蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.07 晴れ間の呼吸(前)≪晴れ時々曇り≫

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 午前十時に駅ビル三階の書店は開店時間を迎えた。シャッターが上がると同時に空調の風が床を撫でていく。
 開店前に直した平積みの角はまだ崩れていない。旅行誌の青が手前、料理ムックの赤はその隣、エッセイの柔らかい色は真ん中に。面出しの背を一冊ずつ指で揃えると、紙が指先に薄い線の痕が残った。

 GW(ゴールデンウィーク)はいつもより人が多い。けど、ここは俺の“もうひとつの安全地帯”だ。

 入荷した段ボールをカッターで開け、シュリンクのフィルムを剥がし、平台に新刊を足す。返品票に印をつけて棚の隙間を埋め、POPの下書きに細ペンで線を引いた。
「朝仕込みのラクうまハンバーグ」——文字の左に小さなフライパンの絵を添えた。POPの文字は、まっすぐで柔らかい。図書委員で鍛えた“見やすく並べる癖”が、こういうとき役に立つ。

『真面目だなぁ。職人の顔してる』

 文庫棚の陰からケロスケが顔をのぞかせる。吸盤の指を木目にぺた、とつけては、また離す。

「しゃべるとバレるぞ。今日は人が多いから」

 “持ってる人”が通りかかるかもしれない。

『了解。静音モード。……でも、たまには晴れも悪くねぇな』

 入口から親子連れが流れ込む。ベビーカー、抱っこ紐、小学生。児童書コーナーに移動して、読み聞かせ向けの棚を少し広げたところで、小さな女の子が俺の方へ、ととと、と駆けてきた。

「あ、カエルちゃん!」

 心臓が一度、妙な跳ね方をした。思わず頭の上に手が上がる。――でも、女の子の指さす先は俺の後ろの棚。面出しの絵本『かえるのねがいごと』が、照明で緑に光っていた。





「あ、この本?」

 うん、と女の子が頷く。

「ゆびで、ページ、めくってもいい?」
「そっとならね」

 一緒に表紙を開いて見せると、女の子の母親が「すみません」と頭を下げた。休日の匂い——日焼け止めと甘いおやつの混ざった優しい空気がふわりと流れる。

『目が合ったかと思った。心臓、無駄打ち』
(ほんと、びっくりした)

 読み聞かせ向けの本をいくつか提案して、レジの方へ送る。
 戻りがけに、フロアの角に置いた観葉植物に霧吹きの水滴が乗っているのが見えた。粒が光を拾って、ガラスケースの結露みたいに、ちいさくて目にも涼しい。
 仕上がったPOPを持ってレジ前に出すと、店長が顔を上げた。

「雨宮さん、助かるよ。字、きれいだよね」
「ありがとうございます。平台、二番と四番、入れ替えておきました」
「さすが。お昼前に、児童の補充も頼むね」

 いつもの調子で、午前が過ぎていく。紙の匂い、カートの車輪、レシートの擦れる音。言葉は敬語だけど、少しだけ“柔らかい声”を意識している自分に気づく。ここではそれが正解だ。

 ◇

「お疲れさまでした」

 バックヤードを出ると、空気の温度が少し変わった。スマホを開くと、白河からメッセージが入っている。

 《駅ビル着いた。フードコートの二列目、通路側のテーブ》

 GWの昼下がりは、昼食時間を外しても、人の波は途切れない。トレイのぶつかる音、キッズスペースの歓声、スピーカーの呼び出し。けれど、白河の肩でスイが小さく身じろぎした瞬間、ざわめきが一歩だけ退いた気がする。空気の輪郭がやわらかくなって、呼吸が少し楽になる。

 守護生物には、みんな何かしら“不思議な力”を持っているらしい。たぶん、スイのは——空気をやわらげるやつだ。まるで風が一度、場の埃を払っていくように。

「おつかれ。走ってた?」
「午前だけ。インターバル。腹へった」

 白河はジャージの上着を椅子の背にかけ、どんぶりの唐揚げにレモンを搾る。スイがちょん、と俺のトートにとまって首をかしげた。

『こんにちは、湊くん』
「こんにちは。スイ、今日も発声がきれい」
『えへへ』
「うるさいけどな」
『もう、透真くんは一言余計なんだから』

 白河が笑った。その笑い方はいつも空気を丸くする。
 俺は焼きそばのパックを開けながら、話題を向けられる。

「そういえばさ。神代の白蛇、あれ見た時、お前たち固まってたよな?」
「……あー、うん。俺もあれ、どうしても怖くて」

 外で“怖い”って言うのは、初めてかもしれない。言ってみたら、思いがけずその一言だけで、少し肩の荷が下りる。

「相性悪いんだよ、単純に。カエルとヘビだろ。だから本能で緊張するのは仕方ないと思う」
『要は本能的な“ビビり反応”だ。オレも気絶しそう』
『ケロちゃん、がんばって』
『スイは優しいなぁ……』

 白河が、唐揚げを一個、俺のパックに落とす。

「でも、逃げなくていいと思う」
「……考えとく」

 曖昧に返事をして、箸を動かす。油とレモンの匂いが鼻に残って、少しだけ空腹感が戻ってきた。

「……なぁ、もし逃げなかったら、どうすればいいと思う?」

 白河は箸を止めて、少し考える顔をした。

「うーん、逃げないで、まず“見てみる”だけでも違うんじゃない?」
「見てみる、か……」

 言葉を噛みしめるみたいに繰り返すと、スイが肩の上で小さく羽を揺らした。

『こわくない見方も、あるよ』
「……努力してみるよ」

 その短いやり取りだけで、胸の奥の空気が軽くなる。
 スイがケロスケの背にちょこんと乗って、ケロスケが少し誇らしげに胸を張る。二匹は、ショッピングモールの人の波に興味津々だ。

『あれ、光る箱』
『クレーンだ。獲物を捕る機械』

 食後、白河に誘われてゲーセンへ。クレーンゲームを1回だけやってみたけど俺は見事に、……掴み損ねた。
 白河はクレーンの位置取りを一発で読み、緑の“巨大蛙ぬいぐるみ”を掴んで帰ってきた。親指サイズのマスコットを想像していた俺の前に、ケロスケ本人よりひと回り大きい両手サイズの蛙が落ちてくる。

「……でかい」
「ほぼ等身大。はい、分身」
「ありがとう。……トートに付けるには、ちょっと主張強いな」
『オレの肖像権……』
『似てるけど、ケロちゃんの方がかわいいよ』
『ふふふ』

 ケロスケは満更でもない様子で、スイはそれを見て嬉しそうに笑った。人の波と音の中で、時間だけがゆっくり進んでいる気がする。
 
 白河は「連休は走るか食べるか寝るかの三択」と言い、俺は「バイトばっかり」と笑い返す。他愛もない会話。けれど、その穏やかさが胸の奥に滲みる。
 騒がしい場所なのに、心の中は不思議と静かだ。光の反射が、テーブルの端でゆらゆらと揺れている。
 今日みたいな時間を、たぶん“晴れ”って言うんだろう。
 
 ◇
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