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金色の鳥籠
妻候補
この屋敷から見上げる月が、いつの間にか優しく見えるようになってしまった。
その事実に、私は気づかないふりをしていた。湊さんの不器用な気遣いや、シゲさんとの何気ない会話、屋敷の従業員たちの穏やかな態度。それら全てが、私がここにいる理由を、二百万円の借金という当初の目的から、少しずつ別の何かへと変質させている。
忘れてはいけない。ここは私の居場所じゃない。この生活は、二百万円という借金を返すための、一年間という期限付きの労働に過ぎない。そう何度も自分に言い聞かせなければ、この奇妙な居心地の良さに、目的さえ忘れて溺れてしまいそうだった。
そんな生活が四ヶ月ほど続いた、ある秋晴れの朝だった。
大学へ向かうため、シゲさんと一緒に玄関を出た、その時。
屋敷の前に、まるで静寂を引き裂くように一台の真っ赤なスポーツカーが滑り込んできた。その鮮血のような色は、この重厚な屋敷の雰囲気とはあまりに不釣り合いだった。
運転席から降り立ったのは、息を呑むほど美しい女性だった。
艶やかな黒髪を結い上げ、寸分の狂いもなく着こなした上質なシルクのワンピース。その立ち居振る舞いには、育ちの良さと絶対的な自信が満ち溢れている。私とは、住む世界が違う。一目見ただけでそう分かった。
女性はまっすぐに屋敷の中へ入ってくると、玄関ホールに立つ私を認め、ぴたりと足を止めた。そして、値踏みするように、頭のてっぺんから爪先までをゆっくりと眺める。その鋭い視線に、私は蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんだ。
「……あなた、誰?」
鈴が鳴るような、けれど氷のように冷たい声だった。
隣に立つシゲさんが「楓様、こちらは若のお客様で…」と慌てて取り繕おうとするが、女性はそれを手のひらで制した。
「聞いてないわ」
女性はふ、と軽蔑するように鼻を鳴らす。
「まあ、見ればわかるわ。湊がまた、気まぐれで拾ってきた猫かしら」
“湊”。
彼女は、あの恐ろしい男を、当たり前のように呼び捨てにした。その親密さに、胸が奥がちくりと痛んだ。
「私の名前は楓。覚えておきなさい。私は、檜山湊の妻になる女よ」
妻。
その一言が、私の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
そうだ、当たり前だ。この人ほどの男に、決まった相手がいないはずがない。私と彼の間にあるのは、一年間の契約だけ。それ以上でも、それ以下でもない。頭では分かっているのに。
楓と名乗った女は、勝ち誇ったように微笑むと、私にはもう興味を失くしたように屋敷の奥へと進んでいく。その背中を見送りながら、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
胸に刺さった棘が、ずきりと痛む。
それは恐怖とは違う、もっと別の、私自身も名前の知らない感情だった。
ただの恐怖の対象だったはずの男に、当たり前に隣に立つ人がいる。
その揺るぎない事実が、私がこの数ヶ月で感じ始めていた淡い安らぎも、戸惑いも、全てが身の程知らずの勘違いだったのだと、容赦なく突きつけてきた。
私の心は、酷く、酷くかき乱されていた。
その事実に、私は気づかないふりをしていた。湊さんの不器用な気遣いや、シゲさんとの何気ない会話、屋敷の従業員たちの穏やかな態度。それら全てが、私がここにいる理由を、二百万円の借金という当初の目的から、少しずつ別の何かへと変質させている。
忘れてはいけない。ここは私の居場所じゃない。この生活は、二百万円という借金を返すための、一年間という期限付きの労働に過ぎない。そう何度も自分に言い聞かせなければ、この奇妙な居心地の良さに、目的さえ忘れて溺れてしまいそうだった。
そんな生活が四ヶ月ほど続いた、ある秋晴れの朝だった。
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運転席から降り立ったのは、息を呑むほど美しい女性だった。
艶やかな黒髪を結い上げ、寸分の狂いもなく着こなした上質なシルクのワンピース。その立ち居振る舞いには、育ちの良さと絶対的な自信が満ち溢れている。私とは、住む世界が違う。一目見ただけでそう分かった。
女性はまっすぐに屋敷の中へ入ってくると、玄関ホールに立つ私を認め、ぴたりと足を止めた。そして、値踏みするように、頭のてっぺんから爪先までをゆっくりと眺める。その鋭い視線に、私は蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんだ。
「……あなた、誰?」
鈴が鳴るような、けれど氷のように冷たい声だった。
隣に立つシゲさんが「楓様、こちらは若のお客様で…」と慌てて取り繕おうとするが、女性はそれを手のひらで制した。
「聞いてないわ」
女性はふ、と軽蔑するように鼻を鳴らす。
「まあ、見ればわかるわ。湊がまた、気まぐれで拾ってきた猫かしら」
“湊”。
彼女は、あの恐ろしい男を、当たり前のように呼び捨てにした。その親密さに、胸が奥がちくりと痛んだ。
「私の名前は楓。覚えておきなさい。私は、檜山湊の妻になる女よ」
妻。
その一言が、私の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
そうだ、当たり前だ。この人ほどの男に、決まった相手がいないはずがない。私と彼の間にあるのは、一年間の契約だけ。それ以上でも、それ以下でもない。頭では分かっているのに。
楓と名乗った女は、勝ち誇ったように微笑むと、私にはもう興味を失くしたように屋敷の奥へと進んでいく。その背中を見送りながら、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
胸に刺さった棘が、ずきりと痛む。
それは恐怖とは違う、もっと別の、私自身も名前の知らない感情だった。
ただの恐怖の対象だったはずの男に、当たり前に隣に立つ人がいる。
その揺るぎない事実が、私がこの数ヶ月で感じ始めていた淡い安らぎも、戸惑いも、全てが身の程知らずの勘違いだったのだと、容赦なく突きつけてきた。
私の心は、酷く、酷くかき乱されていた。
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