その腕は、やさしい地獄

沙夜

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線路は故郷へ続かない

第一話「少しだけ歪んだバス」

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秋の空気が、制服のブレザー越しに肌寒く感じられる季節。
埼玉の自宅へ向かうため、都内の私立高校からの帰り道、私はいつものようにバス停の列に並んでいた。やがてやってきたバスに乗り込み、ICカードをリーダーにかざす。軽やかな電子音と、心地よい振動。ここまでは、私の日常、そのものだった。

橘美緒たちばな みお、高校二年生。
受験勉強と、少しばかりの友人関係。そんなありふれた毎日を送る私が、この先に待ち受ける運命など知る由もなかった。

窓際の席に座り、イヤホンを片耳だけにつけて、流れゆく街並みをぼんやりと眺める。夕暮れのオレンジ色が、ビルのガラス窓に反射してきらきらと光っていた。
いつもなら、この時間は帰宅する学生や社会人でぎゅうぎゅう詰めのはずなのに。ふと顔を上げると、車内は驚くほど閑散としていた。座席にはちらほらと空きがあり、立っている乗客は一人もいない。

「この先、大きく揺れますのでご注意ください」

凛とした男性の声に、はっと意識が引き戻される。見ると、運転席の後ろに、路線バスには不似合いなほど背筋の伸びた制服姿の男性が立っていた。車掌だろうか。でも、どうしてこんな普通の路線バスに?
アナウンスの内容はありふれている。なのに、その男性は乗客一人ひとりの顔を順番に、まるで何かを確認するかのようにじっと見つめていた。ガラス玉のようなその瞳と視線がかち合った瞬間、心臓がどきりと跳ねる。私は慌てて顔を伏せた。

(気のせい、だよね……)

そう思おうとした時、車体の後方からも同じ声が聞こえた。
「お立ちのお客様は、つり革や手すりにお掴まりください」
振り返ると、そこにもう一人、同じ制服を着た車掌が立っていた。前と、後ろに、一人ずつ。
そんなの、おかしい。今まで何百回とこのバスに乗ってきたけれど、こんなことは一度もなかった。

首筋がひやりと粟立つような、奇妙な感覚。
イヤホンから流れる好きな音楽も、今はもう耳に入ってこない。

やがて、私の降りるべき駅前のロータリーにバスが到着する。アナウンスが流れ、乗客たちが一人、また一人と席を立つ。
私はまだ、心臓の異様な高鳴りが収まらないまま、前の乗客に続いて出口へと向かった。そして、信じられない光景を目にする。

誰も、運賃を払わずに降りていくのだ。
整理券を取る機械も、運賃箱も見当たらない。皆、ただ当たり前のようにバスを降りていく。

私の番が来た。どうすればいいのか分からず立ち尽くしていると、前に立っていたあの車掌が、私にだけ微笑みかけた。

「どうぞ」

促されるまま、呆然とバスを降りる。彼に呼び止められることも、運賃を請求されることもなかった。
バスは静かに扉を閉め、排気ガスを残して走り去っていく。

何かがおかしい。

冷たいアスファルトの上に立ち尽くしたまま、私はただ、遠ざかっていくバスの赤いテールランプを見つめていることしかできなかった。
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