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Ep.40 知らないの輪郭(後)≪曇りのち晴れ≫
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◇
生徒会棟のガラスに自分の顔が薄く映る。吸って、止めて、吐く——いつもの三拍子を一回だけしてから、取っ手に触れた。
静かすぎる廊下には、前より薄いけれど相変わらず“選ばれた側”の空気が漂っている。以前やった“扉の前で五秒カウント”はやめた代わりに、ノックを二回。それだけで入る。
放課後の生徒会室は木と紙の匂いに満ちていた。窓の外の光は薄く、机に四角い明かりが落ちている。他には誰もいない。掲示物の束がきっちり積まれた机の前で、神代が用紙を整えていた。
「雨宮、来てくれてありがとう」
「掲示、これ?」
受け取ると、神代が間を測るように目を伏せた。
「うん。でもその前に——昨日の続き、してもいい?」
「……うん」
会議用のテーブルを挟んで向かい合う。椅子の脚が床を擦ってやけに大きい音がした。
「雨宮が俺のこと“怖い”って言った理由、知りたい」
神代が静かに言う。
「俺、神代くんが怖いの、その……蛇もあるけど」
彼の腕の内側で、白い線が静かに瞬く。俺はちらっとそれを見て、目を戻す。
「たぶん……知らないからだ」
言葉は素直に落ちた。神代は短く息を吸って目を細める。
「うん。俺も、雨宮に“知ってほしい”。それに俺も雨宮のことを、もっと知りたい」
静かで少し冷たい声が、空気を撫でた。白い蛇の気配が細く首を上げる。
『知らなくていいこともあるが』
「ハクヤ」
神代が穏やかに名を呼んだ。柔らかく微笑んでいるのに、空気の奥がわずかに震える。
白い線が微かに揺れて、またゆっくりと腕の内側へ戻っていく。
(——ハクヤ。名前が)
名前が与えられた瞬間、白い“何か”が“誰か”になった。怖さの形も少し変わる。
『蛇の圧、怖え~』
『蛙。静かにしろ』
「二人とも。話が進まない」
神代の穏やかな目が、守護生物たちに「黙ってて」の温度を送る。ハクヤは静かに目を伏せ、ケロスケは俺の膝の上にぴょこんと隠れた。
「じゃあ、互いに“知る”時間が必要だって分かったことだし、最初の一歩は整理整頓」
「なんか、いきなり現実的だな」
「こういう場面に“素”が出るんだよ」
そのまま資料整理を手伝う流れになった。机いっぱいに広げられた書類。文化部の申請書、掲示用のポスター、配布予定のプリント。
ホチキスの芯が切れ、神代が引き出しを探る。几帳面に仕切られた箱から、補充用の芯が二種類出てきた。
「……どっちだっけ」
『左』と、ハクヤの低い声が落ちる。
迷いはあるのにその手つきは静かだ。神代はまとめた書類束に配布先ごとに色分けした付箋を貼り、指先で角を揃える。その手の甲に薄い紙擦れの跡が見えた。
「去年の海浜公園で……いや、こっちは雨天時対応が……」
独り言のように作業段取りを小声で唱える癖もある。そういえば以前、資料室でマニュアル確認していたときも、ブツブツと何か言ってた。几帳面、だけど完璧じゃない。
付箋が一枚はみ出して、俺がそっと押し込むと「助かる」と即座に返ってくる。こういう自然に出る丁寧さは染みついた反射か、それとも……天然?
一番意外だったのは、手元がちょっとだけ不器用なこと。ホチキス針が斜めって止め直したのが三回目。
『蛇のくせに案外ドジだな。こっちにほら、一枚落としてんぞー』
ケロスケが端に落ちた資料を前足でつつく。
『静かに。主の集中を妨げるな』
『口調がお貴族様か、お前は』
(……ここ、動物園か)
神代は落ちた資料を拾いながら少し照れた顔で笑う。
「几帳面だってよく言われるけど、本当はただのメモ魔なんだ」
引き出しの中から出てきた手帳には、細かい文字と矢印でびっしり。メモの角が丸くすり切れていて、繰り返し確認している様子を物語っている。
だからこそ本当は努力で“整えてる”人なんだなと思う。“整っている”のは才能じゃなく、整える習慣の結果だ。人間の体温が、そこにあった。
「神代くんは、何もしなくても完璧なんだと思ってた」
「イメージと違って、がっかりした?」
首を振って「しない」と答えると、神代は少しだけ首の角度を変える。
「本当に?」
「うん。……かわい——」と言いかけて、喉で止める。
「違う、そういう意味じゃなくて。……その、真面目で、いい」
言葉の置き換えがぎこちなくても、神代は目を細めて小さな息をそのまま笑いに変えた。
「整えないと落ち着かない。性格、だよ」
その言葉に胸の奥で小さく反応するものがあった。
分かる気がした。神代が整えるのは、机の上でも、書類の角でもなく——自分自身の形だ。完璧に見えるように積み上げた努力を、努力だと悟らせないように整えている。その“整えた姿”でようやく安心できる人。
俺だって似たようなものかもしれない。特別な何かがあるわけじゃないけど、「普通でいたい」自分の形を崩さないように整えてる。目立たないように、波を立てないように。
それはどちらも「嘘」じゃなく、ちゃんと自分で選んだ形だ。違う立場で、違うやり方だけど——同じように自分を保つために“整えてる”。
(似てないのに、似てる)
少しだけ妙な親近感を覚える。知った分だけ怖さが減る気がした。
『はい出ました“似てる”判定。ポイント高い~』
(黙れ)
「いい……と、思う」
蚊の鳴く声でも神代には届いたらしい。ふっと笑う。次いで、ほんの冗談めかして——けれど、距離は半歩だけ近くなる。
「じゃあ、秘密だよ」
小声でそう言って、神代は身を乗り出すように顔を寄せた。香りのない空気が一瞬で濃くなる。指先まで血の音が響いて、息の仕方を忘れそうだった。冗談なのは分かっているのに、心臓だけは素直すぎる。
「……な、なにが秘密」
「みんなのイメージ通りじゃない、本当の俺。ホチキス三回目とか、ね」
穏やかな笑みの奥に、ほんの少しだけ意地悪い色。可愛いって言いかけたこと、やっぱりバレてた。意趣返しみたいなずるさが、逆に人間っぽくて——
『むしろ加点』
(だから黙れ)
神代が止め直した針は、今度はきれいに揃っていた。
「……揃った」
「うん。揃った」
見るべき角が、同じ向きになった気がした。
『蛇が折れねぇから、うちのが苦労してんだぞ』
『主は本能に正直なだけだ』
(本能?)
嫌な想像が顔を出す。俺は両手でケロスケを庇うように持ち上げる。
「神代くん、……その、本能ってさ。ケロスケを……た、食べたいとかは、思ってないよな?」
ケロスケの手が俺の親指をぎゅむ、と掴む。ハクヤは一瞬だけ目を細めて、すぐに視線を逸らした。
神代はいつもの整った笑みを半歩だけ意地悪に傾ける。
「今のところは、ね」
俺とケロスケの心臓が跳ねた。
神代が目だけで笑う。「冗談」
悪い冗談すぎる。
でも、楽しそうだった。俺も変な汗が引いていく。
『やめろ心臓に悪い!』
ハクヤの目尻がわずかに和らいだ。——笑った? やっぱり“誰か”だ。
「どうした?」
「いや、……にぎやかだなって」
「にぎやかなの、嫌い?」
「嫌いじゃない。たぶん」
本心だった。まだ蛇は怖い。けれど、怖さだけでは説明できない熱が胸に残る。
「今日は助かった」
「こっちこそ」
書類の山が低くなり、机の面がやっと戻った。
◇
外に出ると、雲の端が薄くほぐれて夕陽が細い帯になって坂道を撫でていた。風はぬるいけど、紙とインクの匂いがまだ指先に残っている。朝より歩幅がほんの少し広い。
「蛇の本能が食欲じゃなくて良かった」
口に出したらケロスケが肩で笑った。
「……じゃあ神代って、なんであんなに俺に構うんだろ」
『“知らない”を埋めるのが好きなんじゃねぇの。特に逃げた相手なら、なおさらな』
「……それって、俺のこと?」
『他に誰がいんだよ』
(なるほど、本能=知識欲か。神代らしいかも)
ケロスケが小さく舌打ちみたいに息を鳴らし、横目で俺を見る。
『——ま、埋めてぇのは“空欄”だけじゃねぇんだろうけどな』
「え?」
『なんでもねぇ』
肩の上でわざとらしくあくびをした。
足元の影が少しだけ重なる。俺は自分でも分かるくらい小さく笑った。
「怖い理由が、少し減った気がする」
自分で言って、胸の奥の形が変わるのがわかった。
◇
窓の外、薄い雲の向こうに月が滲んでいる。
課題ノートを開こうとしたところで、机の上のスマホが一度だけ震えた。最近作った、俺と朱里と白河の三人用グループラインの通知だ。
画面には「AKARI」の名前。
《【AKARI】今日のご指名どうだった🦊》
《【AKARI】蛇、噛みついてこなかった?》
『雑な聞き方だな~』
ケロスケが肩のあたりであきれた声を出す。
指先でゆっくり文字を打つ。
《【雨宮】噛まれてない》
《【雨宮】ちょっと作業手伝っただけ》
すぐに「白河」の吹き出しが続いた。
《【白河】“だけ”って感じじゃなさそう》
《【AKARI】だな 昼からってか》
《【AKARI】最近ずっと様子おかしい》
「……観察しすぎだろ」
『バレバレだな、お前』
ケロスケが小さく笑う。
ここまで来て、まだ黙っているのも違う気がした。前に「これは全部、俺ひとりの問題だから」って勝手に決めつけたときの自分が、胸の奥で小さく顔をしかめる。
《【雨宮】……あとさ》
《【雨宮】ちゃんと言ってなかったことあって》
数秒もしないうちに、二つの返事が落ちてくる。
《【AKARI】こわ 何》
《【白河】どうぞ》
喉の奥で一度だけ息を飲んでから、慎重に親指を動かした。
《【雨宮】実はこないだ神代にケロスケがバレた》
一瞬だけ画面の上の「入力中」が消えたり点いたりする。
それから、ほぼ同時に二つの吹き出しが弾けた。
《【AKARI】は???》
《【白河】やっぱり》
朱里の「?」の数と白河の「やっぱり」の温度差に、思わず息が漏れた。
《【AKARI】いつからだよ》
《【AKARI】てか何で黙ってた》
画面の白に、自分の迷いがそのまま映る気がする。逃げてれば、いずれ薄まると思っていた。
でも、もうそういう感じでもない。
《【雨宮】自分の問題だし 二人を巻き込みたくないと思ってた》
《【雨宮】逃げてれば特に問題ないかなって ずっと》
《【雨宮】でも もう逃げられないっていうか……逃げないようにしようかなって》
送信ボタンを押した指先が、じんわり熱くなる。
少し間を置いて、まず白河の文字が浮かんだ。
《【白河】巻き込まれてる自覚はだいぶ前からある》
《【白河】今さらだよ》
続いて、AKARI。
《【AKARI】そういうのは最初から共有しとけバカ》
《【AKARI】でも“逃げない”ってワードは高評価👍》
苦笑しながら読んでいると、さらに吹き出しが並ぶ。
《【白河】じゃあ 神代の前で雨宮はもう見えないふりしてないってことな》
《【白河】俺らも雨宮と神代の前でようやく話せる》
《【AKARI】了解》
《【雨宮】今まで気を使ってもらっててごめん》
《【AKARI】むしろ湊が気を使いすぎな》
《【白河】ほんとにな》
最後に蛙のスタンプが一つ、ぴょこんと跳ねて会話が途切れた。
画面を伏せると、胸の奥の何かが少しだけ軽くなる。
「俺ひとりの問題だから」と決めつけて、誰にも触らせなかった荷物の取っ手を、ようやく二人の手にも握ってもらった感じ。
『やっとオレらも正規メンバー扱いってやつだな』
「……なんのメンバーだよ」
ケロスケの声は相変わらずお気楽なのに、さっきまでよりずっと近く感じた。
“一緒に知ってくれる人”がまた増えた。そんな感覚がじんわり広がる。
スマホを伏せて、ようやくノートを開いた。机の上に開いた課題ノート、その端っこに一行だけ書いた。
《知らないから怖い。でも、知らないままじゃ、もっと怖い》
ケロスケが肩の上で『哲学か?』と茶化す。
「違う。ただの反省」
ペンを置き、窓の外を見る。月は薄く笑っているように見えた。
今日の“怖い”は、昨日より少しだけ形が分かった。
“逃げない”って、戦うことじゃない。
“知ろうとする”ことも、たぶんそのひとつなんだ。
雲がゆっくり流れて、月の輪郭を描き直す。胸の中でも、輪郭がひとつ更新される。明日の予報は晴れ時々曇り。天気は変わる。——なら、俺の見方だって変えられる。
薄い光が机の端に落ちる。そこに指先を置いて、さっきの一行を指先でなぞる。
知らないの輪郭が、少しだけやわらいだ。息をひとつ吸う。——次へ進む余白が、きちんと残っている。
生徒会棟のガラスに自分の顔が薄く映る。吸って、止めて、吐く——いつもの三拍子を一回だけしてから、取っ手に触れた。
静かすぎる廊下には、前より薄いけれど相変わらず“選ばれた側”の空気が漂っている。以前やった“扉の前で五秒カウント”はやめた代わりに、ノックを二回。それだけで入る。
放課後の生徒会室は木と紙の匂いに満ちていた。窓の外の光は薄く、机に四角い明かりが落ちている。他には誰もいない。掲示物の束がきっちり積まれた机の前で、神代が用紙を整えていた。
「雨宮、来てくれてありがとう」
「掲示、これ?」
受け取ると、神代が間を測るように目を伏せた。
「うん。でもその前に——昨日の続き、してもいい?」
「……うん」
会議用のテーブルを挟んで向かい合う。椅子の脚が床を擦ってやけに大きい音がした。
「雨宮が俺のこと“怖い”って言った理由、知りたい」
神代が静かに言う。
「俺、神代くんが怖いの、その……蛇もあるけど」
彼の腕の内側で、白い線が静かに瞬く。俺はちらっとそれを見て、目を戻す。
「たぶん……知らないからだ」
言葉は素直に落ちた。神代は短く息を吸って目を細める。
「うん。俺も、雨宮に“知ってほしい”。それに俺も雨宮のことを、もっと知りたい」
静かで少し冷たい声が、空気を撫でた。白い蛇の気配が細く首を上げる。
『知らなくていいこともあるが』
「ハクヤ」
神代が穏やかに名を呼んだ。柔らかく微笑んでいるのに、空気の奥がわずかに震える。
白い線が微かに揺れて、またゆっくりと腕の内側へ戻っていく。
(——ハクヤ。名前が)
名前が与えられた瞬間、白い“何か”が“誰か”になった。怖さの形も少し変わる。
『蛇の圧、怖え~』
『蛙。静かにしろ』
「二人とも。話が進まない」
神代の穏やかな目が、守護生物たちに「黙ってて」の温度を送る。ハクヤは静かに目を伏せ、ケロスケは俺の膝の上にぴょこんと隠れた。
「じゃあ、互いに“知る”時間が必要だって分かったことだし、最初の一歩は整理整頓」
「なんか、いきなり現実的だな」
「こういう場面に“素”が出るんだよ」
そのまま資料整理を手伝う流れになった。机いっぱいに広げられた書類。文化部の申請書、掲示用のポスター、配布予定のプリント。
ホチキスの芯が切れ、神代が引き出しを探る。几帳面に仕切られた箱から、補充用の芯が二種類出てきた。
「……どっちだっけ」
『左』と、ハクヤの低い声が落ちる。
迷いはあるのにその手つきは静かだ。神代はまとめた書類束に配布先ごとに色分けした付箋を貼り、指先で角を揃える。その手の甲に薄い紙擦れの跡が見えた。
「去年の海浜公園で……いや、こっちは雨天時対応が……」
独り言のように作業段取りを小声で唱える癖もある。そういえば以前、資料室でマニュアル確認していたときも、ブツブツと何か言ってた。几帳面、だけど完璧じゃない。
付箋が一枚はみ出して、俺がそっと押し込むと「助かる」と即座に返ってくる。こういう自然に出る丁寧さは染みついた反射か、それとも……天然?
一番意外だったのは、手元がちょっとだけ不器用なこと。ホチキス針が斜めって止め直したのが三回目。
『蛇のくせに案外ドジだな。こっちにほら、一枚落としてんぞー』
ケロスケが端に落ちた資料を前足でつつく。
『静かに。主の集中を妨げるな』
『口調がお貴族様か、お前は』
(……ここ、動物園か)
神代は落ちた資料を拾いながら少し照れた顔で笑う。
「几帳面だってよく言われるけど、本当はただのメモ魔なんだ」
引き出しの中から出てきた手帳には、細かい文字と矢印でびっしり。メモの角が丸くすり切れていて、繰り返し確認している様子を物語っている。
だからこそ本当は努力で“整えてる”人なんだなと思う。“整っている”のは才能じゃなく、整える習慣の結果だ。人間の体温が、そこにあった。
「神代くんは、何もしなくても完璧なんだと思ってた」
「イメージと違って、がっかりした?」
首を振って「しない」と答えると、神代は少しだけ首の角度を変える。
「本当に?」
「うん。……かわい——」と言いかけて、喉で止める。
「違う、そういう意味じゃなくて。……その、真面目で、いい」
言葉の置き換えがぎこちなくても、神代は目を細めて小さな息をそのまま笑いに変えた。
「整えないと落ち着かない。性格、だよ」
その言葉に胸の奥で小さく反応するものがあった。
分かる気がした。神代が整えるのは、机の上でも、書類の角でもなく——自分自身の形だ。完璧に見えるように積み上げた努力を、努力だと悟らせないように整えている。その“整えた姿”でようやく安心できる人。
俺だって似たようなものかもしれない。特別な何かがあるわけじゃないけど、「普通でいたい」自分の形を崩さないように整えてる。目立たないように、波を立てないように。
それはどちらも「嘘」じゃなく、ちゃんと自分で選んだ形だ。違う立場で、違うやり方だけど——同じように自分を保つために“整えてる”。
(似てないのに、似てる)
少しだけ妙な親近感を覚える。知った分だけ怖さが減る気がした。
『はい出ました“似てる”判定。ポイント高い~』
(黙れ)
「いい……と、思う」
蚊の鳴く声でも神代には届いたらしい。ふっと笑う。次いで、ほんの冗談めかして——けれど、距離は半歩だけ近くなる。
「じゃあ、秘密だよ」
小声でそう言って、神代は身を乗り出すように顔を寄せた。香りのない空気が一瞬で濃くなる。指先まで血の音が響いて、息の仕方を忘れそうだった。冗談なのは分かっているのに、心臓だけは素直すぎる。
「……な、なにが秘密」
「みんなのイメージ通りじゃない、本当の俺。ホチキス三回目とか、ね」
穏やかな笑みの奥に、ほんの少しだけ意地悪い色。可愛いって言いかけたこと、やっぱりバレてた。意趣返しみたいなずるさが、逆に人間っぽくて——
『むしろ加点』
(だから黙れ)
神代が止め直した針は、今度はきれいに揃っていた。
「……揃った」
「うん。揃った」
見るべき角が、同じ向きになった気がした。
『蛇が折れねぇから、うちのが苦労してんだぞ』
『主は本能に正直なだけだ』
(本能?)
嫌な想像が顔を出す。俺は両手でケロスケを庇うように持ち上げる。
「神代くん、……その、本能ってさ。ケロスケを……た、食べたいとかは、思ってないよな?」
ケロスケの手が俺の親指をぎゅむ、と掴む。ハクヤは一瞬だけ目を細めて、すぐに視線を逸らした。
神代はいつもの整った笑みを半歩だけ意地悪に傾ける。
「今のところは、ね」
俺とケロスケの心臓が跳ねた。
神代が目だけで笑う。「冗談」
悪い冗談すぎる。
でも、楽しそうだった。俺も変な汗が引いていく。
『やめろ心臓に悪い!』
ハクヤの目尻がわずかに和らいだ。——笑った? やっぱり“誰か”だ。
「どうした?」
「いや、……にぎやかだなって」
「にぎやかなの、嫌い?」
「嫌いじゃない。たぶん」
本心だった。まだ蛇は怖い。けれど、怖さだけでは説明できない熱が胸に残る。
「今日は助かった」
「こっちこそ」
書類の山が低くなり、机の面がやっと戻った。
◇
外に出ると、雲の端が薄くほぐれて夕陽が細い帯になって坂道を撫でていた。風はぬるいけど、紙とインクの匂いがまだ指先に残っている。朝より歩幅がほんの少し広い。
「蛇の本能が食欲じゃなくて良かった」
口に出したらケロスケが肩で笑った。
「……じゃあ神代って、なんであんなに俺に構うんだろ」
『“知らない”を埋めるのが好きなんじゃねぇの。特に逃げた相手なら、なおさらな』
「……それって、俺のこと?」
『他に誰がいんだよ』
(なるほど、本能=知識欲か。神代らしいかも)
ケロスケが小さく舌打ちみたいに息を鳴らし、横目で俺を見る。
『——ま、埋めてぇのは“空欄”だけじゃねぇんだろうけどな』
「え?」
『なんでもねぇ』
肩の上でわざとらしくあくびをした。
足元の影が少しだけ重なる。俺は自分でも分かるくらい小さく笑った。
「怖い理由が、少し減った気がする」
自分で言って、胸の奥の形が変わるのがわかった。
◇
窓の外、薄い雲の向こうに月が滲んでいる。
課題ノートを開こうとしたところで、机の上のスマホが一度だけ震えた。最近作った、俺と朱里と白河の三人用グループラインの通知だ。
画面には「AKARI」の名前。
《【AKARI】今日のご指名どうだった🦊》
《【AKARI】蛇、噛みついてこなかった?》
『雑な聞き方だな~』
ケロスケが肩のあたりであきれた声を出す。
指先でゆっくり文字を打つ。
《【雨宮】噛まれてない》
《【雨宮】ちょっと作業手伝っただけ》
すぐに「白河」の吹き出しが続いた。
《【白河】“だけ”って感じじゃなさそう》
《【AKARI】だな 昼からってか》
《【AKARI】最近ずっと様子おかしい》
「……観察しすぎだろ」
『バレバレだな、お前』
ケロスケが小さく笑う。
ここまで来て、まだ黙っているのも違う気がした。前に「これは全部、俺ひとりの問題だから」って勝手に決めつけたときの自分が、胸の奥で小さく顔をしかめる。
《【雨宮】……あとさ》
《【雨宮】ちゃんと言ってなかったことあって》
数秒もしないうちに、二つの返事が落ちてくる。
《【AKARI】こわ 何》
《【白河】どうぞ》
喉の奥で一度だけ息を飲んでから、慎重に親指を動かした。
《【雨宮】実はこないだ神代にケロスケがバレた》
一瞬だけ画面の上の「入力中」が消えたり点いたりする。
それから、ほぼ同時に二つの吹き出しが弾けた。
《【AKARI】は???》
《【白河】やっぱり》
朱里の「?」の数と白河の「やっぱり」の温度差に、思わず息が漏れた。
《【AKARI】いつからだよ》
《【AKARI】てか何で黙ってた》
画面の白に、自分の迷いがそのまま映る気がする。逃げてれば、いずれ薄まると思っていた。
でも、もうそういう感じでもない。
《【雨宮】自分の問題だし 二人を巻き込みたくないと思ってた》
《【雨宮】逃げてれば特に問題ないかなって ずっと》
《【雨宮】でも もう逃げられないっていうか……逃げないようにしようかなって》
送信ボタンを押した指先が、じんわり熱くなる。
少し間を置いて、まず白河の文字が浮かんだ。
《【白河】巻き込まれてる自覚はだいぶ前からある》
《【白河】今さらだよ》
続いて、AKARI。
《【AKARI】そういうのは最初から共有しとけバカ》
《【AKARI】でも“逃げない”ってワードは高評価👍》
苦笑しながら読んでいると、さらに吹き出しが並ぶ。
《【白河】じゃあ 神代の前で雨宮はもう見えないふりしてないってことな》
《【白河】俺らも雨宮と神代の前でようやく話せる》
《【AKARI】了解》
《【雨宮】今まで気を使ってもらっててごめん》
《【AKARI】むしろ湊が気を使いすぎな》
《【白河】ほんとにな》
最後に蛙のスタンプが一つ、ぴょこんと跳ねて会話が途切れた。
画面を伏せると、胸の奥の何かが少しだけ軽くなる。
「俺ひとりの問題だから」と決めつけて、誰にも触らせなかった荷物の取っ手を、ようやく二人の手にも握ってもらった感じ。
『やっとオレらも正規メンバー扱いってやつだな』
「……なんのメンバーだよ」
ケロスケの声は相変わらずお気楽なのに、さっきまでよりずっと近く感じた。
“一緒に知ってくれる人”がまた増えた。そんな感覚がじんわり広がる。
スマホを伏せて、ようやくノートを開いた。机の上に開いた課題ノート、その端っこに一行だけ書いた。
《知らないから怖い。でも、知らないままじゃ、もっと怖い》
ケロスケが肩の上で『哲学か?』と茶化す。
「違う。ただの反省」
ペンを置き、窓の外を見る。月は薄く笑っているように見えた。
今日の“怖い”は、昨日より少しだけ形が分かった。
“逃げない”って、戦うことじゃない。
“知ろうとする”ことも、たぶんそのひとつなんだ。
雲がゆっくり流れて、月の輪郭を描き直す。胸の中でも、輪郭がひとつ更新される。明日の予報は晴れ時々曇り。天気は変わる。——なら、俺の見方だって変えられる。
薄い光が机の端に落ちる。そこに指先を置いて、さっきの一行を指先でなぞる。
知らないの輪郭が、少しだけやわらいだ。息をひとつ吸う。——次へ進む余白が、きちんと残っている。
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生徒会メンバーは変態ばかり!?ゲームには登場しない人気グループ!?
聞いてた話と何か違うんですけど!
※主人公総受けで過激な描写もありますが、固定カプで着地します。
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