蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.03 昼下がりの再会(前)≪晴れ時々曇り≫

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 朝六時半の台所は、冷蔵庫の微かなうなりと、包丁がまな板を叩く音だけが響いていた。
 卵を割る。白身を断ち切るように菜箸を回して、砂糖をふたつまみ、塩は指先ほど。巻くたび、甘い匂いが立つ。青じそはくるくる丸めて細く刻み、赤、黄、緑と弁当箱の中に信号機みたいに彩りを配置していく。こういうのは静かでいい。思考が整うから。

『オレも食える?』

 テーブルの端から半分眠そうな蛙が顔を出した。ケロスケは最近人間食に興味津々で、今日はプチトマトに目を付けている。吸盤の指でちょい、と赤い玉をつつく。

『この赤いの、毒じゃない?』
「毒なんて盛らないよ。お前のは——胃じゃなくて心に効く方」
『心に効く毒は神代くんが担当では?』
「朝から思い出させるな……」


 弁当箱に米を詰め、海苔を敷いて卵焼きを寄せる。昨夜の切り干しの煮物、ブロッコリー、ウインナーに切り込み。隙間ができたところにミニトマトを添えた。仕上げに白ごまをひとつまみ、手は勝手に動く。もう朝の動作は呼吸みたいなものだ。

 母は夜勤明けで寝ている。二人暮らしの2LDK。この時間の生活音が小さいのは、もう習慣だ。静けさの中で鍋の金属音だけがよく響く。その響きが“平和”の音に聞こえる日もあれば、今朝みたいに“独りの音”に聞こえる日もある。




『手際いいな。プロの主夫みたい』
「男子高校生への褒め方じゃない」
『じゃあ、“未来の胃袋王子”』
「それじゃあ大食い代表みたいじゃん」

 冗談を交わすたびに、空気の重さが少しだけ薄くなる。冷ましたお茶を水筒に移すと、自分の分とは別に母の分の小さい弁当も並べる。付箋ふせんに≪冷蔵庫のお味噌汁・温めてどうぞ≫と書いて置いておく。
 窓の外は完全に晴れ、昨日の雨はきれいに消えていた。ベランダの物干し台からは、まだ湿り気のある風が入ってきて、台所の匂いをやわらかく薄めていく。
 箸を置く。晴れてるのに、心の気圧だけは低い。

(行きたくない。いや、行くけど。行くしかないけど。でも、今日は——)

 昨日のあの瞬間が頭をかすめる。乾いた音、傘が弾む音、神代の笑顔が一瞬だけ途切れた光景。

 ……終わってる。二年B組の平凡男子、隣のA組の王子様に暴言+ビンタ未遂。週刊校内ニュース行き。そんなものはないのに、脳内では創刊そうかん済みだ。
 教室で神代とすれ違う可能性、職員室前の廊下で視線が合う確率はどのくらいだろうか。そんなことを想像するだけで胃がきゅうっと痛くなる。

「昨日のことは忘れる。普通の一日でいく」
『フラグ立てんの早くない?』
「違うから。やめて。ほんとにやめて」

(今日の俺は酸素。痕跡ゼロで帰る——たぶん。)

 ケロスケは『けろ』と小さく鳴いて、テーブルの端に丸くなる。飴玉みたいな吸盤が木目にぺたり。朝の光が背中の斑を照らして、薄い水色に光った。
 寝癖の跳ねた髪を手で押さえつけ、眼鏡をかけ直す。レンズが曇って、余計ぼやける。ため息ひとつで拭いた。玄関の鏡に映った顔は、まだ“昨日”の湿度を引きずっていた。

 ◇

 通学路のアスファルトはまだ湿っていて、靴の底がぺたぺた鳴る。雨上がりの匂い(教科書では“ペトリコール”って呼ぶやつ)が鼻を抜けるたび、胸の奥が小さくざわつく。
 家を出た時点では「普通の一日でいく」って言ったけど、学校が近づくにつれて足がどんどん重くなる。校門までの坂が、いつもより長く感じる。歩くたびに“昨日のこと”が頭を横切る。あの音、あの表情。

(校内指名手配とか出されてたらどうしよう。いや、そんな制度ないけど、あってもおかしくない気がする。生徒会棟前での不審者:雨宮 湊あまみや みなと

 背中が勝手にこわばる。歩いているだけで、すれ違う誰かの視線が全部こっちを向いてる気がして、息が浅くなっていく。

 そういえば昨日、神代の前で雨が降った。俺のせい……ではない。はず。そうであってくれ。近隣住民、予報外の雨ほんとすみません。
 たまに俺の感情が揺れると空までつられて湿る——ケロスケいわく「気象バグ」。もし俺の機嫌で降るなら、空に申し訳ない。

 やがて校門をくぐると、朝の騒がしさが戻ってくる。部活の掛け声、チャイムの前に慌ただしく走る足音。俺は人混みの端を選んで二年B組へ向かった。できるだけ壁際を歩き、視線の死角を縫うように。

 教室に入ると、白河 透真しらかわ とうまが窓際の席で背伸びをしていた。柔らかい濃茶色の髪、機嫌のよさが顔に出るタイプ。俺の中学からの友人で、数少ない“事情を知ってる”人間のひとりだ。
 白河の肩口に、灰白色の小さい影——文鳥のスイ——がとまっている。守護生物は“持っている人”にしか見えないはずだけど、スイは隠れるのが壊滅的に下手だ。今日も堂々と羽繕はづくろいしている。おまけに、よく鳴くしゃべる
 “持っている者同士”なら、隠れてない守護生物の声は自然に言葉として聞こえる——ケロスケいわく仕様だ。

『おはよ』
「おはよう。昨日の雨、すごかったな」
「……あー、うん。そうだね」
「もしかして昨日の、……お前の?」

 曖昧な俺の声色に白河がすぐ気づいた。そういう勘の良さ、ありがたいときもあるけど、今日は刺さる。
 
「“たまたま”ってのに、今日だけは賭けたい」
「どうもはっきりしないな。なんかあったか?」
「大丈夫!ほら、ホームルーム始まるよ」

 声が少し裏返った。誤魔化すように椅子を引く。筆箱を開けると、ケロスケが肩からぴょんと飛び降り、消しゴムを枕にして丸まった。
 お前、守護生物なのに寝る必要ある?心の中で突っ込むと、“必要”と小さく返事をした気がした。笑うところじゃないのに、口の端が少し緩む。

 HRが終わって午前の授業が流れていく。板書、ノート、配られるプリント。日常は変わらないふりが上手い。俺も上手い側の人間だ。
 とはいえ、最初の一時間目までは心臓がずっと落ち着かなかった。廊下の足音が響くたびに、反射的に顔を上げてしまう。隣の教室から人が出入りする気配があるたび、肩が勝手にこわばる。
 何か言われるんじゃないか。昨日のこと、誰かが見てたんじゃないかと、そんな考えが頭の中を何度も往復して集中が続かない。

 けれど、すでに午前の授業が終わりかけているが、特に何も起こらなかった。誰も俺を指ささないし、昨日の噂も流れていない。黒板のチョーク音と窓の外の風の音が、ただ淡々と続くだけ。 

(……何もない、って、ありがたいけど。昨日のこと、気にしてないってことか?それとも——俺を誰も見てないから、何もないだけ?)

 少しずつ呼吸が整っていく。警戒した分、拍子抜けするほど平和な午前だった。
 ただ、休み時間に視線が窓の外へ吸い寄せられる。遠くの生徒会室棟。

 そこに“蛇”がいる。

 ……いや、いるのは人間だ。人間に蛇がついてる。落ち着け。
 そう言い聞かせても、視界の隅に白い残像がちらついた気がして、俺は思わずペンを強く握った。


 ◇

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