蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.34 静かな日々の終わり(後)≪晴れ時々曇りのち雨≫

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 ◇
 
 放課後、俺は図書館へ向かった。今日は当番じゃなくて、ただの利用者として。半地下の静けさは、頭の中を一度まっさらにするにはちょうどいい。廊下から少し下りるだけで、温度と明るさがひとつ落ちる。

 窓際の席に腰を下ろし、文庫本を開いた。ページの乾いた手触りと、インクの淡い香り。空調の風がカーテンをすこしだけ動かして、音がほとんどしない。この変わらない静けさが、俺の“平常”を思い出させてくれる。

『平常復帰モード、起動』
(よし)

 ——自動ドアが開く音がした。
 そのわずかな気流の変化だけで、図書館全体の空気の変化を肌で感じる。
 顔を上げると、神代がカウンターで司書に軽く会釈していた。
 そのままこちらへ歩いてきて、目線だけで“そこ、いい?”と問う。
 
「……どうぞ」
 気づけば口が動いていた。“はい病”。
 断るという選択肢は、俺の辞書に最初から存在してない。

『平常モード、三分で終了のお知らせ』
(短かった……)
 
 神代は向かいの席に腰を下ろすと、鞄を静かに置き、腕を机の上にのせる。
「当番じゃない日も、ここに来てるんだ?」
「……うん。落ち着くから」
「静かな場所、いいよね」
 言葉は穏やかに流れる。
 けれど俺の指先はページの上で止まっていた。文字を追っているつもりでも、意味はまったく入ってこない。

『リズム、壊された』
(自覚はある)
 
 神代は視線を落としながら言った。
「そういえば図書委員の資料整理、助かった。書庫の資料を綺麗に分類してくれたって聞いたよ。使用頻度別ですごく使いやすかった」
「……委員長の習性が移っただけだよ」
「やっぱり、あれ。雨宮がやってくれたんだ」
「あ、いや……」
 口がすべった。
 あの日、書庫の棚を整理していたのは、考えることを止めたかったからだ。何も考えずに手だけ動かしていれば、心が落ち着いた。綺麗に並ぶと自分の中身も整うようで。誰かの役に立てばとか、そんな意識はなかった。自分のためだった——のに。

「そういうの、俺は好きだよ」

 “好き”って単語が、机の上にぽん、と置かれた気がした。
 ただの褒め言葉だってことは分かってる。性格の話であって、変な意味じゃない。なのに、その一語だけ蛍光ペンで引かれたみたいに耳に残る。
 ほんの一瞬、会話が途切れて、本の端に置いた指先にいらない力が入りすぎているのが分かった。

「……そう」

 返事をしてから、自分の声が少し上ずっていたことに気づく。
 神代はいつもの落ち着いた顔で、やっぱり特別なことを言った自覚なんてなさそうだった。
(でも……そういう言葉、神代はあまり気安く言わないでほしい)
 そこまで言葉にはならない。自分でも理由がはっきりしない小さな違和感だけが、指先に残る。

 軽く落ちた言葉なのに、胸のあたりだけ、ぽちゃんと沈んだままだ。目の前のページの文字が、うまく頭に入ってこなかった。
 
 神代の視線がふと俺の首筋で止まった。白い蛇の気配が、襟の奥で息をしている気がする。今日は向こうが隠れていて、距離が少し遠い。でも、見てる。
(……やっぱり、分かってるんだろ。俺が怖がってるって)
 言葉にしなくても、向こうの目はすべて知っているようだった。

「雨宮は、本を丁寧に扱うんだね」
「図書委員だから」と短く返す。
 そのとき、神代の指が本の端に触れた。
 ページの縁を滑る指先がかすかに重なって、「えっ」と思う間もなくすぐ離れる。それだけのことなのに、鼓動が跳ねた。

 外の光がゆっくりと傾く。半地下の窓から見える空は、白から灰に変わりかけていた。

 神代はページを見ているふりをして、たぶん俺を見ている。
 俺も、神代を見ないふりをして、視線を本に置いたまま同じ行を何度も辿っていた。
 
 ◇
 
 結局、三十分ほどで本を閉じた。ページの端に、さっきまでの体温がまだ少し残っている気がして、その感覚ごと急いで頭から追い出した。
 椅子を引く音がやけに響く。早歩きにならないよう気をつけながら、図書館を出た。
 今日は、“安全地帯”に針でちくっと穴を開けられたみたいだった。
 
『逃げ足、早い』
(もっと優しい言い方ない?)
『褒めてるんだよ、これでも』
(いや、絶対嘘)
 
 階段を上がると空気の温度が一度上がる。中庭の石畳は夕方の色を吸って重たくなり、花壇の縁に溜まった水が細く光っていた。空の雲は厚みを増し、風の匂いが湿っている。
 
 一滴、二滴。
 気づいたときには、雨が細い線になっていた。

(……傘、忘れた)
 朝の決意(不発)で手一杯で、天気予報を見逃していたことに気づく。
 昇降口まで戻るか、濡れる覚悟を決めるか。その計算が終わる前に、後ろから影がひとつ、静かに重なった。

「降ってきたね。また濡れると、風邪ひくよ」

 透明な傘の端から雫がぽたっと落ちた。神代が立っていた。
 断るはずの言葉が喉の入口で丸くなる。


 



 “やめてください”と声を出したあの日の光景が、ふっと浮かぶ。
 思わず手を振り払ってしまったときの、あの冷たい沈黙。ほんの一瞬だったけど、——あんな顔を、もう一度見たくない。
 少しためらったが、俺は思わず頷いていた。
 今度は、手を振り払わなかった。それだけのことなのに、胸の奥で何かがきゅっと鳴る。
「……あ、はい」
『“はい病”、再発確認』
 胸の奥でケロスケが小さく跳ねる。今日いちばん素直な“発症”だった。

 傘の内側は想像よりも狭かった。肩が軽く触れるか、触れないか。そのあいだの距離。外の雨が音を立てているのに、内側だけ妙に静かだった。
 透明な傘の内側で肩のあたりが少し重くなる。ケロスケが、目に見えない身体をぎゅっと小さくして乗っているのが分かった。
(蛇の懐に入ってる蛙、ってやつだよな。これ)

「家、あっち?」
「電車だから、駅の方なんだけど……」
「同じ方向だ。駅まで一緒に行こう」
「……迷惑じゃ、ない?」
「迷惑って思うなら、次に貸して」

 遠慮で逃げようとしたら、冗談の形で逃げ道を塞ぐの、ずるい。
 会話はそこで途切れた。けれど、沈黙は雨音がぼかしてくれる。二人分の足音が、透明な膜の中で静かに混じる。
 
 雨が傘に当たって、パラパラと静かな音だけが重なっていく。
 
 通用門の手前、自転車置き場の屋根の下に朱里と白河が見えた。白い袋を片手にこちらに気づく。白河が手をひらひら振り、口の形で「相合い傘~」と言う。
(やめろ、白河)
 朱里は目だけ少し細めた。口は笑っているのに、いつもと温度が違って見えた。
 俺は視線を逸らした。うまく笑えない。
 
(静かな一日を、また守り損ねた)
 足音だけが地面の水を小さく弾く。小さな敗北感を引きずったまま歩いた。

 ◇
 
 帰宅してカバンをベッドに置く。制服を脱ぐ前に、ケロスケが肩からぴょんと下りて枕元に座った。
『距離、また詰められてるぞ』
「……分かってる」
『お前、拒むの下手すぎ』
「……断るの、苦手なんだよ」
『知ってる。優しさと“はい病”の合併症』
 
 仰向けに倒れ込むと、吸盤の指が俺の親指をつまむ。小さいのに主張は強い。
 ——優しいのはケロスケの方だ。臆病なのは、俺。
 
「今日一日、息を殺してたのに、見つかる。……蛇って嗅覚、強いんだっけ?」
『めちゃくちゃ強い。“欲望”の嗅覚がな』
「生き物としての蛇じゃなくて、人間の方の話なんだけど」
『そっちはもっと厄介』
 
 苦笑いが喉の奥でこぼれた。
 窓の外で雨が強くなる気配がする。ペットボトルの水を一口飲む。冷たさが喉を通っていくと、ようやく体が自分のものに戻った気がした。
 
 “壊れる”って、何がだろう。関係か、日常か。それとも自分か。どれかひとつを選べないまま、その答えだけが胸の奥で沈黙していた。

 あの日、生徒会棟の前で初めて傘を差し出されたときは、思わず反射で手を振り払ってしまった。
 今日は同じように降り出した雨で、同じような距離で——頷いた。
 それだけの違いなのに、今日の“普通”は、もう昨日の“普通”とは違う。

(静かに過ごすって、こんなに難しかったっけ)

 窓の外で雨音が日常を少しずつ溶かしていく。
 天気予報は明日も曇りのち雨。心の中の天気も、たぶん降りやすい。
 それでも——傘を持っていく準備だけはしておこうと思った。

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