彼女が愛した彼は

朝飛

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 家の明かりも消え、街灯や車の明かりだけを頼りに、街中を走り回る。車は持っているが、見落としてはいけないと思った。

 目的地も見えずに、無我夢中に、がむしゃらに走りながら、時々なぜ自分がここまで必死になっているか分からなくなる。

 あれだけ朱海がいる家へ帰りたがらなかったのに、なぜ。

 暗い路地に辿り着き、そこもくまなく探し回っていないことを知ると、壁伝いにずるずると座り込む。

「俺は、妻を解放させてあげようと思うんです。離婚をしようと考えています」

「奥さんをそんなに大事に思っていて、奥さんもまた高藤さんを思っている。それなのに、どうして」

 自分の声が、楓子の声が、木霊して重なり合う。

「違う、俺は」

 否定の言葉を口にしかかった時、眩いライトに顔を照らされた。腕を翳しながらそちらに目を向けると、制服の警官が覗き込んでいる。

「大丈夫ですか。具合でも悪いですか」

 本気で気にかけてくる若い警官に、全てを打ち明けようとして、口を閉ざす。

 一体何をどう説明すればいいのか、分からなかった。

 自分が浮気したせいで精神を病んでしまった妻を探して下さい、か?

 いや、そもそも浮気が原因かどうかも分からない。だとしたら、離婚しかけていた妻を探して下さい、だろうか。

 しばらく思い悩んだ末、警官が助け起こそうとしてくるのを振り払い、走り出した。

「あ、ちょっと君!」

 背後から警官が叫び、追って来る音がしたが、しばらく闇雲に走っていると、何の音もしなくなった。

 今はただ、車が行き交う音と、微かに紛れた波の音だけだ。

 肩で息をしながら、警官に捜索願いを頼まなかったのを少しだけ後悔したが、戻って説明しようとは思わなかった。矛盾しているが、朱海を見つけ出さなければと思う反面、このまま見つからなくていいのではないかと思っている自分がいた。

 スマートフォンを取り出し、時刻を確かめると、既に深夜1時を回っている。警察が声をかけてくるわけだ。

 メッセージアプリを起動し、朱海にもう一度電話をしかけ、手が止まる。そして、今度は楓子に連絡を入れようとしたが、迷った末に何も送らずに閉じた。

 溜息を吐き、再びゆっくりと走り始める。

 矛盾した自分の思考を上手くまとめられないまま、空が白み始めるまで探し続けたが、朱海は見つからなかった。

 出社時間が近付いたところで切り上げ、誰もいない自宅に帰り着く。最近は朱海とそこまで言葉を交わしていたわけではないが、一人きりだという静けさは耳に痛いほどだ。

 何度目か分からない溜息を吐いて、軽くシャワーを浴び、冷蔵庫にあったロールパンをいくつかつまんで外に出る。朝陽が目に染み、体が重たいように感じる理由を考えたくなかった。

 一睡もしなかった割に眠気を感じなかったため、車で出社すると、ちょうど出入り口で川凪と遭遇した。

「酷い顔だな」

 にやけ顔の意味が分からずに顔を顰めると、川凪が周囲を見回して耳打ちしてくる。

「ついに奥さんに浮気がばれたか」

 まだ疑っていたのか。内心げんなりしながら無視を決め込んだが、川凪は続けた。

「この間の子どもを親にせっつかれているって話、一見それらしいけど、なんか嘘くさいんだよな。親とのやり取りをわざわざ勤務中に見ないと思うし。それに」

 会社の中に入ろうとする真也の肩に手を回し、にやけたまま川凪が言う。

「俺がそれじゃつまらない。あの奥さんよりいい女なのか?」

 結婚式で一度だけ見た朱海を覚えているというのなら、川凪の方がよほど怪しい。そう思ったせいか、思わず笑っていた。

「なんだ」

「いや。川凪こそ、最近は全然奥さん自慢しなくなったと思ってな。尻に敷かれているんじゃないか?」

「お、俺のことはいいんだよ。今はお前の話を」

 川凪が声を大きくして反論してきた時、咳払いが聞こえた。正面に向き直ると、矢木が笑顔で立っている。

「しゃ、社長……」

「川凪さん、高藤さん、出入り口で騒がれると迷惑だから、話は中でして下さいね」

「はい、すみません」

 揃って頭を下げ、真也から先に中に入って行く。デスクに荷物を置いて楓子の席に目を向けた。席に彼女の姿はない。

「社長」

 自分のデスクに戻って行こうとする矢木を呼び止める。

「はい、何でしょう」

「木野さんは休みですか?」

 いつも出勤時間の10分前に来ている楓子が、開始2分前になっても来ていないとなれば答えは一つだが、なんとなく胸騒ぎがして聞いた。

「お休みですね。先ほど木野さんから、体調が優れないからと連絡がありました。この時期は体調を崩しやすいですしね」

 体調不良。昨日会った直後に、だろうか。

 しばらく綺麗に整頓された楓子のデスクを見つめた後、席に着いて仕事に取りかかろうとした。

 その時、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴り始める。昨日、朱海を探していた時に、すぐに気付くようにと音を出しっぱなしにしていたのを忘れていた。

 急いでバイブレーダに切り替え、朱海からの着信ではないかと確認したが、非通知だった。単なる悪戯電話かと思って無視しようとした時、ふと楓子の言葉が蘇る。

「無言電話です。まさか相手は鈴原かな、なんて」

 あれが本当に鈴原からの着信だとしたら。

「すみません、ちょっと電話に」

 矢木に断りを入れ、返事も待たずに外に出る。車の行き交う音を耳にしながら、なり続ける電話に出た。

「はい」

「……」

「もしもし」

「……」

 返ってくるのは沈黙ばかりだ。

 鈴原だ。そうに違いない。確信を抱き、口を開こうとして。

「高藤」

 電話を耳に当てたまま振り返ると、川凪が立っていた。

「電話中にすまん。お前が担当している林様から電話だ」

「あ、ああ。分かった、すぐに……」

 行く、と続けようとしたところで、耳に当てていた電話が切られたことに気が付いた。思わず吐きかけた息を飲み込み、川凪の後に続いて中へ戻る。

 もし仮に鈴原だとしたら、必ずまた接触してくるはずだ。それまで、他にできることは。

 思考を巡らせながら、デスクに設置された固定電話の受話器を取る。

「もしもし。お電話代わりました、高藤です」

「林です。すみません、高藤さん。昨日の物件もよかったんですが、妻がどうしても夜景が見えるところがいいと言い出しまして。また別のところを見せていただきたいなと」

「逆だな」

「え?」

「あ、いえ。すみません。畏まりました。また別の物件をご案内いたしますので、またご都合のいい日にお越しください」

「分かりました。近いうちに伺います」

「お待ちしております」

 電話を切り、仕事へと意識を向けようとするが、どうにもうまくいかなかった。スマートフォンをデスクの片隅に置いたまま、林夫婦に紹介できそうな物件の資料を探し、頭では別のことを考える。

 そうやって勤務時間を過ごしたのだが、意外とミスをすることなく働き続けていた。

「高藤」

「……」

「おい、高藤」

 肩を叩かれて我に返ると、いつの間にか外は薄桃色のグラデーションに包まれている。あれだけ集中力を欠いていたはずが、進めるうちに没頭していたらしい。

「もう6時になったが、お前はまだ残るのか?」

「い……まあ、そうだな」
 いや、帰ると言いかけてやめたのは、川凪の顔に飲みに付き合えと書いてあったからだ。しかし、川凪はそれを聞き逃さなかった。
「帰るんだな。そうかそうか。飲みに行くぞ」
「川凪、俺は」
「いいから、ほら早く」
 問答無用といった感じに、真也の言葉も聞かずに強引に席を立たせる。渋々帰り支度を始めると、川凪が勝手に片付けを手伝い出したせいか、手早く準備が整ってしまった。
「ほらほら。さっさと歩く」
 スマートフォンを持ったところでぐいぐいと背を押され、強制的に歩かされて外に向かう。
「川凪、そんな押さなくても歩く」

「お前が早く歩かないからだろ。というか、お前痩せたんじゃないか?ちゃんと食ってるのか」

「食ってるよ。川凪は俺のおかんか」

「おかん言うな」

 川凪がからから笑うのに釣られて、笑い返そうとしたが、手に持っていたスマートフォンが震えて笑いが引っ込む。

「どうした?電話か」

「ああ、ちょっとな」

 相手を確かめると、またあの非通知だった。

「川凪、悪い。飲みはまた今度」

「あ」

 背を向けようとすると、川凪が声を上げる。振り返ると、川凪が車の音に負けないよう、声を張り上げた。

「一個だけ。高藤、夫婦は変わるものだが、変わらないものもある」

 意味を問おうとしたが、川凪は片手を上げて反対方向へ歩き出した。

 不思議な余韻を残す言葉を胸に、非通知着信に出る。

「はい」

「……」

「もしもし」

「……」

 案の定、無言電話だ。だが、微かに何かの音が聞こえてくる。波の音のように聞こえた。何かの手がかりにならないだろうか。

「鈴原、か……?」

 試しに名前を呼んでみる。何の反応もないかと思われたが、何かが軋む音がした。続いて、誰かの呻き声のような。

「朱海?」

 咄嗟に彼女の名前を出すと、呻き声はしなくなり、代わりに波の音だけがしばらくしていた。それが30秒か、それより短かったかもしれないが、ふつりと途切れる。電子音が冷たく響いた。

 一体あれは誰の声だったのか。分からないが、胸騒ぎばかりがしている。

 メッセージアプリを開き、朱海と楓子のアイコンを見つめる。どちらに送るか迷った後、楓子にメッセージを送ることにした。

「昨日は言い過ぎました。ごめんなさい。体調は大丈夫ですか?」

 楓子からの返信はその後も、その翌日も来ることはなかった。会社も体調不良で休み続けていたため、増幅する不安感を持て余しながら、朱海を毎晩探し続ける。

 その間にも、例の無言電話が続いており、何を言っても反応がなかった。ただずっと真也を引きずり込もうとするような波の音がするばかりだ。

 しかし、楓子が休み始めて一週間が経った晩、ついに変化が起こる。

 ちょうど日付が変わる時間帯、少し遠くまで探してみようと、車を浜辺に停めて捜索を再開しようとしていた時だった。左手に握っていたスマートフォンが震え、着信音を鳴らし出す。

 画面に目を向けると、やはりあの非通知着信だ。

 どうせ何の反応もないだろうと思いつつも、唯一の手掛かりに思えてならないので、迷うことなく電話に出る。今日は相手の出方を窺うため、黙っていようと決めていたのだったが。

「高藤真也。お前が探しているのはこの女か?」

 唐突に男の声がそう言ったかと思うと、何か返事をする前に、今度は電話口に女の声がしてきた。

「高藤、さん……」

「木野さん?」

 どこか苦しげな声で荒く息を吐いているが、聞き間違えようがなかった。

「木野さん、大丈夫ですか?どこか痛めつけられたり……」

「高藤さん。私は平気です。それより、絶対に鈴原の言葉に耳を貸さないで下さい。全部、彼の。いえ、彼らの」

「楓子、いつまでその男と話している。お前は誰ものか、分かっているんだろ?」

 鈴原の言葉とともに、また何かが軋む音がした。楓子の呻くような。いや、喘ぐような声も。

 背筋にぞわりとしたものが走った。悪寒に似たそれは、脳天を突き抜け、全身に行き渡ったかと思うと、一瞬で発火したような熱に変わる。

「どこだ」

 獣じみた低い唸りが、すぐには誰のものか分からなかった。

「は?」

「お前と木野さんだ。どこにいるか答えろ」

「答えるつもりはない。と、言いたいところだが、条件がある」

「条件?」

「宮代朱海……ああ、今は高藤か。その女と楓子、助けたいのはどちらか選べ。丸一日猶予をやるから、しっかり考えるんだな」

「朱海?朱海もそこにいるのか?」

 問いへの答えはなく、鈴原の笑い声を耳にしたのを最後に、通話は途絶えた。

「くそっ」

 悪態を吐き、スマートフォンを投げつけたくなる衝動を抑えるのに苦労した。このスマートフォンが壊れてしまえば、唯一の繋がりが消えるのだと自分に言い聞かせ、頭を掻き毟って深く息を吐き出し、冷静さを保とうと努める。

 暗闇の中、潮騒の音だけが響いていて、他の音は何もしない。そのせいか、海の中にたった一人で潜っているような気がした。

 冷たく、どこまでも深い、底なしの海の中にいて、二度とそこからは抜け出せない。抗っても、もがいても、無駄なのだ。

「俺は、二人を」

 鈴原に自分の愚かさを見透かされていると感じた。楓子と朱海、そのどちらも選べないと思われているのだ。そして、二人とも失う真也を笑う姿が浮かぶ。写真で見た顔を虚空に思い描いて、強く睨みつけ、車に乗り込んだ。

 寝静まった街を走り、自宅へと戻って行く。猶予は一日しかないが、湧き起こる怒りのためか、不思議と焦りはない。

 自宅へと帰り着くと、考えをまとめるために室内をうろついた。朱海との過去が染みついた部屋では公平な判断ができないのではないかとは思ったが、自然と朱海と楓子の両方のことを考え始める。

 全く別の人格を持つ二人だが、揃って昔の男のことを引きずっているという共通点があった。楓子は憎んでいるように見えて、その実は未だ鈴原との過去を忘れられていないだけに見える。一方、朱海もまた夫がある身でありながら、隆平を想っているのではないか。

 そのことに気付いたからといって、では自分はどうかと思う。朱海に離婚を切り出すこともできず、彼女をまだ想いながらも、楓子のことも気にし始めている。

 これでは、三人とも同じではないか。

 その事実に無性に腹立たしくなり、イライラしながら朱海の部屋のドアを開いた。そして、そこに広がる部屋のありさまにぎょっとする。

 部屋の中には、夥しい量の赤い花が絨毯のように敷き詰められ、さらには部屋中至るところに写真が貼られていた。

 その写真はどれもが真也の写真、ではなく、見知らぬ男のものだった。

 

 
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