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第四章
異質な理(ことわり)
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謹慎生活も、四日目を迎えていた。
健介は、書斎の小さな窓から、ぼんやりと外を眺めていた。妻と娘を送り出した後の、静寂に支配された家。その静けさが、かえって健介の孤独と罪悪感を際立たせる。会社からの連絡は、まだない。
その時だった。
家の前の道を、一台の白いワゴン車が、何かを大音量でがなり立てながらゆっくりと通り過ぎていった。
『――である、鈴木一郎に、皆様の清き一票を! この市を変えるのは、私、鈴木一郎です!』
けたたましい音声に、健介は顔をしかめた。選挙カーだ。ちょうど今、市長選の選挙期間中なのだろう。やかましい季節がやってきたな、と彼はうんざりした。
『……ケンスケ、あれは何だ?』
脳内に、ダリアの純粋な疑問の声が響いた。
『あの鉄の箱は、なぜあのようにやかましく騒ぎ立てながら進んでおるのだ。何かの儀式か? それとも、敵に対する威嚇か?』
「……選挙、というものだ」
健介は、力なく呟いた。
「この街の、上に立つ者を決めるための……まあ、演説、みたいなものだ」
『上に立つ者、だと?』
ダリアの声に、興味の色が浮かぶ。
『ほう、あの箱に乗っている「スズキイチロウ」とやらは、よほどの大物なのか。あれほどの騒音を立てて己の存在を誇示するからには、さぞかし強大な力を持っておるのだろうな』
その言葉に、健介は思わず乾いた笑いを漏らした。
「いや……たぶん、力なんてないさ。普通の、おじさんだよ」
『……何?』
ダリアの声が、一瞬、固まった。
『力のない者が、どうやって上に立つというのだ。意味が分からん。では、何をもって、そ奴は選ばれる?』
「……約束、かな。ああやって、俺たちの生活を良くするとか、街の問題を解決するとか、色々な約束をするんだ。俺たちは、その約束を聞いて、一番うまくやってくれそうな人を選ぶ。そして、その人に俺たちの代わりに物事を決める力を『預ける』んだ。……建前上は、な」
健介は、自分でも何を説明しているのか、よく分からなくなってきた。
数秒の沈黙の後、ダリアは、何かを分析するように、静かに言った。
『……預ける、だと? なるほどな』
その声には、これまでの侮蔑とは少し違う、冷徹な響きがあった。
『つまり、この地の統治者は、力で民を従わせるのではなく、民から力を「借り受ける」ということか。自らの非力を「約束」という甘言で糊塗し、民に媚びへつらって、その力を乞い願う……。歪な、実に歪な仕組みよ』
彼女は、健介の説明から、この世界の政治システムの構造を正確に、しかし彼女自身の価値観を通して理解していた。
『我の世界では、強者が弱者を庇護する。それが統治の理じゃ。力ある者がその力を以て民を守り、民は力ある者に忠誠を誓う。実に単純明快な、揺るぎない契約よ。だが、お主らの世界では、弱者が集い、その脆弱な力を束ねて、一人の者に押し付けるのか。そして、その選ばれた者もまた、力なき者……。ふん、愚かなことよ。真の力を持つ者がおれば、そのような脆弱な盟約、一夜にして覆されるというのに』
ダリアの言葉は、健介がこれまで当たり前だと思っていた民主主義というシステムの、根源的な脆さを指摘していた。
『……道理で。お主が、あの程度の小物に長年、虐げられてきたわけじゃ。この世界では、力を示すことは悪とされるのか?』
その言葉は、健介の胸に深く突き刺さった。
ダリアの言葉は、傲慢で、理不尽だ。だが、その言葉が、健介がずっと目を背けてきた、この社会の、そして自分自身の弱さの核心を、容赦なく抉り出しているようにも思えた。
健介は、しばらく何も言い返せなかったが、やがて通り過ぎていく選挙カーの空虚なスローガンから目を離すと、静かに、しかしはっきりとした声で、脳内の同居人に語りかけた。
「……ああ、そうだ。理由のない、単なる暴力は、ここでは悪とされる」
健介は、窓の外の灰色の空を見上げながら続けた。
「だけど……矛盾しているんだ。この世界にも、戦争はある。国と国とが、お互いの『正義』を振りかざして、大勢で殺し合う。その時の暴力は、悪ではなく、時には英雄的な行為として語られることさえある」
健介の言葉に、ダリアが黙っているのを、彼は感じた。
「あんたの世界も、そうなのか? 圧倒的な力で敵を討ち滅ぼす……それは、あんたたちの世界では『正義』なのか?」
初めて、健介がダリアに問い返した瞬間だった。
数秒の沈黙の後、ダリアは、どこか面白がるような、それでいてやはり、全てを見下しているような声で答えた。
『……正義、か。面白いことを言うな、ケンスケ。我らの戦いに、そのような甘っちょろい言葉はないわ。あるのは、勝者と敗者。ただそれだけだ』
彼女は、ふ、と息を漏らした。
『正義とは、勝者が後から己の都合の良いように作り上げる、ただの物語に過ぎんよ』
健介は、書斎の小さな窓から、ぼんやりと外を眺めていた。妻と娘を送り出した後の、静寂に支配された家。その静けさが、かえって健介の孤独と罪悪感を際立たせる。会社からの連絡は、まだない。
その時だった。
家の前の道を、一台の白いワゴン車が、何かを大音量でがなり立てながらゆっくりと通り過ぎていった。
『――である、鈴木一郎に、皆様の清き一票を! この市を変えるのは、私、鈴木一郎です!』
けたたましい音声に、健介は顔をしかめた。選挙カーだ。ちょうど今、市長選の選挙期間中なのだろう。やかましい季節がやってきたな、と彼はうんざりした。
『……ケンスケ、あれは何だ?』
脳内に、ダリアの純粋な疑問の声が響いた。
『あの鉄の箱は、なぜあのようにやかましく騒ぎ立てながら進んでおるのだ。何かの儀式か? それとも、敵に対する威嚇か?』
「……選挙、というものだ」
健介は、力なく呟いた。
「この街の、上に立つ者を決めるための……まあ、演説、みたいなものだ」
『上に立つ者、だと?』
ダリアの声に、興味の色が浮かぶ。
『ほう、あの箱に乗っている「スズキイチロウ」とやらは、よほどの大物なのか。あれほどの騒音を立てて己の存在を誇示するからには、さぞかし強大な力を持っておるのだろうな』
その言葉に、健介は思わず乾いた笑いを漏らした。
「いや……たぶん、力なんてないさ。普通の、おじさんだよ」
『……何?』
ダリアの声が、一瞬、固まった。
『力のない者が、どうやって上に立つというのだ。意味が分からん。では、何をもって、そ奴は選ばれる?』
「……約束、かな。ああやって、俺たちの生活を良くするとか、街の問題を解決するとか、色々な約束をするんだ。俺たちは、その約束を聞いて、一番うまくやってくれそうな人を選ぶ。そして、その人に俺たちの代わりに物事を決める力を『預ける』んだ。……建前上は、な」
健介は、自分でも何を説明しているのか、よく分からなくなってきた。
数秒の沈黙の後、ダリアは、何かを分析するように、静かに言った。
『……預ける、だと? なるほどな』
その声には、これまでの侮蔑とは少し違う、冷徹な響きがあった。
『つまり、この地の統治者は、力で民を従わせるのではなく、民から力を「借り受ける」ということか。自らの非力を「約束」という甘言で糊塗し、民に媚びへつらって、その力を乞い願う……。歪な、実に歪な仕組みよ』
彼女は、健介の説明から、この世界の政治システムの構造を正確に、しかし彼女自身の価値観を通して理解していた。
『我の世界では、強者が弱者を庇護する。それが統治の理じゃ。力ある者がその力を以て民を守り、民は力ある者に忠誠を誓う。実に単純明快な、揺るぎない契約よ。だが、お主らの世界では、弱者が集い、その脆弱な力を束ねて、一人の者に押し付けるのか。そして、その選ばれた者もまた、力なき者……。ふん、愚かなことよ。真の力を持つ者がおれば、そのような脆弱な盟約、一夜にして覆されるというのに』
ダリアの言葉は、健介がこれまで当たり前だと思っていた民主主義というシステムの、根源的な脆さを指摘していた。
『……道理で。お主が、あの程度の小物に長年、虐げられてきたわけじゃ。この世界では、力を示すことは悪とされるのか?』
その言葉は、健介の胸に深く突き刺さった。
ダリアの言葉は、傲慢で、理不尽だ。だが、その言葉が、健介がずっと目を背けてきた、この社会の、そして自分自身の弱さの核心を、容赦なく抉り出しているようにも思えた。
健介は、しばらく何も言い返せなかったが、やがて通り過ぎていく選挙カーの空虚なスローガンから目を離すと、静かに、しかしはっきりとした声で、脳内の同居人に語りかけた。
「……ああ、そうだ。理由のない、単なる暴力は、ここでは悪とされる」
健介は、窓の外の灰色の空を見上げながら続けた。
「だけど……矛盾しているんだ。この世界にも、戦争はある。国と国とが、お互いの『正義』を振りかざして、大勢で殺し合う。その時の暴力は、悪ではなく、時には英雄的な行為として語られることさえある」
健介の言葉に、ダリアが黙っているのを、彼は感じた。
「あんたの世界も、そうなのか? 圧倒的な力で敵を討ち滅ぼす……それは、あんたたちの世界では『正義』なのか?」
初めて、健介がダリアに問い返した瞬間だった。
数秒の沈黙の後、ダリアは、どこか面白がるような、それでいてやはり、全てを見下しているような声で答えた。
『……正義、か。面白いことを言うな、ケンスケ。我らの戦いに、そのような甘っちょろい言葉はないわ。あるのは、勝者と敗者。ただそれだけだ』
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