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第五章
灰色の凱旋
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『正義とは、勝者が後から己の都合の良いように作り上げる、ただの物語に過ぎんよ』
ダリアのその言葉を最後に、健介の脳内は静寂に包まれた。だが、彼女の言葉は、まるで重い鐘の残響のように、健介の思考の中でいつまでも鳴り響いていた。勝者と敗者。ただそれだけだ、と彼女は言った。では、自分は一体どちらなのだろうか。
謹慎を命じられてから、ちょうど一週間が経った日の午後。
鳴らないと思っていたスマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。表示されたのは、会社の人事部長の名前。健介は、ついに来たか、と覚悟を決め、震える指で通話ボタンを押した。
「……小林です」
『人事の鈴木だ。明日、朝一番で会社に来てくれたまえ。君の処遇について、最終的な決定を伝える』
用件のみを告げる、事務的な声。健介は「わかりました」とだけ答え、通話を終えた。
審判の時が、来た。
その夜、健介は妻の美奈子に「明日、会社に呼ばれた」とだけ伝えた。美奈子は何も言わず、ただこわばった顔で頷いただけだった。
翌朝、健介はクローゼットの奥から、一番良いスーツを取り出した。まるで、これから処刑台にでも向かう罪人のような気分だったが、せめて最後は、みっともない姿でいたくなかった。
会社の門をくぐる健介の足は、鉛のように重かった。
オフィスに入ると、数人の同僚が、驚いたように、しかしどこか安堵したような複雑な表情で彼に小さく会釈した。その視線が、以前のような侮蔑や無関心ではないことに、健介は戸惑った。
自分の席に着く前に、人事部長が彼を手招きした。
通された会議室で、人事部長は心底疲れた顔で、一枚の書類をテーブルに置いた。
「結論から言うと、君の謹慎処分は本日をもって解除とする。明日から、通常通り出勤してくれたまえ」
「え……」
健介は、自分の耳を疑った。クビではないのか?
「君の行動は褒められたものではない。だが、多くの同僚が、君のために証言してくれた。高橋部長による度重なるパワーハラスメントの事実が、会社としても看過できぬレベルだと判断されたからだ」
人事部長は、調査報告書の束を健介の前に置いた。そこには、健介が知らなかった数々の事実が記されていた。
「まず、君が殴ったあの日、高橋部長が君の企画書を『読書感想文』と罵倒したという事実。これは多くの者が認めるところだ。それに加え、今回の調査で、これまでの君の成果物の多くが、彼の名前で不正に提出されていたという事実も発覚した。君が深夜まで残って作成した数々の資料が、彼の功績として報告されていたそうだ」
健介は、呆然と書類の文字を追った。自分が孤独だと思っていた戦場で、実は、同じように彼の仕事を見て、彼の苦しみを知っていた仲間がいた。そして、自分の理不尽な暴力が、彼らの声を代弁するきっかけになってしまった。
「なお、高橋部長は、本日付で懲戒解雇となった。君が、彼の最後の被害者ということになるな」
人事部長は、最後にそう付け加えると、疲れたように目を閉じた。
健介は、何も言えなかった。
自分が、勝った? いや、違う。勝ったのは、ダリアの理不尽な暴力と、これまで虐げられてきた同僚たちの、小さな勇気だった。
『フン。我からすれば、随分と回りくどいやり方じゃが……まあ、結果は同じことか』
ダリアが、どこか面白そうに呟く。
健介は、会議室を出た。
自分のデスクに戻るまでの短い廊下を歩きながら、彼は考えていた。
自分は、明日から、どんな顔をしてここにいればいいのだろう。
灰色の戦場に、彼は凱旋した。その勝利は、暴力での解決という、決して彼の望んだ形ではなかった。
(これも、ダリアの言う『勝者が後から己の都合の良いように作り上げる、ただの物語』なのだろうか……)
だが、長年よどんでいたオフィスの空気が、確かに変わったのを肌で感じていた。それは、ほんの少しだけ、彼の心を軽くした。
その夜、健介は少しだけ軽くなった心と、まだ晴れない複雑な思いを抱えて、家のドアを開けた。
「ただいま」
リビングでは、妻の美奈子がアイロンをかけており、娘の遥はソファでスマートフォンをいじっていた。健介の帰宅に、二人がびくりと体をこわばらせるのが分かった。この一週間、家の中に漂っていた緊張感が、まだ解けていない。
「……おかえりなさい。会社は……どうだったの?」
美奈子が、アイロンを置かず、背中を向けたまま尋ねた。その声は、不安と警戒心で張り詰めていた。
「処分が決まった。一週間の謹慎は、今日までだ。明日から、また出社することになった」
健介がそう告げると、美奈子の動きが止まった。彼女はゆっくりと振り返る。その目には、驚きと、そして、ようやく浮かんだ安堵の色があった。
「……そう。クビには、ならなかったのね……。よかった……」
遥も、スマートフォンから顔を上げ、父親のことを見ていた。
「高橋部長は……会社を辞めることになったそうだ」
健介がそう付け加えると、美奈子はただ「そう…」とだけ呟き、またアイロンがけに戻った。だが、その背中からは、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだのが分かった。
家族の間にできた深い溝が、すぐに埋まるわけではない。だが、健介がクビになるという最悪の事態が回避されたことで、家の重苦しい空気は、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、和らいだように感じられた。
ダリアのその言葉を最後に、健介の脳内は静寂に包まれた。だが、彼女の言葉は、まるで重い鐘の残響のように、健介の思考の中でいつまでも鳴り響いていた。勝者と敗者。ただそれだけだ、と彼女は言った。では、自分は一体どちらなのだろうか。
謹慎を命じられてから、ちょうど一週間が経った日の午後。
鳴らないと思っていたスマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。表示されたのは、会社の人事部長の名前。健介は、ついに来たか、と覚悟を決め、震える指で通話ボタンを押した。
「……小林です」
『人事の鈴木だ。明日、朝一番で会社に来てくれたまえ。君の処遇について、最終的な決定を伝える』
用件のみを告げる、事務的な声。健介は「わかりました」とだけ答え、通話を終えた。
審判の時が、来た。
その夜、健介は妻の美奈子に「明日、会社に呼ばれた」とだけ伝えた。美奈子は何も言わず、ただこわばった顔で頷いただけだった。
翌朝、健介はクローゼットの奥から、一番良いスーツを取り出した。まるで、これから処刑台にでも向かう罪人のような気分だったが、せめて最後は、みっともない姿でいたくなかった。
会社の門をくぐる健介の足は、鉛のように重かった。
オフィスに入ると、数人の同僚が、驚いたように、しかしどこか安堵したような複雑な表情で彼に小さく会釈した。その視線が、以前のような侮蔑や無関心ではないことに、健介は戸惑った。
自分の席に着く前に、人事部長が彼を手招きした。
通された会議室で、人事部長は心底疲れた顔で、一枚の書類をテーブルに置いた。
「結論から言うと、君の謹慎処分は本日をもって解除とする。明日から、通常通り出勤してくれたまえ」
「え……」
健介は、自分の耳を疑った。クビではないのか?
「君の行動は褒められたものではない。だが、多くの同僚が、君のために証言してくれた。高橋部長による度重なるパワーハラスメントの事実が、会社としても看過できぬレベルだと判断されたからだ」
人事部長は、調査報告書の束を健介の前に置いた。そこには、健介が知らなかった数々の事実が記されていた。
「まず、君が殴ったあの日、高橋部長が君の企画書を『読書感想文』と罵倒したという事実。これは多くの者が認めるところだ。それに加え、今回の調査で、これまでの君の成果物の多くが、彼の名前で不正に提出されていたという事実も発覚した。君が深夜まで残って作成した数々の資料が、彼の功績として報告されていたそうだ」
健介は、呆然と書類の文字を追った。自分が孤独だと思っていた戦場で、実は、同じように彼の仕事を見て、彼の苦しみを知っていた仲間がいた。そして、自分の理不尽な暴力が、彼らの声を代弁するきっかけになってしまった。
「なお、高橋部長は、本日付で懲戒解雇となった。君が、彼の最後の被害者ということになるな」
人事部長は、最後にそう付け加えると、疲れたように目を閉じた。
健介は、何も言えなかった。
自分が、勝った? いや、違う。勝ったのは、ダリアの理不尽な暴力と、これまで虐げられてきた同僚たちの、小さな勇気だった。
『フン。我からすれば、随分と回りくどいやり方じゃが……まあ、結果は同じことか』
ダリアが、どこか面白そうに呟く。
健介は、会議室を出た。
自分のデスクに戻るまでの短い廊下を歩きながら、彼は考えていた。
自分は、明日から、どんな顔をしてここにいればいいのだろう。
灰色の戦場に、彼は凱旋した。その勝利は、暴力での解決という、決して彼の望んだ形ではなかった。
(これも、ダリアの言う『勝者が後から己の都合の良いように作り上げる、ただの物語』なのだろうか……)
だが、長年よどんでいたオフィスの空気が、確かに変わったのを肌で感じていた。それは、ほんの少しだけ、彼の心を軽くした。
その夜、健介は少しだけ軽くなった心と、まだ晴れない複雑な思いを抱えて、家のドアを開けた。
「ただいま」
リビングでは、妻の美奈子がアイロンをかけており、娘の遥はソファでスマートフォンをいじっていた。健介の帰宅に、二人がびくりと体をこわばらせるのが分かった。この一週間、家の中に漂っていた緊張感が、まだ解けていない。
「……おかえりなさい。会社は……どうだったの?」
美奈子が、アイロンを置かず、背中を向けたまま尋ねた。その声は、不安と警戒心で張り詰めていた。
「処分が決まった。一週間の謹慎は、今日までだ。明日から、また出社することになった」
健介がそう告げると、美奈子の動きが止まった。彼女はゆっくりと振り返る。その目には、驚きと、そして、ようやく浮かんだ安堵の色があった。
「……そう。クビには、ならなかったのね……。よかった……」
遥も、スマートフォンから顔を上げ、父親のことを見ていた。
「高橋部長は……会社を辞めることになったそうだ」
健介がそう付け加えると、美奈子はただ「そう…」とだけ呟き、またアイロンがけに戻った。だが、その背中からは、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだのが分かった。
家族の間にできた深い溝が、すぐに埋まるわけではない。だが、健介がクビになるという最悪の事態が回避されたことで、家の重苦しい空気は、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、和らいだように感じられた。
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