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その部屋を目にした時、ふっと浮かんだ感情が何なのか、自分でもなかなか分からなかった。
散りばめられた赤い花を避けもせず、くしゃり、くしゃりと踏み潰しながら歩く度、本当に赤い花がそこにあるのか、それとも頭の中でつくり出した妄想か判別がつかなくなっていく。
「真也、ねえ、真也」
朱海の声が反響し、頭痛が酷くなるのを感じながらも、朱海のベッドに、ベッドサイドのテーブルに、本棚に、一つずつ触れ、視線を移動していった。
「朱海」
声に出して、名前を呼ぶ。
「朱海」
やっぱり、お前は。俺たちは。
先ほどイライラしながら至った考えの答えが、ここにはある。思い浮かべ、想像するのと、事実を突きつけられるのとでは大きく違うのだと知った。
だからといって、自分がどうしたいのかも分からないまま。本棚に手を伸ばし、一つだけ異質なボロボロのノートを手に取り、そっと広げた。
ノートはあちこち破かれていて、日付は黒く塗りつぶされているが、どうやら朱海の日記帳のようだ。
「今日、隆平が初めて私の名前を呼んでくれた。嬉しいのに、素直になれなくて、喜んでいないふりをしてしまった。そしたら隆平が、私のほっぺたを抓ってこらって怒ってきて。怒られたのに、嬉しかった」
隆平。
「今日は、隆平が私の誕生日を祝ってくれた。お祝いはケーキじゃなくて、変わった喫茶店の無料食事券だった。moonというそのお店は、店員が無口だし、あんまり好きになれないけど、隆平と一緒だからとても素敵な場所に思えた」
喫茶moon。
朱海との会話が蘇る。
「この喫茶店、変わっているけど癖になりますね」
「ですね。俺、ここの常連になるかも」
「あ、私も」
あの店に通い詰めていたのは、真也と会うためではなく、隆平との思い出に浸るためか、もしくは待っていたのかもしれない。そんなことも知らないで、勝手に浮かれていたのか。
朱海との思い出が、過ごしていた日々が、日記を捲る度に一つずつ壊れていく。それでも、手が、目が止まらない。どこかに自分の望んだものがないかと探し続ける。
「隆平が海に連れて行ってくれた。あんなに海が嫌いだと言っていたのに、私が海が好きだと知ったら、自分も好きになろうとしているみたい。そう言ってくれたわけじゃないけれど、なんとなく。隆平が心から海が好きになってくれるように、いっぱい海のいいところを教えてあげたい」
新居を決める時、海に拘ったのは、隆平のことを。隆平のために。
知らず、日記帳を握りしめていて、ノートが曲がり、指が白くなっていた。噛み締めた唇から鉄さびの味が微かにする。
赤い花が、蕾を少しずつ開いていく。この花が完全に咲き乱れた時には何が起こるのか分からない。
ノートが数ページ破かれた箇所があり、続きは朱海の走り書きのように乱れていた。
「隆平が、私に嘘をついていた。許せない。とんでもない裏切りだ。でも、隆平を憎みきれない。愛しているから。私は隆平を毎日想いながら、ただただどこまでも止まらない涙を流し続ける。何も見えない。未来が、何も」
隆平がどんな裏切りを行ったかは記されておらず、何ページにも及ぶ恨み、憎しみ、愛情が暴力的にとも言えるほど延々と書かれていた。
「隆平、どうして嘘をついたの」
「隆平、あなたは私を愛しているって言ったのに、あれも嘘?」
「隆平、信じていたのに」
「隆平、全部嘘でもいい。私を愛して」
「隆平、またやり直そう?」
「隆平、私はあなたを。あなたの傍にいさせて。お願いだから」
朱海が隆平への愛憎を記している文を読み進める度、花はどんどん花弁を開いて、芳しい香りを漂わせていく。吐き気を催すほどむせ返るような甘ったるい匂いだ。
その花が、次の一文でぴたりと動きを止めた。
「鈴原の秘密を知ってしまった。鈴原と早く関係を切らないといけない。分かっていても、切ることができない」
朱海や鈴原の秘密については書かれていないが、この文面で朱海と鈴原が繋がっているのは明らかになった。単に脅されている可能性に縋ろうとしても、胸の奥に生まれた感情が増幅し、かたちを成そうとしていて、押し潰されていく。
花が赤味を増し、開き切り、今にも飲み込もうとする。あるいは、ほらこの花を握り潰して、その身に宿してしまえと囁いているようにも感じた。
そうなれば、お前は。
花の声が、言葉が続こうとするのを、ノートを閉じることで塞いだ。いつの間にか差し始めた朝陽が、カーテンの隙間を縫って部屋を照らしてきていたが、闇の中にずっといる感覚だった。
今までより一層深い闇に入り、抜け出そうもない。いや、抜け出す必要はないのだ。自ら足を踏み入れた。恐らく、朱海と出会った瞬間からそうだった。
ずっと朱海のせいにしていたが、そうではない。それだけではない。
ノートを手にしたまま、立ち上がり、スマートフォンを取り出して時刻を確かめた。まだ仕事の時間までずいぶんと余裕があるが、連絡を入れておくに越したことはないだろう。
この状況で仕事を気にする自分が少し可笑しく感じながら、矢木の番号を押し、電話をかける。
「はい、矢木です。高藤さん、どうしました?」
朝早い時間にも関わらず、3コールで出てくれた。いつもながらの柔らかい物腰が、張り詰めた神経を少しだけ解す。
「すみません、朝早くに。実は最近、寝不足と軽い食欲不振が続いていまして、できれば体調が戻るまで休みをいただきたいのですが……」
睡眠不足と食欲に関しては嘘ではないが、何も休むほどではない。良心の呵責を覚えながらも、矢木の返事を待つ。
「……そう、ですか。困りましたね。木野さんに続いて、あなたまでとあっては」
「申し訳ありません。やっぱり、仕事が回らないですか?」
「いえ、仕事の心配はいいんです。ただ」
「ただ?」
「木野さんが数日前、休みの連絡をしてきた時、ちょっと変だなと思ったんです」
「と言いますと?」
「波の音がしたからですよ。木野さんが住んでいるところは、海からそれなりに離れていたはずなんですけどね」
「……」
「高藤さんはどうか分かりませんが、木野さんは何か妙なことに巻き込まれていないかと思いましてね。高藤さんは何か知りませんか?」
「あの、どうして私が知っていると?」
矢木が少し考え込む気配がした。そして。
「なんとなく、高藤さんと木野さんは親し気な空気があるような気がしていたんですよ。話をしているところはほとんど見かけませんが、お互いに何か通じ合っているような」
もちろん不倫とか、そういうのではなくねと苦笑しながら言われ、胸の奥で咲いていた花が一瞬勢いを失くす。
「社長、そんなのは」
あるはずないですよ、という自分の声が遠くで響いた。
散りばめられた赤い花を避けもせず、くしゃり、くしゃりと踏み潰しながら歩く度、本当に赤い花がそこにあるのか、それとも頭の中でつくり出した妄想か判別がつかなくなっていく。
「真也、ねえ、真也」
朱海の声が反響し、頭痛が酷くなるのを感じながらも、朱海のベッドに、ベッドサイドのテーブルに、本棚に、一つずつ触れ、視線を移動していった。
「朱海」
声に出して、名前を呼ぶ。
「朱海」
やっぱり、お前は。俺たちは。
先ほどイライラしながら至った考えの答えが、ここにはある。思い浮かべ、想像するのと、事実を突きつけられるのとでは大きく違うのだと知った。
だからといって、自分がどうしたいのかも分からないまま。本棚に手を伸ばし、一つだけ異質なボロボロのノートを手に取り、そっと広げた。
ノートはあちこち破かれていて、日付は黒く塗りつぶされているが、どうやら朱海の日記帳のようだ。
「今日、隆平が初めて私の名前を呼んでくれた。嬉しいのに、素直になれなくて、喜んでいないふりをしてしまった。そしたら隆平が、私のほっぺたを抓ってこらって怒ってきて。怒られたのに、嬉しかった」
隆平。
「今日は、隆平が私の誕生日を祝ってくれた。お祝いはケーキじゃなくて、変わった喫茶店の無料食事券だった。moonというそのお店は、店員が無口だし、あんまり好きになれないけど、隆平と一緒だからとても素敵な場所に思えた」
喫茶moon。
朱海との会話が蘇る。
「この喫茶店、変わっているけど癖になりますね」
「ですね。俺、ここの常連になるかも」
「あ、私も」
あの店に通い詰めていたのは、真也と会うためではなく、隆平との思い出に浸るためか、もしくは待っていたのかもしれない。そんなことも知らないで、勝手に浮かれていたのか。
朱海との思い出が、過ごしていた日々が、日記を捲る度に一つずつ壊れていく。それでも、手が、目が止まらない。どこかに自分の望んだものがないかと探し続ける。
「隆平が海に連れて行ってくれた。あんなに海が嫌いだと言っていたのに、私が海が好きだと知ったら、自分も好きになろうとしているみたい。そう言ってくれたわけじゃないけれど、なんとなく。隆平が心から海が好きになってくれるように、いっぱい海のいいところを教えてあげたい」
新居を決める時、海に拘ったのは、隆平のことを。隆平のために。
知らず、日記帳を握りしめていて、ノートが曲がり、指が白くなっていた。噛み締めた唇から鉄さびの味が微かにする。
赤い花が、蕾を少しずつ開いていく。この花が完全に咲き乱れた時には何が起こるのか分からない。
ノートが数ページ破かれた箇所があり、続きは朱海の走り書きのように乱れていた。
「隆平が、私に嘘をついていた。許せない。とんでもない裏切りだ。でも、隆平を憎みきれない。愛しているから。私は隆平を毎日想いながら、ただただどこまでも止まらない涙を流し続ける。何も見えない。未来が、何も」
隆平がどんな裏切りを行ったかは記されておらず、何ページにも及ぶ恨み、憎しみ、愛情が暴力的にとも言えるほど延々と書かれていた。
「隆平、どうして嘘をついたの」
「隆平、あなたは私を愛しているって言ったのに、あれも嘘?」
「隆平、信じていたのに」
「隆平、全部嘘でもいい。私を愛して」
「隆平、またやり直そう?」
「隆平、私はあなたを。あなたの傍にいさせて。お願いだから」
朱海が隆平への愛憎を記している文を読み進める度、花はどんどん花弁を開いて、芳しい香りを漂わせていく。吐き気を催すほどむせ返るような甘ったるい匂いだ。
その花が、次の一文でぴたりと動きを止めた。
「鈴原の秘密を知ってしまった。鈴原と早く関係を切らないといけない。分かっていても、切ることができない」
朱海や鈴原の秘密については書かれていないが、この文面で朱海と鈴原が繋がっているのは明らかになった。単に脅されている可能性に縋ろうとしても、胸の奥に生まれた感情が増幅し、かたちを成そうとしていて、押し潰されていく。
花が赤味を増し、開き切り、今にも飲み込もうとする。あるいは、ほらこの花を握り潰して、その身に宿してしまえと囁いているようにも感じた。
そうなれば、お前は。
花の声が、言葉が続こうとするのを、ノートを閉じることで塞いだ。いつの間にか差し始めた朝陽が、カーテンの隙間を縫って部屋を照らしてきていたが、闇の中にずっといる感覚だった。
今までより一層深い闇に入り、抜け出そうもない。いや、抜け出す必要はないのだ。自ら足を踏み入れた。恐らく、朱海と出会った瞬間からそうだった。
ずっと朱海のせいにしていたが、そうではない。それだけではない。
ノートを手にしたまま、立ち上がり、スマートフォンを取り出して時刻を確かめた。まだ仕事の時間までずいぶんと余裕があるが、連絡を入れておくに越したことはないだろう。
この状況で仕事を気にする自分が少し可笑しく感じながら、矢木の番号を押し、電話をかける。
「はい、矢木です。高藤さん、どうしました?」
朝早い時間にも関わらず、3コールで出てくれた。いつもながらの柔らかい物腰が、張り詰めた神経を少しだけ解す。
「すみません、朝早くに。実は最近、寝不足と軽い食欲不振が続いていまして、できれば体調が戻るまで休みをいただきたいのですが……」
睡眠不足と食欲に関しては嘘ではないが、何も休むほどではない。良心の呵責を覚えながらも、矢木の返事を待つ。
「……そう、ですか。困りましたね。木野さんに続いて、あなたまでとあっては」
「申し訳ありません。やっぱり、仕事が回らないですか?」
「いえ、仕事の心配はいいんです。ただ」
「ただ?」
「木野さんが数日前、休みの連絡をしてきた時、ちょっと変だなと思ったんです」
「と言いますと?」
「波の音がしたからですよ。木野さんが住んでいるところは、海からそれなりに離れていたはずなんですけどね」
「……」
「高藤さんはどうか分かりませんが、木野さんは何か妙なことに巻き込まれていないかと思いましてね。高藤さんは何か知りませんか?」
「あの、どうして私が知っていると?」
矢木が少し考え込む気配がした。そして。
「なんとなく、高藤さんと木野さんは親し気な空気があるような気がしていたんですよ。話をしているところはほとんど見かけませんが、お互いに何か通じ合っているような」
もちろん不倫とか、そういうのではなくねと苦笑しながら言われ、胸の奥で咲いていた花が一瞬勢いを失くす。
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