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京のかりそめ
第十五話「濃いコーヒーと、甘い罠」
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その夜も、私は自分の無力さを噛み締めながら、仮の自室のベッドで浅い眠りの中にいた。
時刻は、おそらく深夜一時を回った頃。寮全体が静寂に包まれている中、部屋のドアが、控えめに「コン、コン」とノックされた。
びくりとして目を開ける。こんな時間に、誰だろう。
私はベッドから抜け出し、ドアに近寄って、そっと声を潜めて尋ねた。
「……どなたですか?」
「僕だよ、伊織」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、紛れもない彼の声だった。
「伊織先輩……! どうしたんですか、こんな時間に」
「ごめん、寝てたかな。少しだけ、話したいことがあるんだけど、今大丈夫?」
「あ……はい」
「ありがとう。一階のリビングで待ってるね」
そう言い残すと、彼の足音は静かに遠ざかっていった。
いつものように、私がリビングに下りていって話すのとは違う。彼の方から、私を指名して誘ってきたのだ。
初めてのことに、私の心は期待で少しだけ浮き足立つのを感じた。
急いで簡単な身支度を整え、そっと部屋を出る。
リビングに下りると、伊織先輩はソファに座って、私を待っていた。テーブルの上には、既に二つのカップが置かれ、湯気を立てている。
「ごめんね、夜遅くに呼び出してしまって」
「い、いえ、大丈夫です」
彼は、片方のカップを「どうぞ」と私の方へ滑らせた。淹れたての、深いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます。……あれ、今日のコーヒー、いつもより少し濃いですか?」
「そう。たまにはこういうのも、いいかなと思って。美緒ちゃんの口に合うといいんだけど」
「はい、とても美味しいです」
一口飲むと、芳醇な苦みが口の中に広がった。「それはよかった」と彼は柔らかく微笑む。
私たちは、しばらく他愛もない雑談をしていた。
しかし、今日の彼は、どこか探るような雰囲気がある。話の合間に、じっと私の目を見てくるのだ。
やがて、彼が不意に話題を変えた。
「そういえば美緒ちゃん、一時的にここに住むって話だったよね?」
「あ、はい。そうです」
「その『一時的』っていうのは、いつまで?」
「それは……まだ、はっきりとは分かっていなくて……」
歯切れの悪い私の返答に、彼はさらに何度か問いを重ねた。その声は、いつも通り穏やかだったが、断ることを許さないような、不思議な圧があった。
「家、探してるんだよね? どんな家? マンションだったりする?」
「あれ…えっと…一軒家、ですけど……」
「もしかして、家の場所、忘れちゃったとか?」
「んー……いえ、そういうわけじゃ……ない、です……」
なんだろう。少し頭が、ぼーっとする。
眠いせいかな。今日のコーヒーが、少し強すぎたのかもしれない。敬語が、うまく使えない。
「じゃあ、どうしてなのかな?」
優しい声で、核心を突かれる。
朦朧とする意識の中、私の口は、自分でも意図しない言葉を滑らせた。
「……こっち、には……私の家が、ないから……」
「こっち……?」
まずい。言ってはいけないことだったはずだ。彩花と、秘密にしようと決めたのに。
でも、思考がうまくまとまらない。
「私……別の世界から、来たみたいで……あれ……これ、言ったら駄目なやつ、だっけ……?」
呂律が回らない。
目の前の伊織先輩の顔が、ゆらゆらと揺れて見える。
ちょうど飲み干したコーヒーカップが、指から滑り落ちそうになる。それを、隣に座っていた彼が、倒れる寸前でそっと支えてくれた。
「ありがと……」
お礼を言おうとしたものの、唇が思うように動かない。
彼の顔が、すぐ近くにある。
彼は、何も言わなかった。ただ、いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべているだけ。
その表情を最後に、私の意識は、深い深い闇の中へと、静かに沈んでいった。
時刻は、おそらく深夜一時を回った頃。寮全体が静寂に包まれている中、部屋のドアが、控えめに「コン、コン」とノックされた。
びくりとして目を開ける。こんな時間に、誰だろう。
私はベッドから抜け出し、ドアに近寄って、そっと声を潜めて尋ねた。
「……どなたですか?」
「僕だよ、伊織」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、紛れもない彼の声だった。
「伊織先輩……! どうしたんですか、こんな時間に」
「ごめん、寝てたかな。少しだけ、話したいことがあるんだけど、今大丈夫?」
「あ……はい」
「ありがとう。一階のリビングで待ってるね」
そう言い残すと、彼の足音は静かに遠ざかっていった。
いつものように、私がリビングに下りていって話すのとは違う。彼の方から、私を指名して誘ってきたのだ。
初めてのことに、私の心は期待で少しだけ浮き足立つのを感じた。
急いで簡単な身支度を整え、そっと部屋を出る。
リビングに下りると、伊織先輩はソファに座って、私を待っていた。テーブルの上には、既に二つのカップが置かれ、湯気を立てている。
「ごめんね、夜遅くに呼び出してしまって」
「い、いえ、大丈夫です」
彼は、片方のカップを「どうぞ」と私の方へ滑らせた。淹れたての、深いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます。……あれ、今日のコーヒー、いつもより少し濃いですか?」
「そう。たまにはこういうのも、いいかなと思って。美緒ちゃんの口に合うといいんだけど」
「はい、とても美味しいです」
一口飲むと、芳醇な苦みが口の中に広がった。「それはよかった」と彼は柔らかく微笑む。
私たちは、しばらく他愛もない雑談をしていた。
しかし、今日の彼は、どこか探るような雰囲気がある。話の合間に、じっと私の目を見てくるのだ。
やがて、彼が不意に話題を変えた。
「そういえば美緒ちゃん、一時的にここに住むって話だったよね?」
「あ、はい。そうです」
「その『一時的』っていうのは、いつまで?」
「それは……まだ、はっきりとは分かっていなくて……」
歯切れの悪い私の返答に、彼はさらに何度か問いを重ねた。その声は、いつも通り穏やかだったが、断ることを許さないような、不思議な圧があった。
「家、探してるんだよね? どんな家? マンションだったりする?」
「あれ…えっと…一軒家、ですけど……」
「もしかして、家の場所、忘れちゃったとか?」
「んー……いえ、そういうわけじゃ……ない、です……」
なんだろう。少し頭が、ぼーっとする。
眠いせいかな。今日のコーヒーが、少し強すぎたのかもしれない。敬語が、うまく使えない。
「じゃあ、どうしてなのかな?」
優しい声で、核心を突かれる。
朦朧とする意識の中、私の口は、自分でも意図しない言葉を滑らせた。
「……こっち、には……私の家が、ないから……」
「こっち……?」
まずい。言ってはいけないことだったはずだ。彩花と、秘密にしようと決めたのに。
でも、思考がうまくまとまらない。
「私……別の世界から、来たみたいで……あれ……これ、言ったら駄目なやつ、だっけ……?」
呂律が回らない。
目の前の伊織先輩の顔が、ゆらゆらと揺れて見える。
ちょうど飲み干したコーヒーカップが、指から滑り落ちそうになる。それを、隣に座っていた彼が、倒れる寸前でそっと支えてくれた。
「ありがと……」
お礼を言おうとしたものの、唇が思うように動かない。
彼の顔が、すぐ近くにある。
彼は、何も言わなかった。ただ、いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべているだけ。
その表情を最後に、私の意識は、深い深い闇の中へと、静かに沈んでいった。
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