35 / 46
Ep.35 夜の名前(前)≪曇りのち晴れ≫
しおりを挟む
夜の十時を少し回ったころ、ノートを閉じてベッドの端に腰を下ろした。蛍光灯を落とすと、スマホの光だけが部屋の中に浮かぶ。薄いカーテン越しの街灯が壁ににじんで、色は全部、灰に寄る。時計の針の音がやけに大きく感じる夜だ。
(逃げたいわけじゃない。ただ、ちょっと気分転換したいだけ)
そう自分に言い訳しながら、アプリのアイコンをタップする。
『人間、現実逃避モード突入~』
「……息抜きって言って」
枕元のケロスケが、両腕(前脚?)を組んで偉そうにうなずく。
画面が開く。《Asterveil》——幻想世界を航行するオンラインRPGだ。タイトルロゴの下には青い海みたいな星空が広がり、右上に【夜航サーバー/星降る時間に突入しました】の文字。ログイン音と同時に、俺のキャラクターNotoのアイコンが光る。
映ったのは、蒼いマントをまとった黒髪の航行士のアバター。銀の留め具、細い革手袋、肩章の飾り。星舟の甲板で風を受け、背後の夜空には星の群れがゆっくり流れていく。そこに“現実の俺”はいない。けれど、この背中を見ると、ほんの少し呼吸が楽になる。
ここでは、誰も本名を知らない。顔も、声も、年齢も、関係ない。うまく話せなくても、強くなくても、ギルドの誰かが名前を呼んでくれる。俺にとってAsterveilは“逃げ場所”じゃなくて、“息ができる場所”だ。
「……久しぶりだな」
指先がタップの順番を思い出していく。現実だと影を潜める俺も、この世界では中堅ギルド《Lyric》のサブマスター。平凡より少し強いくらいの、ちょうどいい位置。背伸びはしないけど、役割を任されていることがちょっと誇らしい。
ギルドチャットの通知がチリンと鳴った。
【Oage】お!のとくん生きてた!
【Noto】おつ星。ちょっと現実で星落ちしてた
【Oage】リアルのダンジョンにでも籠ってた?
【Noto】強敵。
【Noto】耐久ゲー
【Noto】攻略法なくて詰み
【Oage】気になる子が~とかじゃないよね( ・⊝・)
【Noto】全然ちがう
【Oage】こっちも今日、見たくないもん見た~慰めて
【Noto】詳しく
【Oage】気になる子が……他の子と一緒に帰ってて(ó﹏ò。)
【Noto】なるほど
【Noto】相手に恋愛イベント発生か
【Oage】そう、でもこっちは未実装
【Oage】ガチャすり抜けた感じ
【Noto】期間限定キャラは引けない仕様だよ
【Oage】うるさい!慰めろ~٩(•ε •̆*)
【Noto】じゃ、限定クエでも一緒に行って現実逃避しよ
指が止まる。“気になる子”という言葉に、心臓が小さく跳ねた。他人の恋バナに反応するほど余裕がない。というか、俺のプレイヤーデータにも恋愛イベントなんて未実装だ。予定もない。恋愛スキルLv.0、経験値ゼロ。攻略wikiすら読んだことがない。つまり、アドバイスできるスキルは……ない。
ないけど——ここでは『逃げてもいい』って許されてる感じがして、ちょっと気持ちが楽になる。
『顔、緩んでんな。相当キモいぞ』
「うるさい」
夜の海を渡る音がBGMみたいに流れる。黒い光をまとう幻獣《虚星の影(ヴォイド)》が甲板脇の闇から躍り出た。
俺が前衛、オアゲちゃんは支援担当。久しぶりだったけど、いつも通り息の合ったコンビネーションだ。
【Oage】スタバフ入れるねー✨
【Noto】了解。ヘイト取る
【Oage】回復は任せなさい(`・ω・´)ゞ
回復の光が画面に広がるたび、闇がひとつ後退する。オアゲちゃんの魔法は柔らかい色で、光の余韻が長い。それが画面越しでも“優しさの温度”を持って届く。
(誰かに助けられるのって、案外悪くないな)
ゲームだと、誰かの優しさがちゃんと光で見える。現実にもエフェクトがあれば、気まずさや遠慮より先に「ありがとう」って言えそうなのに。
『現実でも周りとこれくらい息合わせろよ』
(ごもっとも。……でも、ここは安全なんだよ)
最後のゲージが割れる音が響くと、敵が倒れ、星の欠片が夜空へ散った。戦闘BGMが止んで、静かな海風だけが甲板に残る。
【Oage】ありがと!やっぱのとくん安定~✨
【Noto】君の支援が上手いだけ。バフのタイミング神
【Oage】……ほんと、そう言ってくれるのNotoくらいだよ
【Noto】ほんとのこと。現実デバフまみれだから沁みる
【Oage】のとくん、お疲れなんだね~?
一拍の間が空いて。
【Oage】(・∀・)つ🌟<リアルバフ!
冗談みたいな絵文字なのに、胸の奥にぽん、と灯りが点いた。誰かの手から届いた印みたいに、小さいけど確かな光。こういう他愛ないやりとりに救われる夜がある。
ログアウトした瞬間、部屋の静けさが戻ってくる。現実の空気が少し冷たく感じた。けれど、不思議と息はしやすかった。たぶん、ちゃんと逃げられたから。
『逃避、成功。現実HP+10』
「……ありがと」
『で、問題は現実だが?』
「やば、日付回ってる!」
ケロスケは肩から枕にぴょん、と降りた。吸盤がシーツにぺたっと張り付く。人間みたいな寝支度に、思わず笑う。窓の外、雲の切れ目に月が薄く光った。
◇
(逃げたいわけじゃない。ただ、ちょっと気分転換したいだけ)
そう自分に言い訳しながら、アプリのアイコンをタップする。
『人間、現実逃避モード突入~』
「……息抜きって言って」
枕元のケロスケが、両腕(前脚?)を組んで偉そうにうなずく。
画面が開く。《Asterveil》——幻想世界を航行するオンラインRPGだ。タイトルロゴの下には青い海みたいな星空が広がり、右上に【夜航サーバー/星降る時間に突入しました】の文字。ログイン音と同時に、俺のキャラクターNotoのアイコンが光る。
映ったのは、蒼いマントをまとった黒髪の航行士のアバター。銀の留め具、細い革手袋、肩章の飾り。星舟の甲板で風を受け、背後の夜空には星の群れがゆっくり流れていく。そこに“現実の俺”はいない。けれど、この背中を見ると、ほんの少し呼吸が楽になる。
ここでは、誰も本名を知らない。顔も、声も、年齢も、関係ない。うまく話せなくても、強くなくても、ギルドの誰かが名前を呼んでくれる。俺にとってAsterveilは“逃げ場所”じゃなくて、“息ができる場所”だ。
「……久しぶりだな」
指先がタップの順番を思い出していく。現実だと影を潜める俺も、この世界では中堅ギルド《Lyric》のサブマスター。平凡より少し強いくらいの、ちょうどいい位置。背伸びはしないけど、役割を任されていることがちょっと誇らしい。
ギルドチャットの通知がチリンと鳴った。
【Oage】お!のとくん生きてた!
【Noto】おつ星。ちょっと現実で星落ちしてた
【Oage】リアルのダンジョンにでも籠ってた?
【Noto】強敵。
【Noto】耐久ゲー
【Noto】攻略法なくて詰み
【Oage】気になる子が~とかじゃないよね( ・⊝・)
【Noto】全然ちがう
【Oage】こっちも今日、見たくないもん見た~慰めて
【Noto】詳しく
【Oage】気になる子が……他の子と一緒に帰ってて(ó﹏ò。)
【Noto】なるほど
【Noto】相手に恋愛イベント発生か
【Oage】そう、でもこっちは未実装
【Oage】ガチャすり抜けた感じ
【Noto】期間限定キャラは引けない仕様だよ
【Oage】うるさい!慰めろ~٩(•ε •̆*)
【Noto】じゃ、限定クエでも一緒に行って現実逃避しよ
指が止まる。“気になる子”という言葉に、心臓が小さく跳ねた。他人の恋バナに反応するほど余裕がない。というか、俺のプレイヤーデータにも恋愛イベントなんて未実装だ。予定もない。恋愛スキルLv.0、経験値ゼロ。攻略wikiすら読んだことがない。つまり、アドバイスできるスキルは……ない。
ないけど——ここでは『逃げてもいい』って許されてる感じがして、ちょっと気持ちが楽になる。
『顔、緩んでんな。相当キモいぞ』
「うるさい」
夜の海を渡る音がBGMみたいに流れる。黒い光をまとう幻獣《虚星の影(ヴォイド)》が甲板脇の闇から躍り出た。
俺が前衛、オアゲちゃんは支援担当。久しぶりだったけど、いつも通り息の合ったコンビネーションだ。
【Oage】スタバフ入れるねー✨
【Noto】了解。ヘイト取る
【Oage】回復は任せなさい(`・ω・´)ゞ
回復の光が画面に広がるたび、闇がひとつ後退する。オアゲちゃんの魔法は柔らかい色で、光の余韻が長い。それが画面越しでも“優しさの温度”を持って届く。
(誰かに助けられるのって、案外悪くないな)
ゲームだと、誰かの優しさがちゃんと光で見える。現実にもエフェクトがあれば、気まずさや遠慮より先に「ありがとう」って言えそうなのに。
『現実でも周りとこれくらい息合わせろよ』
(ごもっとも。……でも、ここは安全なんだよ)
最後のゲージが割れる音が響くと、敵が倒れ、星の欠片が夜空へ散った。戦闘BGMが止んで、静かな海風だけが甲板に残る。
【Oage】ありがと!やっぱのとくん安定~✨
【Noto】君の支援が上手いだけ。バフのタイミング神
【Oage】……ほんと、そう言ってくれるのNotoくらいだよ
【Noto】ほんとのこと。現実デバフまみれだから沁みる
【Oage】のとくん、お疲れなんだね~?
一拍の間が空いて。
【Oage】(・∀・)つ🌟<リアルバフ!
冗談みたいな絵文字なのに、胸の奥にぽん、と灯りが点いた。誰かの手から届いた印みたいに、小さいけど確かな光。こういう他愛ないやりとりに救われる夜がある。
ログアウトした瞬間、部屋の静けさが戻ってくる。現実の空気が少し冷たく感じた。けれど、不思議と息はしやすかった。たぶん、ちゃんと逃げられたから。
『逃避、成功。現実HP+10』
「……ありがと」
『で、問題は現実だが?』
「やば、日付回ってる!」
ケロスケは肩から枕にぴょん、と降りた。吸盤がシーツにぺたっと張り付く。人間みたいな寝支度に、思わず笑う。窓の外、雲の切れ目に月が薄く光った。
◇
22
あなたにおすすめの小説
とある金持ち学園に通う脇役の日常~フラグより飯をくれ~
無月陸兎
BL
山奥にある全寮制男子校、桜白峰学園。食べ物目当てで入学した主人公は、学園の権力者『REGAL4』の一人、一条貴春の不興を買い、学園中からハブられることに。美味しい食事さえ楽しめれば問題ないと気にせず過ごしてたが、転入生の扇谷時雨がやってきたことで、彼の日常は波乱に満ちたものとなる──。
自分の親友となった時雨が学園の人気者たちに迫られるのを横目で見つつ、主人公は巻き込まれて恋人のフリをしたり、ゆるく立ちそうな恋愛フラグを避けようと奮闘する物語です。
30歳まで独身だったので男と結婚することになった
あかべこ
BL
※未完
4年前、酒の席で学生時代からの友人のオリヴァーと「30歳まで独身だったら結婚するか?」と持ちかけた冒険者のエドウィン。そして4年後のオリヴァーの誕生日、エドウィンはその約束の履行を求められてしまう。
キラキラしくて頭いいイケメン貴族×ちょっと薄暗い過去持ち平凡冒険者
病んでる愛はゲームの世界で充分です!
書鈴 夏(ショベルカー)
BL
ヤンデレゲームが好きな平凡男子高校生、田山直也。
幼馴染の一条翔に呆れられながらも、今日もゲームに勤しんでいた。
席替えで隣になった大人しい目隠れ生徒との交流を始め、周りの生徒たちから重い愛を現実でも向けられるようになってしまう。
田山の明日はどっちだ!!
ヤンデレ大好き普通の男子高校生、田山直也がなんやかんやあってヤンデレ男子たちに執着される話です。
BL大賞参加作品です。よろしくお願いします。
11/21
本編一旦完結になります。小話ができ次第追加していきます。
愛だの恋だの馬鹿馬鹿しい!
蘇鉄
BL
「俺は誰とも関わりたくないんだけどなあ、おかしいなあ?」
『回答。ユーザー様の行動が微妙に裏目に出ています。シミュレーション通りにならず当システムは困惑しております( ゚Д゚)』
平和な学生生活を手に入れるために生活サポートAIシュレディンガーと共に色々と先回りして行動していたらいつの間にか風紀委員やら生徒会やらに追い回される羽目になっていた物部戯藍。
街を牛耳る二大不良チームも加わる中、執着される理由がわからず困惑しつつも彼は平穏な生活の為に逃げ回る。
彼は愛も恋も信じない。それはとても不確かなものだから。バカバカしいまやかしだと決めつけて。
※ 不定期更新です
俺の“推し”が隣の席に引っ越してきた
雪兎
BL
僕の推しは、画面の向こうにいるはずだった。
地味で控えめなBLアイドルグループのメンバー・ユウト。彼の微笑みと、時折見せる照れた横顔に救われてきた僕の、たった一つの“秘密”だった。
それなのに、新学期。クラスに転校してきた男子を見て、僕は思わず息をのむ。
だって、推しが…僕の隣に座ったんだ。
「やっと気づいてくれた。長かった〜」
――まさか、推しの方が“僕”を見ていたなんて。
推し×オタクの、すれ違いと奇跡が交差する、ひとくち青春BLショート。
キスの仕方がわかりません
慶野るちる
BL
全寮制男子校に入学した市原はクラス委員長になったため書類を提出しに生徒会室に行くと、そこに一人いた、初対面の副会長の近藤に襲われてしまう。
混乱するも相部屋の同級生・松川に助けられて元気を取り戻したある日、生徒会長の桜野から仕事を手伝って欲しいと依頼される。
最初は近藤に無視されていたが手伝う中で近藤から告白され、近藤への印象が少しずつ変わっていく市原だが。
表紙:Photo by Markus Spiske on Unsplash / powered by かんたん表紙メーカー様
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
聞いてた話と何か違う!
きのこのこのこ
BL
春、新しい出会いに胸が高鳴る中、千紘はすべてを思い出した。俺様生徒会長、腹黒副会長、チャラ男会計にワンコな書記、庶務は双子の愉快な生徒会メンバーと送るドキドキな日常――前世で大人気だったBLゲームを。そしてそのゲームの舞台こそ、千紘が今日入学した名門鷹耀学院であった。
生徒会メンバーは変態ばかり!?ゲームには登場しない人気グループ!?
聞いてた話と何か違うんですけど!
※主人公総受けで過激な描写もありますが、固定カプで着地します。
他のサイトにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる