その腕は、やさしい地獄

沙夜

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京のかりそめ

第十三話「私の口座と、彼のコーヒー」

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昨夜の出会いのせいで、私は少し寝不足のまま朝食の席についていた。
寮の皆が揃い、「いただきます」の挨拶をしようとした、その時だった。

「おはよう」

リビングの入り口から、穏やかな声がした。
そこに立っていたのは、紛れもなく、昨夜会った西園寺伊織先輩だった。朝日の中で見ても、その完璧な容姿は少しも色褪せない。
彼が席につくと、皆が当たり前のように挨拶を返す。

「あ、寮長。紹介するな、新しく入った橘美緒ちゃんや」
「ああ、知ってるよ。昨夜会ったから」

大輝さんに紹介され、伊織先輩は私を見てふわりと微笑んだ。
「改めて、よろしくね、橘さん」
「……はい。よろしくお願いします」

その微笑みだけで、心臓が跳ねるのを感じた。


朝食後、彩花に「今後のこと、どうする?」と切り出された。一番の問題は、生活費だ。いつまで彩花に甘えているわけにもいかない。
ダメ元で、私は彩花に連れられて、駅前のATMに向かった。私の世界のキャッシュカードなど、使えるはずがない。そう思っていた。

『カードを入れてください』

機械の表示に従い、恐る恐るカードを挿入する。暗証番号を入力すると、画面に信じられないものが表示された。

「……うそ」

私の口座が、存在したのだ。
残高も、私の世界で、生まれてからずっと貯めていたお小遣いやお年玉の金額と、一致している。

「よかった……!」

安堵と同時に、新たな謎が生まれる。
私の家も、家族も、この世界には存在しない。それなのに、なぜ銀行の口座と貯金だけは、寸分違わず残っているのだろうか。
考え始めると、また恐怖がぶり返してきそうだった。

寮に戻ると、リビングのソファで伊織先輩が静かに本を読んでいた。
私たちが帰ってきたことに気づくと、彼は読んでいた本にそっと栞を挟み、穏やかに「おかえり」と声をかけてくれる。

「ただいま戻りました! あの、寮長!」
彩花が、興奮気味に伊織先輩に駆け寄った。
「すごいんです! 美緒の口座、ちゃんとありました! だから、寮の生活費もちゃんと払えるんですけど、どうすればいいですかね?」

彩花が、あらかじめ決めておいた「親の都合で一時的に家を出ている」という設定に沿って、うまく話を進めてくれる。
伊織先輩は彩花の話を聞くと、少しも驚いた様子を見せず、静かに頷いた。
「そっか、それはよかった。支払いなら心配いらないよ。アプリを使えば、すぐに自動引き落としの設定ができるからね」
そう言って、彼は自分のスマートフォンを取り出し、操作方法を丁寧に教えてくれた。
これで、私も正式に寮の一員として、生活費を払っていける。少しだけ、肩の荷が下りた気がした。

設定を終えたのを見計らって、伊織先輩が顔を上げた。
「これで橘さんも、今日から正式にここの一員だね。それなら、いつまでも彩花ちゃんの部屋に居候というわけにもいかないだろうし、部屋、用意しようか」
「え……?」
「ちょうど今、二階の突き当たりの部屋が空いてるんだ。少し狭いけど、掃除すればすぐに使えるから」
「そんな、悪いです……!」
「かまわないよ。君はもう、ここの住人なんだから」

そう言って微笑む彼に、私は何も言い返せなかった。
「やったじゃん、美緒! よっしゃ、部屋の掃除、うちらも手伝うで!」
茜さんや結衣ちゃんも駆け寄ってきてくれ、その日の午後は、急遽みんなで私の部屋の大掃除をすることになった。

彩花と一緒に、当面の生活に必要な服や下着、そして自分の部屋で使うための小さな雑貨を買いに出かける。自分のお金で、自分の居場所を作るための買い物。それは、私の心を少しだけ軽くしてくれたが、通帳の残高が目に見えて減っていくのは、さすがに少し堪えた。

それから、私の寮での生活は、奇妙なほど穏やかに過ぎていった。
日中は図書館で元の世界に帰る方法を探し、夜は皆と食卓を囲む。そして自分の部屋のベッドで眠る。
いつからか、私には新しい習慣ができていた。

夜中、喉が渇いたり、眠れなかったりして一階のリビングに下りると、決まって伊織先輩がそこにいるのだ。彼はいつもパソコンに向かって何か作業をしていたが、私が来ると必ず顔を上げて、静かに微笑んでくれる。

「こんばんは、橘さん。今夜は少し冷えるね」
「……こんばんは、伊織先輩」
「よかったら、何か温かいものでも淹れようか。コーヒーでもいいかな?」

そう言って、彼が豆を挽くところから丁寧に淹れてくれるコーヒーは、いつも信じられないくらい美味しかった。
私たちは、他愛もない話をした。お互いの学校のこと、好きな本や音楽のこと。彼は私の話を、決して急かしたり否定したりせず、ただ相槌を打ちながら静かに聞いてくれる。
誰にも言えない秘密を抱えた私にとって、夜の静寂の中で、彼と二人きりで過ごすその時間は、何よりも心が安らぐ、かけがえのないものになっていた。

私は、その時間が好きだった。
彼に会えるのが楽しみで、夜が来るのを心待ちにしている自分がいることに、私はもう、とっくに気づいていた。
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