蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.08 晴れ間の呼吸(後)≪晴れ時々曇り≫

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 ◇

 食料品を買いにスーパーへ向かう途中、白河と別れてそのままデパ地下に寄り道した。甘い匂いに吸い寄せられるみたいに、有名パティスリーの前で足が止まる。
 ショーケースのガラスに細かい結露が浮き、ケーキの上の苺からシロップの水滴が一粒、艶やかに転がる。その光の粒が移動していくのを、なぜか目で追ってしまう。

「ご予約の神代さま、お待たせしました」

(——え、神代?)

 反射的に顔を上げた。神代 怜が、店員から予約札の貼られた箱を受け取っている。

「いつもありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」

 決済は端末にQRをかざすだけ。所作の流れに一切の隙がない。「さま」付けが自然なのは、ここではいつものことなのだろう。その光景だけで、“常連”という上質な空気の輪郭がわかる。

 チャリン——隣で、小学生がポケットから落とした十円玉が床を転がった。神代がすっと屈んで拾い、反射みたいな速さで拾い上げる。

「落としたよ」
「あ、ありがとうございます!」

 子どもの母親にも軽く会釈をする。何気ないのに、完璧さに無駄がない。
 ほんの一瞬の所作なのに、周囲の空気が止まった。母親も、通りすがりの女性客たちも、まるで糸を引かれるように視線を向ける。その中で誰も声を出さないのに、熱いため息のような息づかいが揃う音が分かった。
 整った横顔、礼の角度、低い声の響き。“見られること”に慣れている人の動きだ。本人は気づかないまま、いつも通り中心に立つ。その無自覚さが、余計に厄介だ。

 俺の存在に気づいたのは、そのすぐ後だった。神代のまつ毛が、ふっと止まる。箱を持つ指が微かに力を抜いて、すぐ持ち直す。ひとつ呼吸を吸ったように肩がゆっくりと揺らいで、そのあと——目尻の温度がやわらぐ。

「……雨宮?」

 名前はいつもの調子でまっすぐ届く——のに、音の響きに一滴だけどこか明るいものが混ざっていた。人の流れを肩でやさしく避けながら、距離を数歩分詰めてくる。気づけば、周囲のざわめきが少し遠く感じた。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」

 ケロスケが肩の上で『ケーキ……』ときわめて人間的な声でささやいた。

(見るだけにしろ)


 エスカレーターで一階へ。行き先が同じ方角だったらしく、何となく並んで立つ。
 上がり切ったところに、小さな花屋があった。赤やピンクのカーネーションが山になっている。

(来週、母の日か)

 小さな花束の値札をちらりと見ると、俺はメモアプリに価格と≪赤・ピンクの意味を確認≫とだけ打ち込んで、今日は通り過ぎる。
 霧吹きの粒が照明を受けて、小さな虹を散らしていた。水は、晴れでもどこかにいる。
 
「買っていくの?」と神代が訊く。
「……今日は、見るだけ。帰りにスーパー寄るから」
「そう」

 霧吹きの水粒が、もう一度光った。
 その静けさの中で、気づけば口が勝手に動いていた。

「神代くんは……怖いもの、ある?」

 神代は一瞬、意外そうに瞬きをした。

「怖い、もの?」

「うん。……あ、変なこと聞いたかも。わ、忘れて」

「いや。そうだな——あるよ」

 少し考えて、言葉を選ぶように続けた。

「人が思ってるより、多分たくさん」 

 穏やかに返された声に、冗談でも軽くもない温度が混ざっていた——たしかに。
 何を怖いと思っているのかまでは訊けなかったけれど、“怖いのは自分だけじゃない”という事実が、胸の奥に小さな光みたい残った。
 神代は箱の角を持ち直し、片手でエントランスの自動ドアを押さえて人の流れをさばく。

 ◇

 駅ビルの外は、夕方の光がガラス窓に跳ね返って、歩道に細い帯を並べていた。
 エントランス脇に停まった黒い車から出てきた運転手が、さっと扉を開ける。神代は振り向き、箱を持ち直しながら俺に小さく会釈した。

「じゃあ、またね、雨宮」
「……うん」

 車に乗り込む動作まで、洗練された映画のワンシーンみたいに綺麗だった。扉が静かに閉まる。エンジン音は低く、すぐ雑踏に消えた。
 
 俺はトートバッグを肩にかけ直して、スーパーへ足を向ける。
 自動ドアを抜けると、冷気が頬を撫でた。
 ひき肉特売、二割引。玉ねぎは在庫切れ——いや、家に二個残ってる。パン粉ある。牛乳はもう残り少なかった。卵は今日の朝で終わり。

(今夜はハンバーグ。小さいのを多めに作って、弁当用に冷凍ストックを作り置きしとこう。ソースはケチャップとウスターの簡単なのでいい。付け合わせは、にんじんグラッセ——あ、砂糖は残り少なかった気がする)

 半額シールの貼られたしめじをカゴに入れる。見切り品のカットサラダは、期限が今日いっぱい。スープにすれば何とかなる。頭の中の在庫表が、自然に更新されていく。俺の生活はこうやって日常として続いていく。

 母の仕事はシフト制で、日勤も夜勤もある。夜勤のときは朝方に帰ってきて昼まで眠る。そんな日もあるから、弁当は自然と俺の担当になった。最初は“やってあげよう”じゃなく、“やらなきゃ誰もやらないから”だった。気づけば、包丁の重さも調味料の加減も、体の方が覚えていた。
 「家庭的」と言われると少し居心地が悪い。努力というより、習慣だ。片親の家では、そういうことが自然に増える。特別なことじゃない。ただ、それが生きていく手順のひとつだ。

 レジに並ぶたびに、金額を頭の中で計算する癖も、いつの間にかついた。無駄を削ぐのは倹約けんやくというより、もう呼吸みたいなものだった。いまでは、予定より安く済んだ瞬間に、小さな達成感すら覚える。

 ——たぶん、俺の“平凡”は、そうやって作られてきたんだと思う。

 レジの列で、前の幼児の手が母親からふっと離れた。子どもが何かに惹かれて横滑りに動く。通路に飛び出しそうになるのを、俺は何でもないふうで、カゴを少し傾けて子どもの進路を塞いだ。幼児はカゴの縁に触れて立ち止まり、次の瞬間にはまた母親の手に戻る。

 迷子にならなくて良かった。財布を探して手を入れると、トートの中から蛙がぴょこっと顔を覗かせる。この分身は、けっこう頼もしい。

 会計を終えて、ひき肉パックを袋に詰めていると、店の外から湿り気を帯びた風が入ってきた。空はまだ晴れている。けれど、どこかの建物の屋上で散水が始まったのか、水の匂いが一瞬だけ濃くなる。

『ケーキ……』
「ハンバーグで手を打て」
『交渉決裂』

 買い物を済ませて、外に出る。通りすがりの人が提げた花屋のビニール袋に、夕暮れの光がまだ薄く残っていた。雨は降っていない。
 けれど、今日も所々に“水”を感じた。——ショーケースの結露。霧吹きの粒。スーパーの冷気に混ざる湿った風。

 胸の奥は、昨日より少しだけ静かだ。小さな高気圧が胸に居座る。遠くの雲だけが、形を変えて流れていく。

「……雨、じゃないのに」

 ケロスケが、肩の上で『けろ』と一声。エコバッグの重みを手に移し替え、家までの道を歩幅1つ分だけ広げた。

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