蛇に睨まれた蛙は雨宿りする

KAWAZU.

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Ep.37 逃げても、追いつく(前)≪曇りのち雨≫

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 朝、窓ガラスが白く曇っていた。指で円を描くと、外の空は牛乳を薄めたみたいな白に、ところどころ薄い青がのぞいていた。
 六月の手前の湿った空気が頬に張り付き、ノートの端がゆるく波打つ。線を引いたマーカーは、いつもより乾くまでゆっくりだった。

『空もお前も、湿度高めだな』
(……放っとけ)

 ケロスケがペンケースの影からぴょこっと顔だけ出して、勝手に天気予報を始めた。『気圧が下がると人間はバグる』と、さっきから主張がうるさい。反論はあるけど、当たってるのが腹立たしい。
 俺は筆圧を落として、今日の予定を書き出した。三限まで教室、四限は選択科目で移動、午後は——

 言葉にしておかないと、すぐに俺は飲み込む。それをこの数週間、何度も繰り返してきた。

 今日は言う。そう決めてきた。

 先日の《Asterveilアスターヴェイル》で、誰かの「逃げてもいい」に背中を押された。逃げるための呼吸の仕方を、少しは覚えた気がする。
 
 午前最初の授業は小テストだった。シャーペンの芯が紙を走る音まで、湿気で少し鈍い。問題は簡単なのに、手の動きが遅いのは、俺が集中しきれていないからだ。胸の奥で小さく整えた決心の火が灯ったり、ふっと揺れたりする。

「お前の顔、湿度計かよ」

 チャイムと同時に、前の席から朱里が椅子を半回転させた。口元は笑っているけど、目が少し俺を測る。

「今日は気圧が低いだけ」

 白河が前の席でプリントをパタパタさせる。

「おーい雨宮、小テスト出した?」
「出した。白河こそ財布持った?」
「おう、購買に命かけてるからな」
「毎日命がけじゃん」

 朱里が前から割って入る。

「湊も購買付き合え」
「俺は弁当」
「知ってる。列に並ぶ俺らを見て笑う役な」
「ひどい役だな」
 
 購買方面へ階段を下りながら、朱里が白河をスマホでつついている。

「白河、一昨日の写真データ送れ。最高にダサいやつ選別する」
「おいおい、俺の評判操作やめろ」

 普通の会話がいつもと同じように流れていく。そこへ、自分の“普通じゃない言葉”をどこで差し込むか。

 言おう。言う。言える。……たぶん。いや、言う。

 タイミングを計り続けるのは思っているより体力を使う。この何でもない日常を自分で守れるなら、どんなに楽か。呼吸の三拍子。吸って、止めて、吐く。
 胸の真ん中に、ひっそり決意を置いた。

 ◇

 午後の体育は、雨の予報で視聴覚室に変更になった。A組とB組の合同授業はまだ続いていた。
 視聴覚室は薄暗くて、空調の風がやけに存在感を持つ。A組が先に並んでいて、スクリーンの青白い光に照らされた横顔の列に、見覚えのある輪郭が混じる。神代 怜。目が合う前に視線を戻す。音のない準備運動みたいに、ゆっくり息を吐く。

 保健の映像が始まる。睡眠とストレスの関係とか、適切な呼吸法とか。なんだかタイミングが良すぎて、笑えない。
 隣の列の紙がめくられる音に、いちいち意識が引っ張られる。俺はスクリーンを見ているふりをしながら、その横顔をちらっと見た。黒いペンを持つ、所作のきれいな手、長い指先。光の反射が睫毛の影を薄く伸ばす。

 ——今日、言う。

 終わりの号令がかかる。
 ざわめきが一斉に立ち上がって、扉へ向かう列ができる。俺は教室へ戻る側の流れに乗りかけて——静かな声に、背中を引かれた。

「雨宮。……このあと、少し時間ある?」
 
 振り返ると、人の波から半歩離れて神代がいた。彼の声はいつも通り静かだった。けれど、その目の奥がどこか近い。
 教室へと戻る生徒達のいくつかの目が、立ち止まった俺たちを一瞬かすめては通り過ぎていく。
 投げられた質問を、いつもの“反射”が受け止めにかかる。喉から「はい」が出かけて、口を結んだ。
 
『言え。「はい」の前に、息しろ』

 ケロスケが胸の内側で小突く。
 俺は一度だけ、吸って——言葉の形が変わった。

「……俺も、話があるんだ」
 
 自分の声が自分のものとして、だけど自分の声じゃないみたいに静かに出た。
 神代は目だけ柔らかくして「うん」と頷く。約束の場所を決めるほどでもなく、自然に視線が同じ方向へ向いた。
 
「じゃあ、場所変えようか。図書館にする?」
「……中庭、でもいい?」
「どっちでも、雨宮が話しやすい方で」
 
 話しやすい方。そんな配慮に、逆に足をすくわれるときがある。逃げやすいように「ここが非常口だよ」って優しく示された場所の前で、自分だけ鍵を握ったまま立ち尽くす。
 そんな映像が一瞬ちらつく——って、考えすぎ……か。
 
 ◇
 
 六時間目の終わり頃から、雨は降りはじめた。中庭へ続くガラス戸の手前、湿った風が薄い膜になって立ち止まらせる。放課後の校内は、雨の日特有の落ち着いたざわめきに包まれていた。
 図書館へと続く石畳はしっとり濡れて、人の気配はほとんどない。
 俺は紺色の傘を開いて、中ほどにある小さな噴水近くで待つ。
 
『今なら引き返せる』
「ここまで来て?」
『逃げるのも勇気。……だが今日は、言う勇気の番か』
 
 少しして、神代が「待たせた」と透明の傘を少し上げる。

「今来たところ」

 自分でもベタだなと思う返事が、今日だけは便利な相づちになった。
 紺と透明の丸い屋根が二枚、少し離れて並ぶ。
 
 見ないふりをするのは、やめた。
 視線を上げると、神代の目が静かにこちらを待っている。
 言うなら、今だ。
 頭の中で順番を並べて、余計な言い訳を捨てる。形だけ整えてきた勇気の箱を、そっと開ける。
 
「……俺さ」

 声が少しだけ震えた。けれど、止まらない。

「昔から、蛇が怖いんだ。ちょっとってレベルじゃなくて、動けなくなるくらい……怖い」

 言葉は素直に出た。自分で思ったより落ち着いていた。目線は石畳の縁。雨が作る小さな波紋にピントが合う。
 神代は、うなずきもしないで、ただ聞いていた。否定も肯定もしない沈黙は、意外と優しい。
 
「神代くんが怖い、って言うと、語弊ごへいあるんだけど。でも、俺の中では、今、それが重なってて——」

 喉が、ひとつ、息を吸う。

「だからさ。今は、ちょっと……距離をとってほしくて」
 
 言えた。言ってしまった。
 ここまでが、今日のゴールだ。言葉が出るたび、胸の中の空気がゆっくり入れ替わっていく。ずっと飲み込んでいた水を、やっと少し吐き出せたみたいに。
 目は合わせない。合わせたら、たぶん、言葉が崩れる。
 面と向かって“怖い”と言うのは、やっぱり怖い。けれど、曖昧に誤魔化すのはもう嫌だった。
 ケロスケが、傘の柄の影に隠れて小さく息を吐いたのが分かった。

「嫌いとか、そういうんじゃない。ほんとに。ただ、どうしても体が勝手に怖がるから、時々息がうまくできなくなる。だから……」

 そこまで言って、いったん止める。
 雨音が少し強くなる。傘の端を打つ水の粒が、近づく足音みたいに聞こえた。

「——分かった」
 
 返事とほぼ同時に、傘を叩く粒が少し速くなった。ビニール傘に、細い線みたいな音が重なる。
 神代の声は、普段と変わらない穏やかな温度だった。
 視線を上げないまま、俺は頷く。

 ◇
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