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斎藤福寿、終わり始まる日々。

1 式部霞の受精卵

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『おい、根暗眼鏡』
『霞さん、どうしたんですか?』
『陸が死んじゃったの』
強気な霞さんが涙声だった。僕はびっくりしてしまう。あの霞さんが泣くなんて思っていなかった。僕もあの廊下から離れたら泣くことはやめようと思っていて、それからは泣いていない。
『死亡する日付は一緒でしたね』
『でも、私は寂しくないの。陸の子どもが居るから』
『それってマザーさんが決めた受精卵?』
僕は今は受精卵をマザーが決めるから、そこまで段取りよく進めた霞さんはすごいなと感じていた。だって、父さん親が死ぬと分かっていてそれで産むと決意するなんてそこまで気持ちがあるのだ。
『そうじゃない、自然妊娠』
『李さんは知っているんですか?』
『すももにはバレているよ。これから一緒に育児科に行くの』
育児科は詩乃が働く職場だ。こんなところで、霞さんと詩乃が意気投合して仲良くなったりしたら僕は困る。詩乃には霞さんのような怖い女にはなって欲しいと思わないから。でも、霞さんは親になるのか。
『健康だと良いですね』
『そうね、悪いところが遺伝していないと良いんだけど』
『これから根暗眼鏡もあの世間知らずと会うと思うけど、未だに最初の番号で呼んできてうざったいから怒って帰ってきてやったの』
世間知らずとはマザーさんのことだ。僕も庁舎に来いとは言われていたけど、マザーさんと会うことになるのか。死ぬ時期を教えたから怒っているかも。
『え、霞さんはマザーさんと会ったの?』
『会ったわよ。何か問題ある?』
『じゃあ、お子さんのことはマザーさんも知ってることなのか』
『そうよ、何か悪い?』
やっぱり霞さんは怖い。僕は悪いことをしていないのに、霞さんには頭が上がらない。それでも僕なりにけじめはつけなければ。
『僕がマザーさんに名前で呼ぶように伝えますから、霞さんも僕のことを名前か苗字で呼んでくれたら良いかなって』
『分かったわよ、福寿。世間知らずお嬢様によろしく』
そう言うと霞さんは電話を切った。僕は病院の駐車場から庁舎に向かう準備を始めた。大きな病院の前なのでバスはたくさん本数がある。これなら早く付きそう。僕のスマホにはゲームなんて入っていない。だから長くバスに乗る利点もない。この生活で僕は本当に幸せなのだろうか。好きなゲームもできなくて、出会った人とは別れていくこの日々に価値はあるのだろうか。バスの窓から外を見ると、いつもどおりに実らない満開の草木がある。この草木も何も残せない生き方で幸せなのかな。植物も話しかけると成長の仕方が変わると聞いたことがある。ずっと咲いていることをどう思っているのだろうか。実って枯れたいとは思うときもあるのでは?そんなつまらないことを考えてバスに揺られる。庁舎に行くと李さんがバス停で待っていた。
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