表題はご自由に 【症例:愚か者の事件記録】

黒須共生

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勾留手続き

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   目が覚めた時まだ外は暗かった。時刻は4時過ぎ。あまり寝付けなかったようだ。起床時刻の7時まで時間はあるのだが、やることが全くないためとにかく時間の経過が遅かった。
「すみません。服着てないなら返却してください。」
 担当官から突然声がかかる。昨日寝る前に脱いだ長袖を返却しろと言っている。一々細かいことを指摘されたことで苛立ちを覚えたが、服で首を括るようなことがないようにするためのルールであろうと無理やり自分を納得させ怒りを鎮めた。その後は悶々とした気持ちでじっとしていたがようやく7時になったようでスピーカーから歌謡曲が流れ始めた。
 「起床の時間になりました。起きてください。」
 担当官の声に反応して立ち上がる。随分と待ちくたびれた。
 「おはようございます。昨日お伝えしましたが起床後は掃除となります。まずは布団を片付けていただきますので敷布団は三つ折り、掛布団は2回畳んで重ねてください。」
 指示通りゴワゴワの布団を畳み終わり合図を送る。漫画などではこのような場面で布団の端をきちんと合わせろなどといったいびりが行われるのだが、さすがに現実でそのようなことはなかった。
 「部屋の掃除は箒と雑巾を使ってしてください。雑巾はマジックでトイレ用と畳用と書いてあるのでよく確認して使ってください。それとゴミは部屋の入り口前に集めておいてください。後で掃除機で吸い取っておきますので。」
 そのように説明を受け、箒とバケツを受け取る。狭い部屋なので掃き掃除と雑巾がけが終わるまで5分もかからなかった。清掃後は手洗いをし朝食の時間となる。昨夜と同じく弁当が差し入れ口から渡される。中身は天ぷらと昨夜のきんぴらごぼう、白米であった。普段朝食を抜いている自分にとって朝からオイリーな揚げ物は勘弁してほしい。正直半分くらいで十分だったが、残したことで何か言われるのも嫌だったので無理やり胃に詰め込んで完食した。朝食後は歯磨き洗面の時間だが、昨夜の反省を踏まえ洗面のために1分程時間を確保した結果差し支えなく行うことができた。そのまま部屋へ戻ると担当者から声がかかる。
 「普段洗面終了後に運動という時間を取っています。その運動の時間に爪切りや耳かき、髭剃りをすることができます。また運動場に行って軽い運動をすることもできます。時間は合計20分間で、爪切りや耳かき、髭剃りはそれぞれ5分の割り当てとなります。また運動場だけは毎日使用可能ですが、それ以外は2日続けて同じ運動ができません。あと土日は運動の時間そのものがないので注意してください。今日はどうされますか?」
 ――運動場に行きます。
 狭い部屋にいては体が鈍ると考えた私は、運動場へ行くことにした。ただ、準備に時間がかかったようで運動場に案内された頃には30分ほど時間が経っていた。運動場は2階にあり、四方を3メートル程の壁に囲まれた広めのベランダのようだった。広めといってもあくまでベランダにしてはということで、10畳程度では走るようなスペースもないため軽いウォーキングと体操くらいしかできることが無い。結局すぐにやることが無くなり20分間使い切らずに運動を切り上げ場内へと戻ることにした。場内へ戻った後は再び時間割の説明があり、9時から点呼・検室といって身体検査や部屋に異常がないか確認する時間となることを伝えられた。点呼が終わるまで本や新聞を見ることができないので、9時までは空白の時間だ。私はうつ伏せとなりじっと時が過ぎるのを待つことにした。
 「そろそろ点呼なので名前を呼ばれたら返事をしてください。」
 定刻になったようで、点呼・検室が始まる。5人体制の業務のようで1名は監督、2名は室内検査、残る2名は収容者の身体検査を行っていた。身体検査の内容は昨夜受けたものと変わりない。室内検査は、壁や畳、トイレ、金網、差し入れ口などの異常がないか確認しているようだった。壁や金網を叩きつけながら確認を行っているためかなり大きな音が響いていた。
 「点呼、検室異状なく終了します。今日も一日よろしくお願いします。」
 3分程で点呼が終わり自由時間となる。担当官は昨日の人から交代となっている。この後収容者に許される娯楽は読書と筋トレくらいのもので、あとは取り調べ要請に従うだけだ。これを就寝時間の21時まで繰り返す。被疑者はこのルーティーンで日常を送る。
 日常生活という意味では重要なのでここで一度トイレ事情について触れておこう。まずトイレットペーパーは担当官から差し入れしてもらわなければいけない。支給されるのは必要分だけなので任意の分量を取るのだが、初心者には必要量など全く想像できない。私の場合は平時から使用しているウォシュレット機能を使用していたのだが、当然そのような卓越した機能などないため余計にだ。最初は適当な分量を取って用を足してみたが案の定足りなかった。下半身丸出しのまま担当官に依頼して再び差し入れてもらう必要があった。因みにトイレには手水場も備え付けてあるが、水はトイレの流しに連動して出る仕組みになっている。ただし5秒程しか手洗い用の水が出ない上に石鹸などはない。流水だけでも時間をかけてしっかり洗えばある程度清潔になるのだがこの環境ではとても無理な話だ。とりあえず一度厚生労働省の手指衛生のページを参考にした方がいい。用を足した後はとにかく不衛生である。
 

 この日は午前中刑事に呼び出されるようなことはなく、新聞や官本を読みながら過ごしていた。昼食を摂った後に担当官から今日の予定を聞かされた。どうやら13時頃から検察庁と裁判所へ護送することとなったらしい。担当官には弁護士から預かった書類について伝え、無事に書類の持ち出しが認められた。後は心の準備をしながら時間を待つだけである。
 「これから護送となりますので、部屋から出てください。」
 留置施設外へ向かう際にいつも行われる身体検査をされた後、ジャケットを着用させられ手錠と腰縄を回された。外へ繋がる通路は留置施設の入り口隣のドアの先にある。扉の前で手錠が隠れるよう手に布を被せられた。留置施設は2階なので階段を下りて護送車へ向かう。車庫と署内は直接繋がっており、車庫と外界は分厚いシャッターで仕切られている。護送車には運転手、護送担当官2名と私の計4名が同乗し私と担当官は最後部の座席に座った。シャッターが開けられると大勢の警察職員が外で待ち構えているのが見える。こんなに盛大に見送られては逃亡なんてとてもできない。尤も逃亡する気などないが。私は多数の警察職員に見送られながら検察庁へ護送された。
 遠くの景色は随分と見ていなかった気がする。逮捕されて1日しか経っていなかったが、これからは狭い視野の中で過ごさなければならないということは十分に理解できた。のどかな田園風景を見るとその認識は一層強まる。検察庁は市街地から一本外れた道沿いに建っており10分程度で到着した。護送車を正面駐車場に停車させた後、運転手だけが建物に入っていきすぐに戻ってきた。何か小さな機器を持った運転手はすぐに車を発車させ建物の裏手に回り込み車庫のシャッターを開ける。小さな機器はシャッター開閉用のリモコンのだったらしい。庁内に入ると正面に鉄格子が見えた。鉄格子の奥には椅子が4つあり個室のトイレが併設されている。トイレにはトイレットペーパーが備え付けてあるので独居房の物より幾分かマシだ。椅子はプラスチック製で壁に張り付いており昔駅で見たようなベンチを思い起こさせる。
 なかなか呼び出しがかからない。私は担当官に挟まれ窮屈な思いをしながらずっと待っていた。狭い檻の中では鑑賞するような物など当然ない上、冷房の風により直接体を冷やされることにより苦痛が増していた自分にとってそれは非常に長い時間であった。頭の中で音楽を鳴らし続けて気を紛らわしていた。そしてやっと呼び出されたのはなんと30分以上も経った後のことだ。座り続けて体が硬くなった私は、体を気遣いながら検察官の取調室まで足を運んだ。
 「こちらの部屋に入ってください。」
 検察事務官に案内された部屋には白髪混じりで初老の男性が座って書類に目を通していた。私は正面の事務用机まで案内され、手錠と腰縄を外された。
 「席についていただいて結構です。私は検察官の岩水と申します。これから逮捕された案件に関してあなたの弁解を聞かせていただきますが、あなたには黙秘権があります。言いたくないことは黙っていただいて結構です。またこの部屋には記録用のカメラと録音機があるのでご了承ください。」
 仕事柄手慣れているのだろう。流暢に挨拶と留意事項の説明を済ませ終えた後、検事官は書類に目を通しながら質問してきた。名前や住所、生年月日、職業等個人情報の聞き取りから始まる。結局私は国に管理されている以上公務員がその気になれば個人情報など無いに等しいのだ。手元の書類と見比べて私が嘘をついていないか確認しているのだろう。本人確認が終わった後は逮捕理由に関する質問へと移っていく。検察にも刑事からの情報が入っているはずなので、可能な限り刑事とのやり取りを思い出しながら質問に答えていった。質問内容は昨日刑事が行ったものとほとんど変わりがなかったが、弁護士の選定をどうするのか質問されたため私選弁護人依頼の書類をこれから裁判所に提出する旨を伝えておいた。他には特殊な質問などなく、大して突っ込んだことも聞かれずに時間が過ぎていった。
 「これからあなたの供述を基に調書を作成するので、事実と違う部分がある場合は教えてください。」
 検事が事務官に指示をし、調書の作成に入った。検事が口頭で伝えた内容を事務官がパソコンで打ち込んでいく。私は検事が話す内容を集中して聴きながら、内容に誤りがないか確認する。事務官のパソコン画面は検事の手前にあるモニターと連動しているようで、時々修正指示も行っていた。出来上がってプリントアウトされた2枚の調書が私の前に差し出され内容を確認するように促される。聴いている限りは問題なかったように思うが念のため目を通し、結局問題ないという旨を伝えるに至った。
 「問題ないようなので調書に署名と指印を押していただきます。署名を最後の欄の右下に記載して、指印は各ページの右下の余白に左手の人差し指で押してください。」
 事務官に説明を受け、署名と指印を押した。指印は警察の書類と違い左手人差し指で黒肉を用いて行い、指印を終えると取り調べが終了となった。取り調べの時刻を記載した書類に同様のサインをした後、裁判所へ向かう準備が整うまで再び鉄格子の椅子で待機となった。警察は朱肉で右手人差し指の指印であったが色や右手左手を分けることに深い意味があるのだろうか。
 取り調べから1時間弱が経ち、ようやく裁判所へ行く準備ができたようで裁判所へ護送された。何か嫌がらせでも受けているのか、それともお役所仕事だから遅いのか、いずれにせよ随分と遅かったため顔を顰めている時間も長かった。裁判所は検察庁からほど近く、車で1分程度の距離にある。古めかしい建物で所々コンクリート壁にひび割れが見られる。検察庁と同じように正面ではなく裏口を使い建物内へ入った。掃除が行き届いていないのか裏口には蜘蛛の巣や虫の死骸が散乱している。入ってすぐのところに階段があり、上って2階にある待合室で呼ばれるのを待つことになった。待合室には年代を感じさせる木製の長いすが置いてあり、そこから漂ってくるのか独特な香りが室内に満ちていた。旧札幌控訴院へ見学に行ったことがあったが、その匂いがその場所を思い起こさせた。検察庁と違い冷房が付いていないため少々蒸し暑かったが風情を感じる場所だ。
 裁判所内ではあまり待つこともなく部屋へと通された。アクリル板で仕切られた机があり裁判官と事務員が待っている。
 「初めまして。これからあなたを勾留するかどうかを検察官と相談します。そのためいくつか質問をするのですが、あなたには黙秘権というものがあるため話したくないことは無理に話さなくても結構です。」
 どこでも黙秘権に関してはしつこいほど念押しされる。それほど重要な権利なのだろう。裁判所でも身元確認から行われ罪名の確認も行われたが、それ以外の質問内容は弁護士に関することや身元引受人に関すること、釈放された際の住所に関わることなどと今までとの相違があった。弁護人に関しては私選弁護人を一度拒否してもらい、国選弁護人として清木先生に付いてもらう方針であることを正直に伝えた。勿論そのことは先生も承済みであるということを念押ししておく。だが身元引受人に関する返答には困った。逮捕されたという事実は刑事から親に既に伝えているそうだが、親とのコンタクトはまだ取れていない。身元引受人になるどころか勘当される可能性すらある。むしろ私は無価値な自分とは縁を切ったほうが家族にとってもいいであろうと真剣に思っていた。そのため裁判官には親が身元引受人になる保証がないと返答するしかなかった。それを受け裁判官からは、仮釈放となった場合はホテルに宿泊し早急に引っ越しをした上、引っ越し先を警察に届け出るという条件を提示された。その後は釈放の判断材料として証拠隠滅しないということや仮釈放後に呼び出されたら直ちに出頭すること、また今後の住居を警察へ届け出ることが記載された誓約書にサインした。この書類はあくまで誓約書であるため仮釈放を保証するものではない。以上で裁判所の手続きも終了となり、勾留の審議が終わるまでは検察庁で再度待機となった。
 検察庁へ戻ってから2時間弱経過していた。半袖短パン姿で冷風に身を晒した私は未だに検察庁の椅子に座り審議結果を待っていた。あまりにも遅すぎるので、判断に迷っており仮釈放の可能性があるかもしれないとも思い始めていた。しかしそうは問屋が卸さない。結論から言うと散々待たされた挙句勾留決定が下ったのだ。正直勾留決定の告知を受けた事自体はあまりショックではなかった。むしろ決定を待つ時間そのものが自分には堪えたので、それから解放されるという安堵があったくらいだ。やはりわざと嫌がらせを受けているのだろうかという暗澹たる思いを胸に刑務所までの帰路に着く。時刻は17時近くになっていた。
 警察署に戻る際も私は多数の警官に迎えられ車から降りることになった。会社の会長のようなお偉いさんではなくても職員総出で出迎えられるのだな、と皮肉に思う。身体検査を済ませた後は夕食を済ませ、身体を投げ出し読書の続きをしていた。明日から本格的に取り調べが行われるだろう。事件当日のことしか話していないので実は事件関連で話さなければならないことがまだ多く残っていた。少なくとも10日間の勾留が決定された以上、詳しく事件内容の聞き取りが行われるであろうことは容易に想像できることだ。取り調べで話す内容と順序をどうするか考えながら床に入り、夜が更けていった。
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