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Ep.38 逃げても、追いつく(後)≪曇りのち雨≫
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◇
『よく言った。心拍、やっと落ち着き始めたな』
(……うん)
神代は目を伏せ、ほんの一瞬だけ考えるみたいに間を置いた。それから顔を上げる。
「……そっか。距離、ね」
受け止められた、と思うと、膝の力が少し抜けて、重かった何かが半分だけ肩から降りた。視線を落として、傘の端から垂れた雨粒を見つめる。
一拍。静けさが置かれる。
その間に、傘の影がこちらへ一歩分近づいた。ほんの一歩。距離が縮むと、空気の密度が変わる。雨の匂いに混じって、洗い立ての布と淡い新緑の匂いが鼻先をかすめた。
「でも」
静かに引っかかる一言。俺が顔を上げる前に、傘の縁が触れ合った。二つの傘が重なって、雨音が二人の間で、ふっと小さくなる。
「……嫌だ」
(……え? 今、なんて?)
聞き間違いかと思った。雨音の方が大きいせいだ。
だけど神代は、同じ温度の声で、同じ言葉をもう一度置いた。
「俺は嫌だよ」
彼は笑わなかった。言葉は柔らかいのに、芯がある。
「え?」
「……取りたくない。距離、取れない」
言葉が静かな重さで落ちてきた。
やっと、ゆっくりと視線を上げる。
いつも通りの穏やかな目が、こちらを見ていた。だけどその奥に、見たことのない色がある。白い蛇の光じゃない、人間の熱の方。
その熱を目の当たりにして、心臓が変な跳ね方をした。傘の取っ手を握る手がじわりと汗ばむ。
「怖がられてるのは分かってる」
声は静かだ。
「でも、怖がられていても、見られてるうちはまだ、届く気がするから」
傘の柄を持つ手に、彼の手が重なった。見た目より温かい。指先がほんの少し震えているのは、どっちだろう。
届く——? 誰に、何が。
「……俺なんかが、これ以上、神代くんに失礼なことして迷惑を——」
「迷惑なんて思ってない。一度も思ったこと、ない。……勝手に決めないで」
言い切り方が綺麗で、敵わない。
反論を用意してこなかった俺が悪いのかもしれないけど、用意なんて、できるわけがないじゃないか。
手元で傘の柄に触れる指が滑った。俺の傘のグリップに、神代の指が重なる。
「ちょっ——」
『逃げろ。心臓もたねぇ』
(無理。脚が、言うこと聞かない)
神代が片手で俺の傘をすっと引いて、器用に畳む。抵抗する前に、温度がふっと近づいた。手首を導かれるみたいに、神代の傘の内側へ正面から引き込まれる。
胸のあたりに軽くぶつかって、反射的に目をぎゅっと閉じた。
おそるおそるまぶたを上げると、すぐ目の前に神代のシャツの生地とネクタイの結び目、その少し上でわずかに上下する喉仏がある。呼吸がそこでぷつりと切れた。
(近……)
一瞬、何が起きたのか分からない。頭の中が真っ白になる。何か考えようとしても、思考の歯車だけが空回りして、言葉の形になる前にどこかで溶けていく。
“距離を取ってほしい”と願い出たばかりにも関わらず、『離れろ』も『やめて』も、口の手前まで来て引き返してしまう。
さっきまで外側にあった洗い立ての布と、柔らかい新緑みたいな匂い。何度目かで覚えたはずなのに、こんな距離で吸い込んだのは初めてで、心臓の音だけが耳の内側でやけに大きく跳ねた。
透明な膜の中で雨音が遠くなった。反射で後ろに下がろうとしたが、足は動かなかった。距離が、なくなる。いつもなら真っ先に浮かんでくる恐怖を、この瞬間だけは、どこかに置き忘れてきたみたいだった。
少しだけ傾いた傘の縁から、雨が外へ滑り落ちる。その細い筋だけが、現実の時間を思い出させた。
「雨、強くなってきた。……中、入ろう?」
そんなふうに切なそうに笑いながら、逃げ道を塞がないでほしい。そう言おうとした口が、先に別の言葉を作る。
「……ずるい」
「よく言われる」
やっと出た俺の反撃は、情けないくらい短かった。彼は少しだけ口角を上げた。穏やかな優等生の笑み。けれど目の奥は、まったく優等生じゃなかった。
提案の形をした連行だ。会話なんて成立していない。本当は断る、って選択肢がどこかにあったはずなのに、手探りしても見つからないままだった。
ケロスケが胸元で『はぁ』とため息をつく。
そのまま数秒動けなかった。傘の内側の空気が雨に閉じ込められたみたいに狭い。肩の近さも、呼吸の音も、視線の熱も、逃げ場がないようで。
神代がわずかに傘を持ち直しただけで、距離がまた一段縮んだ気がして、心臓に悪い。
視界の端で、彼の睫毛が雨粒の光を拾っていた。近い。近すぎる。
『これ、逃げても捕まる仕様』
(開発元に文句言っといて)
小さな声で返したら、ケロスケが『けろ』とだけ鳴いた。苦笑いに近い音だった。
その一拍遅れでようやく足が動き出す。並んで歩くというより引かれるみたいに同じ歩幅になる。透明の傘の下で鳴る雨音は、もう完全に別の世界の音だった。
◇
自動ドアが音もなく開くと、図書館の冷たい空気が頬を撫でる。ビニールの傘がたたまれ静かに水滴を落とす。屋内の光に目が慣れるまでの数秒がやけに長い。俺の傘と神代の傘が傘立てに並ぶ。
俺の手は、まだ少し震えていた。怖い。けれど、逃げ出したいとは不思議と思わなかった。
カウンターの向こうに司書の先生がいて、軽く会釈を交わす。
神代は視線だけで「時間まだ、いい?」と聞いてきた。
「……少しだけ」
自分の声が思ったより普通だったのは、室内の明るさのせいかもしれない。窓のそばの席に並んで座る。外の雨は白いカーテンになって、世界の輪郭を柔らかくする。
沈黙がひとつ落ちたあと、神代が小さく言った。
「さっきの話。言ってくれて、ありがとう」
先ほどから聞き間違えてばかりいる気がしてならない。ありがとうなんて言われることじゃない。
でも、言われてみると胸の少し深いところに沈む。ちょっとズキッと痛む。それから、“言えた”の実感が遅れて届いた。
「……俺、ほんとに苦手で」
「知ってる」
「知ってるって、何」
「見てたから」
見てた、の主語は誰だ。神代自身か、その肩の白いやつか。でも確かめるのは、今じゃない。
「逃げるのはいい。……でも、逃がすのは嫌だな」
どういうことだよ。受け入れてくれているようで、まったく聞き入れてもらえてない。雨がガラスを叩く音と混ざって、鼓動の速度が少し上がる。
頭のどこかで「それ、話聞いてます?」って冷静にツッコんでるのに、胸の方は妙にざわざわして、息の置き場所が分からなくなる。距離を取らせてくれる言葉を期待していたのに、渡されたのは別の種類のロープだ。
「だから、雨宮は逃げてもいいよ。怖いって、言っていい」
穏やかでまっすぐな声でそう言うと、神代は少しだけ笑った。図書館の白い光が眼差しの縁を柔らかくする。
「……うん」
俺の声は小さかった。
神代の言い方が優しい方向に曲がって、油断を生む。
けれど、その次の一言で、空気の向きがまた変わる。
「……でも、俺が追うから」
「…………」
「逃がさないよ」
「………………え」
『え……?』
脳内のテロップが一瞬でバグる。“逃げてもいい”と“逃がさない”が同じ口から出てくる意味が理解できない。蛇が怖いとか、距離を取りたいとか、さっきまで自分が並べていた理屈が、一気に机から払われたみたいに床に散らばる。拾おうとしても指が震えて、何ひとつつかめない。
「『えーー!?』」
俺とケロスケの間抜けな合唱が、見事にハモった。今日いちばんの無駄な連携。
カウンターの端で貸出カードがぱらっと鳴る。一拍遅れて口を押さえた。司書の先生がカウンターの奥からちらりと顔を出し、「静かにね」と目で合図した。すみません。
「何それ」
「本音。雨宮が本音を言ってくれたから、俺も」
神代は少しだけ肩をすくめた。いつもの完璧な笑みじゃない。均等に整えてきた優しさを少し崩して、わざとバランスの悪いところで止めている顔。
“本音”って軽く言うな。こっちは勇気をかき集めて、やっと一個出せたのに、その倍くらい重いものをさらっと返してこないでほしい。ひとつひとつ非常口に鍵を掛けられていく感覚に、自分の感情のラベル貼りがまったく追いつかない。
「じゃあ、俺の“距離”は?」
「雨宮が決めていい。——でも、俺の“歩幅”は俺が決める」
言葉の意味が少し遅れて胸に届く。俺が後ろに下がるなら、あっちは同じだけ前に出る、という宣言だ。伸びた距離感、ゼロ。清々しさが腹立たしい。
逃げ道の数は増えていない。その上で、「逃げてもいい」と「追うから」が同居してるせいで、なぜか“ひとりきりにはなれない”ってことだけは分かってしまう。
怖いのに、なぜかほんの少しだけ、ほっとしてしまった自分がいる気がして、それが一番やっかいだと気づいた。
「ずるい」
二回目は、さっきより正しい抑揚で言えた。
「知ってる」
神代が少しだけ笑って窓の外に視線をやった。
その肩の内側で白い気配の端がふっとほどける。鱗の光が弧を描いて、口元らしき線がわずかに上がった——そんな“錯覚”が走る。
『……笑ったな、あの白いの』
(やめろ、そう見えるから)
すでに白い蛇の気配は、彼の肩の内側で静かに丸まっている。見ようとすれば見える。見ない、と決めたわけでもない。ただ、蛇への怖さは相変わらずどこかにあるはずなのに、この図書館の白い光の中では、すこし後ろの棚に押しやられている気がした。
『進化ポイント+1。だが敵はレイド級』
(分かってる。攻略法が見えない)
『うむ。だが、“逃げる”コマンドは覚えた』
(うん。でも“この戦闘は逃げられません”ってやつだ)
机の木目がやけにきれいに見える。
“怖い”を言ったのに、逃げきれない。それなのに胸のどこかが軽い。言った分だけ逃げ場が増えた。
たぶん初めてだ。こういう矛盾を、矛盾として抱えたまま座っていられるのは。
逃げきれない自分を少しだけ許せた気がした——きっと、今日が初めてだ。
雨音が少しだけ弱くなる。透明な窓ガラスの向こうで、雲の縁がほどける。細い光が、ページの余白みたいに机の端へ伸びた。
俺はゆっくり目を閉じて、三拍で吸い、四拍目で、胸の奥の“形”をほんの少しだけ崩した。今日のそれは、いつもより正直だ。
傘立てに並んだ二本の柄が、透明な水滴を落としている。どちらの傘にも、同じ雨が残っている。そこに違いはない。
“怖い”は言えた。だけど、逃げきれなかった。
握りつぶされたみたいに見えたけど、言葉は消えなかった。耳の奥に、ちゃんと残っている。
明日の天気は分からない。それでも、傘は——持ってくる。
『よく言った。心拍、やっと落ち着き始めたな』
(……うん)
神代は目を伏せ、ほんの一瞬だけ考えるみたいに間を置いた。それから顔を上げる。
「……そっか。距離、ね」
受け止められた、と思うと、膝の力が少し抜けて、重かった何かが半分だけ肩から降りた。視線を落として、傘の端から垂れた雨粒を見つめる。
一拍。静けさが置かれる。
その間に、傘の影がこちらへ一歩分近づいた。ほんの一歩。距離が縮むと、空気の密度が変わる。雨の匂いに混じって、洗い立ての布と淡い新緑の匂いが鼻先をかすめた。
「でも」
静かに引っかかる一言。俺が顔を上げる前に、傘の縁が触れ合った。二つの傘が重なって、雨音が二人の間で、ふっと小さくなる。
「……嫌だ」
(……え? 今、なんて?)
聞き間違いかと思った。雨音の方が大きいせいだ。
だけど神代は、同じ温度の声で、同じ言葉をもう一度置いた。
「俺は嫌だよ」
彼は笑わなかった。言葉は柔らかいのに、芯がある。
「え?」
「……取りたくない。距離、取れない」
言葉が静かな重さで落ちてきた。
やっと、ゆっくりと視線を上げる。
いつも通りの穏やかな目が、こちらを見ていた。だけどその奥に、見たことのない色がある。白い蛇の光じゃない、人間の熱の方。
その熱を目の当たりにして、心臓が変な跳ね方をした。傘の取っ手を握る手がじわりと汗ばむ。
「怖がられてるのは分かってる」
声は静かだ。
「でも、怖がられていても、見られてるうちはまだ、届く気がするから」
傘の柄を持つ手に、彼の手が重なった。見た目より温かい。指先がほんの少し震えているのは、どっちだろう。
届く——? 誰に、何が。
「……俺なんかが、これ以上、神代くんに失礼なことして迷惑を——」
「迷惑なんて思ってない。一度も思ったこと、ない。……勝手に決めないで」
言い切り方が綺麗で、敵わない。
反論を用意してこなかった俺が悪いのかもしれないけど、用意なんて、できるわけがないじゃないか。
手元で傘の柄に触れる指が滑った。俺の傘のグリップに、神代の指が重なる。
「ちょっ——」
『逃げろ。心臓もたねぇ』
(無理。脚が、言うこと聞かない)
神代が片手で俺の傘をすっと引いて、器用に畳む。抵抗する前に、温度がふっと近づいた。手首を導かれるみたいに、神代の傘の内側へ正面から引き込まれる。
胸のあたりに軽くぶつかって、反射的に目をぎゅっと閉じた。
おそるおそるまぶたを上げると、すぐ目の前に神代のシャツの生地とネクタイの結び目、その少し上でわずかに上下する喉仏がある。呼吸がそこでぷつりと切れた。
(近……)
一瞬、何が起きたのか分からない。頭の中が真っ白になる。何か考えようとしても、思考の歯車だけが空回りして、言葉の形になる前にどこかで溶けていく。
“距離を取ってほしい”と願い出たばかりにも関わらず、『離れろ』も『やめて』も、口の手前まで来て引き返してしまう。
さっきまで外側にあった洗い立ての布と、柔らかい新緑みたいな匂い。何度目かで覚えたはずなのに、こんな距離で吸い込んだのは初めてで、心臓の音だけが耳の内側でやけに大きく跳ねた。
透明な膜の中で雨音が遠くなった。反射で後ろに下がろうとしたが、足は動かなかった。距離が、なくなる。いつもなら真っ先に浮かんでくる恐怖を、この瞬間だけは、どこかに置き忘れてきたみたいだった。
少しだけ傾いた傘の縁から、雨が外へ滑り落ちる。その細い筋だけが、現実の時間を思い出させた。
「雨、強くなってきた。……中、入ろう?」
そんなふうに切なそうに笑いながら、逃げ道を塞がないでほしい。そう言おうとした口が、先に別の言葉を作る。
「……ずるい」
「よく言われる」
やっと出た俺の反撃は、情けないくらい短かった。彼は少しだけ口角を上げた。穏やかな優等生の笑み。けれど目の奥は、まったく優等生じゃなかった。
提案の形をした連行だ。会話なんて成立していない。本当は断る、って選択肢がどこかにあったはずなのに、手探りしても見つからないままだった。
ケロスケが胸元で『はぁ』とため息をつく。
そのまま数秒動けなかった。傘の内側の空気が雨に閉じ込められたみたいに狭い。肩の近さも、呼吸の音も、視線の熱も、逃げ場がないようで。
神代がわずかに傘を持ち直しただけで、距離がまた一段縮んだ気がして、心臓に悪い。
視界の端で、彼の睫毛が雨粒の光を拾っていた。近い。近すぎる。
『これ、逃げても捕まる仕様』
(開発元に文句言っといて)
小さな声で返したら、ケロスケが『けろ』とだけ鳴いた。苦笑いに近い音だった。
その一拍遅れでようやく足が動き出す。並んで歩くというより引かれるみたいに同じ歩幅になる。透明の傘の下で鳴る雨音は、もう完全に別の世界の音だった。
◇
自動ドアが音もなく開くと、図書館の冷たい空気が頬を撫でる。ビニールの傘がたたまれ静かに水滴を落とす。屋内の光に目が慣れるまでの数秒がやけに長い。俺の傘と神代の傘が傘立てに並ぶ。
俺の手は、まだ少し震えていた。怖い。けれど、逃げ出したいとは不思議と思わなかった。
カウンターの向こうに司書の先生がいて、軽く会釈を交わす。
神代は視線だけで「時間まだ、いい?」と聞いてきた。
「……少しだけ」
自分の声が思ったより普通だったのは、室内の明るさのせいかもしれない。窓のそばの席に並んで座る。外の雨は白いカーテンになって、世界の輪郭を柔らかくする。
沈黙がひとつ落ちたあと、神代が小さく言った。
「さっきの話。言ってくれて、ありがとう」
先ほどから聞き間違えてばかりいる気がしてならない。ありがとうなんて言われることじゃない。
でも、言われてみると胸の少し深いところに沈む。ちょっとズキッと痛む。それから、“言えた”の実感が遅れて届いた。
「……俺、ほんとに苦手で」
「知ってる」
「知ってるって、何」
「見てたから」
見てた、の主語は誰だ。神代自身か、その肩の白いやつか。でも確かめるのは、今じゃない。
「逃げるのはいい。……でも、逃がすのは嫌だな」
どういうことだよ。受け入れてくれているようで、まったく聞き入れてもらえてない。雨がガラスを叩く音と混ざって、鼓動の速度が少し上がる。
頭のどこかで「それ、話聞いてます?」って冷静にツッコんでるのに、胸の方は妙にざわざわして、息の置き場所が分からなくなる。距離を取らせてくれる言葉を期待していたのに、渡されたのは別の種類のロープだ。
「だから、雨宮は逃げてもいいよ。怖いって、言っていい」
穏やかでまっすぐな声でそう言うと、神代は少しだけ笑った。図書館の白い光が眼差しの縁を柔らかくする。
「……うん」
俺の声は小さかった。
神代の言い方が優しい方向に曲がって、油断を生む。
けれど、その次の一言で、空気の向きがまた変わる。
「……でも、俺が追うから」
「…………」
「逃がさないよ」
「………………え」
『え……?』
脳内のテロップが一瞬でバグる。“逃げてもいい”と“逃がさない”が同じ口から出てくる意味が理解できない。蛇が怖いとか、距離を取りたいとか、さっきまで自分が並べていた理屈が、一気に机から払われたみたいに床に散らばる。拾おうとしても指が震えて、何ひとつつかめない。
「『えーー!?』」
俺とケロスケの間抜けな合唱が、見事にハモった。今日いちばんの無駄な連携。
カウンターの端で貸出カードがぱらっと鳴る。一拍遅れて口を押さえた。司書の先生がカウンターの奥からちらりと顔を出し、「静かにね」と目で合図した。すみません。
「何それ」
「本音。雨宮が本音を言ってくれたから、俺も」
神代は少しだけ肩をすくめた。いつもの完璧な笑みじゃない。均等に整えてきた優しさを少し崩して、わざとバランスの悪いところで止めている顔。
“本音”って軽く言うな。こっちは勇気をかき集めて、やっと一個出せたのに、その倍くらい重いものをさらっと返してこないでほしい。ひとつひとつ非常口に鍵を掛けられていく感覚に、自分の感情のラベル貼りがまったく追いつかない。
「じゃあ、俺の“距離”は?」
「雨宮が決めていい。——でも、俺の“歩幅”は俺が決める」
言葉の意味が少し遅れて胸に届く。俺が後ろに下がるなら、あっちは同じだけ前に出る、という宣言だ。伸びた距離感、ゼロ。清々しさが腹立たしい。
逃げ道の数は増えていない。その上で、「逃げてもいい」と「追うから」が同居してるせいで、なぜか“ひとりきりにはなれない”ってことだけは分かってしまう。
怖いのに、なぜかほんの少しだけ、ほっとしてしまった自分がいる気がして、それが一番やっかいだと気づいた。
「ずるい」
二回目は、さっきより正しい抑揚で言えた。
「知ってる」
神代が少しだけ笑って窓の外に視線をやった。
その肩の内側で白い気配の端がふっとほどける。鱗の光が弧を描いて、口元らしき線がわずかに上がった——そんな“錯覚”が走る。
『……笑ったな、あの白いの』
(やめろ、そう見えるから)
すでに白い蛇の気配は、彼の肩の内側で静かに丸まっている。見ようとすれば見える。見ない、と決めたわけでもない。ただ、蛇への怖さは相変わらずどこかにあるはずなのに、この図書館の白い光の中では、すこし後ろの棚に押しやられている気がした。
『進化ポイント+1。だが敵はレイド級』
(分かってる。攻略法が見えない)
『うむ。だが、“逃げる”コマンドは覚えた』
(うん。でも“この戦闘は逃げられません”ってやつだ)
机の木目がやけにきれいに見える。
“怖い”を言ったのに、逃げきれない。それなのに胸のどこかが軽い。言った分だけ逃げ場が増えた。
たぶん初めてだ。こういう矛盾を、矛盾として抱えたまま座っていられるのは。
逃げきれない自分を少しだけ許せた気がした——きっと、今日が初めてだ。
雨音が少しだけ弱くなる。透明な窓ガラスの向こうで、雲の縁がほどける。細い光が、ページの余白みたいに机の端へ伸びた。
俺はゆっくり目を閉じて、三拍で吸い、四拍目で、胸の奥の“形”をほんの少しだけ崩した。今日のそれは、いつもより正直だ。
傘立てに並んだ二本の柄が、透明な水滴を落としている。どちらの傘にも、同じ雨が残っている。そこに違いはない。
“怖い”は言えた。だけど、逃げきれなかった。
握りつぶされたみたいに見えたけど、言葉は消えなかった。耳の奥に、ちゃんと残っている。
明日の天気は分からない。それでも、傘は——持ってくる。
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