいなものを見た気がする。完璧に整えられた表紙の裏で、ページの端が一枚だけ折れている、みたいな。
見間違いかもしれない。見間違いであってほしい。でも、その折り目は、一度気づくともう目についてしょうがない。
「晴れ時々曇り、って今日みたいな日だな」
言うと、ケロスケがうん、と頷いた。
『お前の人生、そんな天気が一番似合ってる気がする』
「褒めてる?」
『バランスがいいって意味。たぶん』
「“多分”禁止って言わなかった?」
『言ったのは白河』
坂の下で、風が少し強くなった。前髪が持ち上がる。
ふと振り返る。
小さくなった校門の向こう、人影の集まるあたりに、誰かの横顔がきらりと浮いた……気がした。逆光で、表情はよく分からない。腕を少し上げて、時計を押さえている。白いものが、そこにいるかどうかは分からない。
気のせい、だよな——。
俺は前を向き直って、歩幅を一段だけ広げた。
——晴れ、ときどき曇り。心も、だいたいその天気。
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《差出人:生徒会副会長 》
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