蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.35 夜の名前(前)≪曇りのち晴れ≫

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 夜の十時を少し回ったころ、ノートを閉じてベッドの端に腰を下ろした。蛍光灯を落とすと、スマホの光だけが部屋の中に浮かぶ。薄いカーテン越しの街灯が壁ににじんで、色は全部、灰に寄る。時計の針の音がやけに大きく感じる夜だ。

(逃げたいわけじゃない。ただ、ちょっと気分転換したいだけ)

 そう自分に言い訳しながら、アプリのアイコンをタップする。

『人間、現実逃避モード突入~』
「……息抜きって言って」

 枕元のケロスケが、両腕(前脚?)を組んで偉そうにうなずく。
 
 画面が開く。《Asterveilアスターヴェイル》——幻想世界を航行するオンラインRPGだ。タイトルロゴの下には青い海みたいな星空が広がり、右上に【夜航やこうサーバー/星降る時間に突入しました】の文字。ログイン音と同時に、俺のキャラクターNotoノトのアイコンが光る。
 
 映ったのは、蒼いマントをまとった黒髪の航行士のアバター。銀の留め具、細い革手袋、肩章けんしょうの飾り。星舟の甲板で風を受け、背後の夜空には星の群れがゆっくり流れていく。そこに“現実の俺”はいない。けれど、この背中を見ると、ほんの少し呼吸が楽になる。

 ここでは、誰も本名を知らない。顔も、声も、年齢も、関係ない。うまく話せなくても、強くなくても、ギルドの誰かが名前を呼んでくれる。俺にとってAsterveilアスターヴェイルは“逃げ場所”じゃなくて、“息ができる場所”だ。

「……久しぶりだな」
 
 指先がタップの順番を思い出していく。現実だと影を潜める俺も、この世界では中堅ギルド《Lyricリリック》のサブマスター。平凡より少し強いくらいの、ちょうどいい位置。背伸びはしないけど、役割を任されていることがちょっと誇らしい。


 ギルドチャットの通知がチリンと鳴った。
 
【Oage】お!のとくん生きてた!
【Noto】おつ星。ちょっと現実で星落ちしてた
【Oage】リアルのダンジョンにでも籠ってた?
【Noto】強敵。
【Noto】耐久ゲー
【Noto】攻略法なくて詰み
【Oage】気になる子が~とかじゃないよね( ・⊝・)
【Noto】全然ちがう
【Oage】こっちも今日、見たくないもん見た~なぐさめて
【Noto】詳しく
【Oage】気になる子が……他の子と一緒に帰ってて(ó﹏ò。)
【Noto】なるほど
【Noto】相手に恋愛イベント発生か
【Oage】そう、でもこっちは未実装
【Oage】ガチャすり抜けた感じ
【Noto】期間限定キャラは引けない仕様だよ
【Oage】うるさい!慰めろ~٩(•ε •̆*)
【Noto】じゃ、限定クエでも一緒に行って現実逃避しよ


 指が止まる。“気になる子”という言葉に、心臓が小さく跳ねた。他人の恋バナに反応するほど余裕がない。というか、俺のプレイヤーデータにも恋愛イベントなんて未実装だ。予定もない。恋愛スキルLv.0、経験値ゼロ。攻略wikiすら読んだことがない。つまり、アドバイスできるスキルは……ない。
 ないけど——ここでは『逃げてもいい』って許されてる感じがして、ちょっと気持ちが楽になる。
 
『顔、緩んでんな。相当キモいぞ』
「うるさい」
 
 夜の海を渡る音がBGMみたいに流れる。黒い光をまとう幻獣《虚星の影(ヴォイド)》が甲板脇の闇から躍り出た。
 俺が前衛、オアゲちゃんは支援担当。久しぶりだったけど、いつも通り息の合ったコンビネーションだ。


【Oage】スタバフ入れるねー✨
【Noto】了解。ヘイト取る
【Oage】回復は任せなさい(`・ω・´)ゞ


 回復の光が画面に広がるたび、闇がひとつ後退する。オアゲちゃんの魔法は柔らかい色で、光の余韻が長い。それが画面越しでも“優しさの温度”を持って届く。
(誰かに助けられるのって、案外悪くないな)
 ゲームだと、誰かの優しさがちゃんと光で見える。現実にもエフェクトがあれば、気まずさや遠慮より先に「ありがとう」って言えそうなのに。
 
『現実でも周りとこれくらい息合わせろよ』
(ごもっとも。……でも、ここは安全なんだよ)

 最後のゲージが割れる音が響くと、敵が倒れ、星の欠片が夜空へ散った。戦闘BGMが止んで、静かな海風だけが甲板に残る。


【Oage】ありがと!やっぱのとくん安定~✨
【Noto】君の支援が上手いだけ。バフのタイミング神
【Oage】……ほんと、そう言ってくれるのNotoくらいだよ
【Noto】ほんとのこと。現実デバフまみれだから沁みる
【Oage】のとくん、お疲れなんだね~?


 一拍の間が空いて。

【Oage】(・∀・)つ🌟<リアルバフ!


 冗談みたいな絵文字なのに、胸の奥にぽん、と灯りが点いた。誰かの手から届いた印みたいに、小さいけど確かな光。こういう他愛ないやりとりに救われる夜がある。

 ログアウトした瞬間、部屋の静けさが戻ってくる。現実の空気が少し冷たく感じた。けれど、不思議と息はしやすかった。たぶん、ちゃんと逃げられたから。
 
『逃避、成功。現実HP+10』
「……ありがと」
 
『で、問題は現実だが?』
「やば、日付回ってる!」
 
 ケロスケは肩から枕にぴょん、と降りた。吸盤がシーツにぺたっと張り付く。人間みたいな寝支度に、思わず笑う。窓の外、雲の切れ目に月が薄く光った。

 ◇
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