蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.02 守護生物という存在 ≪雨≫

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 ◇

 家に帰ってシャワーを浴びても、胸のあたりだけ冷えが残っていた。自分の部屋に戻って窓の外に目をやるが、ずっと雨は降り止まない。 
 天気予報は晴れだった。
 やっぱりこれは俺の焦りのせいかもしれない。近隣住民には先に謝っとく。

 鏡を見て指で梳いても、黒髪はすぐ跳ねる。寝癖みたいな反抗心だ。黒縁のセルフレームは水滴で曇っていて、外すと途端に顔がぼやけた。
 身長は平均、体重は平均以下。中の上でも下でもない——間。それが一番しっくり来る。耳の端の小さいほくろが、今日も雨粒みたいに見えた。どこまでも“雨宮”だな、と思って苦笑いがこぼれる。

「終わった……」

 言葉はため息に混ざって部屋の空気に溶けた。ベッドにひっくり返ると、枕元から小さな影がのぞいた。小さな蛙。

 丸い目、ちいさな手。掌に収まるくらいの青緑の体で、お腹だけミルク色。指先の吸盤は飴玉みたいに透けて、動くたびにぺたぺた小さな音がする。背中のまだらは葉っぱの雫みたいにきらっと光って、半分垂れたまぶたのせいで、いつも少し眠そうだ。見ているだけで呼吸が落ち着く。

 ケロスケは、俺の独り言に答えるみたいに喉を鳴らす。『けろ』とも『ぴ』ともつかない、空気が抜けるみたいな音。

「……最悪、だったよな」
『防衛反応は満点。逃走本能としては優勝』
「皮肉じゃなくて慰めて?」
『事実の提示ていじ

 皮肉のくせに、どこか優しい。 
 窓ガラスを雨が滑る。筋が何本も伸びて外の街灯を歪ませた。音は静かなのに、胸の奥はまだざわついているのは、あの瞬間の神代の視線がまだ皮膚の裏に残ってるから。
 
 ケロスケが俺の胸の上にぴょん、と乗った。掌に収まる青緑の体。指先の小さな吸盤がTシャツに「ぺた」とくっついた。半分眠そうなまぶたで俺を見上げて、喉の奥で『けろ』と鳴いた。その重みは軽いのに、ちゃんと“いる”と分かる。

『なぁ湊、“守護生物しゅごせいぶつ”ってさ。あ、そうだ。改めて説明する?』

「頼む。俺でも分かるレベルで」

『おっけ。じゃ、ざっくりね』

 ケロスケは両手——いや、両前脚を腰に当ててえらそうに頷く。小さいくせに態度だけはデカい。俺と一緒にテレビや漫画を見ているせいか、やけに人間くさい動作も器用に真似てみせる。

『まず、“守護生物”ってのは、人に一匹だけつく相棒みたいなもんだ。全員にいるわけじゃなくて、百人に一人くらいの確率って言われてる。原因も仕組みも分かってない。遺伝じゃないし、病気でもない。要は世の中“ガチャ”だって言えば早い』

「ガチャって言うな」
『現実はいつもランダムだよ、みなと

 ケロスケは、ぴょん、と飛んで俺の肩に乗る。吸盤が頬の横に当たってひんやりする。小動物の体温って、どうしてこう安心するんだろう。

『で、だ。この守護生物は所持者本人には勿論見えるけど、普通の奴には見えない。でも“持ってる者同士”なら互いに見えるんだ。オレら、言葉も通じる。つまり“心の具現化”みたいなもんさ』

「え、……つまり、俺の“中身”がカエル寄りってこと?」
『かわいいじゃん。癒し系』
「自分で言うなよ」

 ケロスケが口の端を上げたように見えた。実際は笑ってるのかどうかも分からないけど、そう感じる。

『まあ、守護生物を持ってる奴は、だいたい何かしら突出してる。頭がいいとか、運動神経がいいとか、容姿が整ってるとか。“選ばれた側”だって、世間は勝手に言う』

「俺は?」
『……驚け。レアな平凡。希少種だぞ?』
「フォローになってない」
『でも珍しいってことは、十分特別だろ?』

 ケロスケは俺の指を小さな手でつかむ。飴玉みたいに透ける吸盤が、ぎゅっと押し返してきた。その感触が妙に優しくて、少しだけ心臓が軽くなる。

「俺の周り、守護生物持ちなんて殆ど見たことないし……。俺みたいのが持ってるって言ったら、笑われるか、引かれるかのどっちかだろ」

『確かに自分が“守護生物持ち”って公表してるやつは、目立つ連中が多い。公表してなくてもさ、さっきも言ったが“持ってる者同士”なら見えるし、話せる。つまり、持ってる奴は持ってる奴が分かるんだ。普通は。だから湊みたいに隠せるタイプは珍しい。君は“空気になれる”才能があるよ』

「褒められてる気がしない」

『でも、その“隠す力”は強みだよ。守護生物にも“階層”があるんだ。ヘビみたいな捕食側ほしょくがわのやつもいれば、オレみたいな“逃げ延びる側”もいる』

「……カエル、な」
『うん。だからオレたちは“隠れて生き延びる”が基本。悪いことじゃない』

 ケロスケが少しだけ誇らしげに胸を張った。
 雨が窓を打つ音が優しくなる。

『だからさ、今日のあれは仕方ない。カエルはヘビが怖い生き物。体が勝手に止まる。湊が悪いわけじゃない。本能だ。本能を恥じるより、生き延びた事実を積め』

「それ、昔から蛇見ると怖くて仕方なかった理由か」

『多分な。カエル所持者あるある。向こう——神代ってやつには、今のところオレは見えてない。今日はちょっとだけ同化がほどけて、気配だけ漏れたんだ』

「解けた?」

『緊張とか、恐怖とか、何かしらお前の感情が強く揺れると、オレが外に滲むんだよ。いつもは見えないけど、今日みたいなときはオレが勝手に出てくる』

「……俺が怖がるほど、お前は出てくるのか」

『そう。オレは“守る側”だからね』

 ケロスケが胸の上からちょこんと俺を見下ろす。その姿があまりにも小さくて、頼りないくせにどこか誇らしげで笑ってしまう。指先でつつくと、吸盤で俺の指を「ぎゅむ」とつかみ返してきた。たまに生き物であることを思い出させる握力。

「……ありがとな」
『おう。あと湿度、上がってる。そろそろ寝ろ』
「お前、湿度センサーかよ」
『職能だよ、カエルだもん』

 



 スマホが震えた。
 校内ポータルの通知だ。

 《差出人:生徒会広報》

 表示された簡素な文面に、心拍が一斉にうるさくなる。


 《傘を届けてくれた雨宮くんへ。
 ありがとう。明日、少しだけ話せるかな。——神代》

(……文面は柔らかいのに、あの白い影だけがチラつく)

 雨脚がさらに強くなった。
 ケロスケが俺の肩に「ぺた」とよじ登って、耳に頬をくっつける。重みは軽いのに、心臓がどくんと跳ねる。

「やめて、やめて。何でこんな皆に見えるところで俺の名前なんか出すんだ。目立ちたくない。俺の存在感は空気でいい。酸素でいたいんだよ」

『現状、湿度多め』

「酸素に湿度混ぜるな……っ。どうしよう、俺、なんでよりによって副会長の通知に」

『落ち着け。まずは深呼吸。ほんで次に、明日の弁当の献立を考えろ』

「現実逃避指導やめろ」

『逃避じゃない。現実の手順だ』

 息を吐く。ケロスケを親指で撫でると、空気の抜けるみたいな小さな声で『けろ』と鳴いた。自分の相棒が弱い立場のカエルだってことは分かってる。だからこそ守りたい。俺はそっと抱え直した。

 雨は止む気配がない。
 窓を流れる筋が、一本、二本と増えていく。
 明日の不安も、だいたい同じペースで増えていく。

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