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保釈
しおりを挟むタリーズコーヒーのブレンドは少し酸味が気になるが香りは好みだ。珈琲はいつでも格式高い気分に浸らせてくれる。今頃セロトニンがせっせと分泌されていることだろう。セロトニンは別名幸せホルモンと呼ばれる。ムショボケならぬ留置所ボケした私にはよい抗鬱剤になるかもしれない。しかし飲みすぎはNGだ。逆にセロトニン分泌を抑制してしまう。そうすると不安感や三叉神経痛、消化管運動の低下による便秘など困った症状が現れる。実際にセロトニンの機能を助ける薬(セロトニン受容体アゴニスト)にはこれらの症状を緩和する作用がある。逆に過剰となっても精神不安や振戦、嘔吐といった症状に悩まされる。何事もバランスだ。ホメオスタシスの維持の為にも1日2杯程度に抑えるのがベターだ。しかし、ボールパークドッグアボカドを口に運びながら考えていたのは、そのようなことではない。今向かいに座っている母との接し方だ。今まではなんだかんだ15分という限られた面会時間だったから間が持ったのだが、今はそうもいかない。初対面の定番の話題は天気、出身地、趣味、最近のトピックス。あれ、何かおかしいぞ。相手は母親のはずなんだけどな。だが最近のトピックスは話のとっかかりとして悪くない。何といってもこちらは取材困難な場所から仕入れた新鮮なネタが沢山ある。これは特ダネ間違いなしだ。因みに断っておくが、留置所内で知りえた情報には守秘義務が課せられる。人物の特定に繋がるような話は固く禁じられている。被疑者も有罪が確定したわけではないし、推定無罪の原則に従って人権侵害に当たるような行いは以ての外だ。誹謗中傷は人の人生を狂わしかねない重大さを含んでいるのだ。人にやられて嫌なことはしてはいけない。もちろん私も心を入れ替えてそれを実行していこうと固く誓っている。もう察していると思うが本日無事に保釈され、長い岐路に着いたところだった。物理的には大した距離ではなかったが、心が正常になるまでは長い時間がかかるかもしれない。
保釈前日、壁のシミを数えるにまで至った私に2つ朗報がもたらされた。1つは言うまでもないだろうが保釈の見通しが立ったことである。保釈金の支払いが確認でき次第解放されるとのこと。ただし、母親が迎えに来たいと申し出ているため保釈は翌日にずれ込んだ。もう一方は示談交渉がまとまったという報せだった。最終的には示談書に不起訴の請求を盛り込む形で落ち着いたそうだ。ギリギリのところを攻めたつもりだったがうまく収まったようで一安心だ。これで多少はマシな条件で裁判に臨める。とにかく2ヵ月以上にも渡る示談交渉にようやく蹴りが付いたのだ。
そうして待望の保釈となり、勾留中にもらった大量の通知書類と検察には不必要な証拠品を詰め込んだ紙袋をひっさげ出てきたわけだ。私は人目に付かないよう職員用階段を下りエントランスで待つ母のもとへ案内された。逮捕から72日。仮初めとはいえとうとう帰還したのだ。お世話になった担当官やわざわざ車まで見送りに来ていただいた恒さんにはよくお礼を申し上げた。対して母親への第一声は謝罪だったか、はたまた息災であることを伝えたかよく覚えていない。私のこのように薄情であるところはよろしくない。アメリカ人のように抱擁くらいはするべきだったよな。だけど公衆の面前でそんなことしたら迷惑だよなあ。いや、そもそもそんな直接的な表現をしなくても気持ちは伝わるものだろう。奥ゆかしさこそ我が国ジャパンの美徳なのだ。このようにやるべきことができなかった理由をあれこれと考えるが、なんら複雑な事情はない。本当は恥ずかしかっただけなのだから。
外に出た時、冷気をまとった風が吹き抜けた。逮捕当時のまま半袖の薄着を纏っているため少し寒い。色鮮やかだった景色はすっかりと落ち着きを見せていた。SFで時空旅行や異世界から現世に戻った時、注目することがある。それは元の時間に戻ってこられるかどうかである。仮に元の時間に戻れなかった場合は大きな困難が予想されるからだ。日本の代表作である浦島太郎なんかはその残酷さを見事に表している。手入れの行き届いていない自宅には雑草が生い茂りご近所さんの顔ぶれも一新している。私の場合は季節が変わっている程度で済んだが、確かに別世界に居たことを認識できた。大きな山に圧倒され、人工ではない自然の風に感動を覚え、果てしなく広がる空に制限されない喜びを感じた。返品されたスマートフォンを確認すると顔をしかめたくなるような数字が目に入る。未開封メール1456件、未読ライン1096件。なるほど、これは斬新な時間経過の確認方法だ。
さて、母との会話の内容だが、如何に元の世界が素晴らしいかについて話すことにした。何かの素晴らしさをプレゼンする時、比較するものがあればより説得力が増す。当然比較材料は留置場の世界だ。まずは目に入る景色が違う。留置場は容量制限された世界の為かモノトーン基調であるが、こっちの世界は色彩制限がなく実にバラエティに富んでいる。それとあちらの世界は地平線を見ることなどできない。視界制限5メートルの世界だ。それと食事も重大な違いだ。異世界には食事の種類が圧倒的に少ないなど欠点も大いにある。巷では異世界ブームが巻き起こっているみたいだがこれだけは念頭に置いておいてほしい。異世界が素晴らしいなんて保証はどこにもないのだ。異世界転移を考えている諸君はそのへんをよく念頭においてほしい。
実家に戻った時には夕日が差し始めた。幼いころから慣れ親しんだが、同時に嫌な記憶も植え付けられた場所。私はこの気持ちに折り合いをつけ、家族と正常な関係になるための努めをしなければならない。いや、し続けねばならないのかもしれない。そのためには今回のことを伝えなければならなかった。兄弟に話すかどうかは別として親には必ず。
夕食と2日ぶりの風呂を済ませた後、声をかけるタイミングを伺っていた。結局どちらから話し始めた覚えていないが言葉を選びながらぽつりぽつりと事情の説明をしていった。事件は2つある上、そこに至った経緯が単純ではなかったためかいつまんで説明する形となったが、私がため込んでいた幼少期からの思いは吐露できたように思う。だが、事件詳細に関してはまだ言いにくい事もあるだろうと親が気遣ってくれたことを口実に話すことを躊躇してしまった。やはり私の精神的な問題と口下手という事実を鑑みるに口頭で伝えるには限界がある。話をする機会はこの一夜限りではないので、少しずつ歩みを進めよう。物事は一日にして成らずなのだ。
この事件関連で親に叱られるようなことはなかった。今の自分を叱る意味は薄いと悟ったのかもしれない。また同時に幼少期から何を感じて過ごしてきたのかを聞いた戸惑いも感じていたのであろう。客観的に考えて私は非常に恵まれた立場にいるし、私が煮え切らない思いを抱き続けていたことは考えにくい事だ。私自身その思いを表に出さないように自制していたから余計に。親からは繰り返しになるが被害者のことを第一に考えることを考えながら、自分自身を追い詰め過ぎずにこれからを過ごしてほしいと説諭を受けた。話が終わった後私は黙考し、魂に刻むようにそのことを繰り返し唱えた。
寝室にはベッドと机が用意されている。今から私は子供部屋某の仲間入りだ。しかし差別的な用語だとは思わないだろうか。望んでそうなったわけではない人が世の中にはたくさんいるのだ。無論私には酌むべき事情がないがね。だから盛大に罵ってくれても大丈夫だ。それで気持ちが晴れるならいいことだ。ただしくれぐれも私以外には言わないであげてほしい。今日は実に72日ぶりに顎の痛みを感じることなく眠りに就くことができた。
保釈された後真っ先に取り組んだのは引っ越し荷物の整頓である。今まで住んでいた家は親が引き払い実家に身を寄せることになったため引っ越し荷物はそのままだった。大型家電もあるのでさぞ大変なことだっただろう。裁判準備も必要だがまずは取っ掛かり易いことから始めようと思ったわけだ。これからのことは未定だが当面は一人暮らしをする予定がない。世帯暮らしに戻るためいくつか不用品も出てくるだろうが、ここにあるのは私が厳選に厳選を重ねて生き残った品物だ。だからこそ捨てるものなどほとんどないだろう。これは卒業祝いの品、後輩からの色紙、今や電子データで閲覧可能な説明書、蓋を紛失して入れ物の役割を果たさないプラスチックケース、使うかもしれないと思い続けて10年使ってないファイル……なんだ、要らないものばかりじゃないか。段ボールをひっくり返し雑貨を手にとっては選別し、書類を手にしては内容の確認を行い、スマートフォンを手にしては動画を見て、懐かしい遊び道具を手にしては虚しく一人遊びをする。なかなか作業が進まないのは何故だろう。一日中荷物整理をしてもだれるだけだ。そういえば留置場で中学生にも劣る漢字能力を発揮してしまったことだし勉強をし直そう。そう思い立った私はとりあえず漢検4級の参考書を購入し巻頭の頻出ベストなるものを解いてみることにした。書き取りの正答率78%。対義語・類義語17%。四字熟語42%。これは酷い。
――この回答を作ったのは誰だあっ。長年漢字を書いていたかいなかったか以前の問題だ。こやつには日本人を名乗る資格がない。
――そうだそうだ。もっと言ってやれ。エア海原さんの言うとおりだ。全くこの子ときたらホントに困ったもんですよ。
よし、架空のキャラクターに同調することで何とか自分の失態を他人事にして心を保てたぞ。それはそうとして一般教養レベルにたる知識を得るのにどのくらいの時間を要するのだろう。いっそのこと全ての一般教養がまとまっている本とか指針はないのかしら……。
――こら、いけませんよ。また楽しようと考えて、千里の道も一歩からですよ。仮にそんな教材があったとして一体何ページになると思っているんですか。あなたにできることはせめて高校程度の内容を復習して、それに加えて保険に税金、医療、法律等この国の制度に加えて時事問題にも気を配ることです。あと流行にもちゃんと目を向けないといけませんよ。文化を知れば一般的な方々が何に興味を示しているのか知るきっかけになりますから。あらゆる視点から物事を考えて少しでも本質に近づくことが大切なのです。あとは……。
――すみませんでした。私が悪うございました。人生は1点1点積み重ねるしかございません。スリーポイントも満塁本塁打も無いということはわかりました。
――そんなに追い込むようなこと言うんじゃないよ。学びて時に之を習う亦説ばしからずやだよ。学びが苦痛になったら意味が無いでしょう。
全く、忙しない奴らだ。どんどん脳内キャラクターが増えていく。これでは私の入り込む余地がないではないか。
働きもせず荷ほどきに勉強と世間から冷たい目線を向けられるかもしれないが、これだって社会復帰の一環なのだ。そもそも裁判すらしていないのだから就職活動などできるはずもない。できることと言ったら履歴書と職務経歴書を予め作っておいて求人広告を虚しく眺めるだけだ。働きに出られるのはいつだろう。決して働きたいわけではないが強迫観念が凄まじい。無収入であるという事実だけで胃が痛くなる妄想に駆られる。だが、そんな状況でもお構いなしなのが社会保険料と税金の支払いだ。働いていないのにきっちりと徴収してくるんだもの。ちゃんと運用してくれれば文句は言わないのだが……。どんどん嫌な思考が広がっていく。
さて、そろそろ裁判の準備をしておこう。裁判関連の予定だが、まず初公判1週間前に清木先生と予行練習をすることになっている。練習を効率的に行うためには予習が有効だ。そのためそれまでに裁判の流れや判例などを頭に入れておくことにした。流れについては冒頭手続が行われた後証拠調べ手続、弁論手続を経て判決の宣告となるようだ。簡単に言ってしまえば冒頭手続で裁判の争点を明らかにし、証拠調べ手続で検察側と弁護側双方が意見の正当性を主張し、弁論手続で被告人に対し双方妥当だと考えられる処遇を判事に述べる。被告人の出番は主に冒頭手続時の本人確認と証拠調べにおける被告人質問、後は弁論手続時の最終陳述の計3回だ。この中で最も重要なのは被告人質問であり、ここで事件に対する内容の質問や反省の有無などの質問を弁護士、検察官、裁判官からされる。そのため私の運命はここを誠実に乗り切れるかどうかにかかっているというわけだ。私の場合は自白しているため、起訴事実に対する争いはせずに刑の重さを争点とすることになる。そのため罪への向き合い方や被害者への反省の気持ち、再犯しないためにこれからどのように考えていくのかといったことが刑を決める上で重要になるだろう。
ひとまずウェブサイトでわかるのは上記のことであった。これまでの情報から事件当時の状況や思いなどを再度洗い直しておくことが被告人質問への準備として有効であると考えた私は、事件に関わる事を思い出せる限り書き出していくことにした。そのため保釈後は荷ほどきと勉強、これまでの経緯の書き出しの3つを中心として過ごすことになった。
両親とは社会復帰の方法に関して話し合ったりしていた。再犯防止のためにも一度精神科で診てもらいたいということや、再就職先は今の職業を離れて農業の仕事を考えている旨伝えた。すっかり真冬のタンポポ信者になり果てていた私は、精神科のカウンセリングを受けて自分自身をアップデートしたいと思っていた。あとは人の不安と不幸を餌に社会保険料を貪っている上苦手な女性だらけの医療業界にこれ以上居たくなかった。加えて医療行為に関してはしばしばその正当性について思い悩むことがあった。頭も身体も衰え続けるのに長生きさせることが本当に人の幸福なのか、効果が出る保証のない薬を飲ませ続けることが正しいのか、医療そのものが逆に精神依存症患者を作り出しているのではないか、何よりも受診者が多すぎてライン作業のように患者さんを捌かなければならないことが悩みの種だった。病院にかかるまでもない患者にはその対応で構わないが、本当に困っている人が医療現場の忙しさを理由に遠慮したり、おざなりな扱いを受けている場面を見せつけられる度やり切れない気持ちになった。私はこのような考えに対する回答を10年近く出せないでいる。そんな自分は医療者に向いていなかったのだと考えた。それに比べると農業はそのような疑問を抱くまでもなく生きるために必要なものだと妄信できる。人の営みには必須な上、農家も減ってきているようだし需要もある。
だが両親や幼いころから世話になっている方からは次のように諭された。そのような職に貴賤があるという考えそのものが私の権力欲や傲慢さの現れではないのか。気持ちがわからないでもないけど医療で幸せになっている人も多くいるはずだから早急に答えを出す必要はないと。自分の考えに固執するのは視野狭窄であると。そう言われて再び自覚するのだ。独りよがりで権威主義的な私に付き纏う深淵を。職種を変えるにしても相応の準備が必要だ。正規の職に就く前に繋ぎでアルバイトやパートとして医療業界で働くのも一考すべきである。
初公判1週間前、法律事務所に足を運んでいた。清木先生から予行演習は1時間程度と聞いている。証人として法廷に立つように依頼を受けている母も一緒だ。私はマスクをして帽子を深く被りいかにも不審者であるような出で立ちだ。実家は事件現場から遠く離れているから問題ないのだが、この近辺では顔を隠す必要がある。ある人達には私の顔を見るだけで嫌な記憶を思い起こさせてしまうかもしれないためだ。周りに無用なストレスを与えうるため犯罪者は堂々と顔を出してはいけないのだ。そのため報道番組で撮影されている犯人は下を向いているべきだと思う。たとえ刑が確定していなくてもそれは同じだ。まして薄ら笑いなどしていたら被害関係者には堪ったものではないだろう。残念なことだが想像力に乏しい私は犯罪を起こさなければこのような考えには至れなかった。
この日は予め予約を取っていたため受付を済ませるとすぐに先生が顔を出し接客室に案内された。最初はお互いに近況報告から入る。こちらは保釈後の生活状況を、先生は起訴の状況や示談に関する内容を伝えた。示談に関しては無事に支払いが済み、これで相手方も納得したとのことだった。追起訴に関してはあくまで検察側の判断であるため追起訴の可能性はゼロではないと先生から伝えられた。もっともこの状況で追起訴されるとは考えにくいそうだが。それはともかく示談が済んで1つ肩の荷が下りた。示談に応じてくれた先生の慈悲深さに痛み入る思いだ。
続いて本日の本題である裁判の話に移った。まず先生から裁判の全体的な流れが説明される。ウェブサイトの一部ページをプリントアウトされた書類が手渡された。自分もインターネットで調べていたため見覚えのある絵だ。そのまま説明を聞いていたが、同じものを事前に見ていたことにはあえて触れず、さも初心者丸出しの風体をとる。知ったかぶりをすると心証を悪くして重要な情報を伝えてもらえないかもしれないし、そもそも齧ったばかりの知識を披露するのは滑稽だろう。特にそれはプロ目線で見れば一笑に付すような行いだ。そして重大な機会損失を生む。私自身仕事でプロの立場から幾度となく味わってきたことだ。そうして話を聞いていると案の定私が見落としていた内容が出てきた。やはり人間は謙虚が一番だ。
先生の話によると今回の裁判はいくつかの処置を簡略化して行うことになるため、全体で1時間程度だそうだ。その中で証人尋問と被告人質問が各々10分程度ということで、本日はその部分を中心に練習するということになった。どちらも弁護人から質問をしてその質問内容に回答をするという形式だ。証人尋問では被告人との関係や被告人に対する今後のサポートをどのように考えているか、保釈期間中に家族で話し合ったことを質問するそうだ。母は大して口ごもることもなく回答していた。当然でっち上げなどではなく両親と話し合った内容を踏まえた思慮深く思える答えだ。先生の反応も上々といった感じで、本番もその調子でやれば問題ないと太鼓判が押された。
被告人質問は謝罪の気持ちや事件を起こした理由、再犯防止で心がけること、社会復帰をどのようにして果たすつもりなのかといった内容であった。当然ながら被告人の方が多くの質問をされる。一応逮捕されてから考えていた内容ではあったため答えられない問いはなかった。自分の考えに似つかわしいと思われる言葉遣いを考えながら話したため覚束ないような感覚だったが、先生は本番も練習通りなら問題ないだろうと仰った。
これで予行練習は済んだのだが、検察から裁判で証拠品として取り上げる書類が送られてきたようなので、私にはこの場で確認してもらいたいそうだ。第三者には見せられない物なので母親はここで退室した。証拠品は無条件に採用されるわけではなく、一点一点採用するか否かを法廷で決める。その際被告側は提示される証拠品に対し同意か不同意を述べることができる。刑事裁判には伝聞法則という原則があり、書類は相手方の同意がなければ原則として証拠とすることができないらしい。そのため不同意の場合は検察が証人を連れてきて証人尋問を行うことが多いそうだ。証拠品には乙号証と甲号証があり、乙号証は被告人の供述調書や身上関係書類など被告に関わる証拠で甲号証はそれ以外の物である。乙号証は警察や検察との取り調べで何回か確認しているため問題ない。そのため甲号証を入念にチェックする。甲号証には市内の監視カメラの映像や被害者の供述調書が含まれていた。映像証拠に関しては全く争う所がないため被害者証言を基とした供述調書に目を通す。供述調書とはいえ被害者とのやり取りは逮捕後初めてのことである。供述調書には被害者の戸惑い、今回のことで受けた精神的苦痛、私への処罰感情が克明に記されていた。示談の連絡さえ受け付けないという態度から十分予想できていたが、再確認すると辛いものがあった。明らかに厳罰を望んでいるのだがこの供述調書を採用しようではないか。AA12ステップの9番「その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。」、裁判はこの被害者に直接埋め合わせをする最後の機会かもしれない。厳罰を望んでいるならこの書類を採用することで埋め合わせをしようではないか。他の証拠品も事実に反することはなかったため全て同意することにした。
以上で初公判前最後の顔合わせは終了した。今後やるべき事はできる限り被告人質問の準備をしておくことだ。動機や犯行の重大性において情状酌量はないということは私も理解している。そのため私の態度と考え方により情状酌量を求めるしかない。目指すは執行猶予の獲得である。
裁判までの1週間は基本的に被告人質問の想定問答を考える時間に費やした。質問内容は焦点を絞るため一問一答形式で行われる。そのため長く要領を得ない回答は避けなければならない。議員は10秒で答えられる質問を何倍にも引き延ばすスキルを求められるが、それとは真逆ということだ。それを踏まえ以下の想定問答を準備した。
①被害者への謝罪の気持ちはありますか。
――はい。私の身勝手な行いにより被害者の方のみならず、その周りの方や世間の方々に対しても大きな苦痛と不安を与えてしまったことを申し訳なく思っています。特に被害者に関しては、普段ならば安心できる場所であるはずの自宅に対し強い不安感を抱かせてしまい取り返しのつかないことをしてしまったと思います。
②他に思っていることはありますか。
――今回被害者に与えてしまった苦痛は、耐えがたくまた忘れられないようなことだと思います。本当に申し訳ないと思います。
③被害弁償について考えていることはありますか。
――弁償に関しては、現在示談交渉できていない状況です。ただし、私自身はいつでも今回与えてしまった被害の埋め合わせをしたいと思っています。
④具体的な弁償方法を考えていますか?
――加害者の私からその方法を提示することは僭越かと考えています。仮に条件が提示された際にはできる限り償いたいです。
⑤今回の事件を起こした原因は。
――仕事や将来に対する不安を募らせた結果、今回逮捕に至るような行為によりストレスを発散したいと考えたからです。
⑥ストレスとは具体的にどのようなことでしょうか。
――仕事に関することをお話しすると職場の守秘義務に反する可能性があるため控えさせていただきます。将来の不安に関しては、所得がこれ以上上がらないのではないかという漠然とした不安や社会情勢を考えた時にどうしても希望を見出すことができずに、ずっと下り坂にいるような不安を感じていたことです。
⑦ストレス発散の努力はしましたか。
――仕事では業務改善をしようと効率的に仕事が行えるように自身の働き方を変えたり、上司と問題点の共有などしました。プライベートでは趣味に打ち込むことで気を紛らわせようとしました。
⑧今後同じことを繰り返さないために考えていることは。
――今まではストレスに関して誰にも相談せずに1人で解消しようとしていましたが、私は強い人間ではないためこれからは家族やカウンセラーの方たちの力を借りながらストレスに向き合っていこうと思います。
⑨それだけでは不十分だと思いますが。
――今回のことを受けて、私のどのような性格が根源となり今回の事件を招いてしまったのか考えました。反省の一環で幼少期を振り返った時、私はずっと他人から下に見られたくないと感じていることに気が付きました。今にして思えばこの欲求を満たされないことがストレスの大きな原因であったと思います。これからはそのような性格を直すことも併せてストレスと向き合うつもりです。
➉今後の社会復帰をどのように考えていますか。
――私は前科があるという立場になると思うので、そのような立場の人に対する就職支援サービスを活用しながら職を探したいと思います。
⑪希望の職はありますか。
――前職の経験が活かせるような職を中心に考えています。前職の同業者で、私の現状を理解していらっしゃる方からも受け入れると提案していただいています。
以上の内容を頭に叩きこんで空で言えるようにしておいた。職業希望に関してはまだ決めかねていたが、同業者で手を差し伸べてくださる方がいるのは事実であったためこのような回答をするつもりだ。両親にも添削してもらいそのことには了承を得ている。後は出たとこ勝負、精一杯の努力はしたつもりだ。人生希望通りには事が運ばないことも多いが、自分にだって味方になってくれる人がいる。だからどう転んだとしても、かつてのように自分を見失うことが無いように決意を固めた。
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