10 / 23
第六章
淀む空気、静かな異変
しおりを挟む
会社に復帰してから、数日が過ぎた。
健介を巡るオフィス内の空気は、劇的に変わっていた。誰も、高橋部長の件を口にはしない。だが、同僚たちが健介に向ける視線には、以前のような無関心や侮蔑の色は消え、代わりに、静かな尊敬と、ある種の連帯感のようなものが宿っていた。
後輩の渡辺は、あれ以来、自分の仕事は自分で片付けるようになり、健介に会うたびに「小林さん、お疲れ様です!」と、以前とは比べ物にならないほど、はきはきとした挨拶をするようになった。ある時は、女性の同僚が「この前の件、ありがとうございました」と、小さな声で、しかし真剣な眼差しでお礼を言ってきた。長年、重くよどんでいたオフィスの空気が、まるで嵐が過ぎ去った後のように、澄み渡っている。高橋部長という理不尽な重しがなくなったことで、無意味な残業も自然と減っていた。
しかし、その職場の小さな好転とは裏腹に、健介は帰り道の風景に、奇妙な違和感を覚え始めていた。
最初は、気のせいだと思っていた。電車を待つホームで、些細なことで乗客同士が掴み合い寸前の口論になっている。クラクションを不必要に鳴らし続け、怒鳴り合うドライバーたち。
(夏だから、みんなイライラしているのか……)
そう自分に言い聞かせた。だが、日に日にその光景は増えていくように思えた。街全体が、まるで微熱を帯びたように、ピリピリとした焦燥感に包まれている。
『……ケンスケ』
その時、ダリアが脳内に警告を発した。
『この地の空気が、淀んでおる。我の同胞の気配ではないが……不快な思念の揺らぎを感じるぞ。何かが仕掛けられておるやもしれん』
その言葉が、健介の胸に漠然とした不安の染みを作った。
その夜の食卓は、冷たい沈黙に支配されていた。
謹慎中という例外はあったが、健介がこうして当たり前に会社帰りに家族と食卓を囲むのは、実に数年ぶりのことだった。それなのに、空気は謹慎中と何も変わらず、重苦しい。
健介は、向かいに座る妻の美奈子に目をやった。パート仕事と家事に追われる彼女の目元には、うっすらと隈ができており、以前は艶やかだった髪も、少しだけ輝きを失っているように見えた。彼女は、ただ機械のようにおかずを口に運び、テレビのバラエティ番組に視線を固定している。その表情からは、何の感情も読み取れない。
娘の遥に至っては、健介と目を合わせようともしない。健介が何か話しかけても、彼女は「うん」「別に」と短い返事をするだけだった。
健介は、味噌汁を啜りながら、俯きがちに白米を口に運ぶ遥の姿を、何とはなしに見ていた。
(いつからだ……? いつから、あの子はあんな顔をするようになったんだろう)
これまで、自分は娘の何を見てきたのだろうか。仕事のストレスと、自分の無力感にばかり気を取られ、家族の本当の顔を見ていなかった。健介は、父親としての自分を、今更ながら恥じた。どう声をかければいいのか分からない。何を言っても、拒絶されるのが怖かった。
その時、遥がテーブルの上の醤油差しに手を伸ばした。羽織っていたカーディガンの袖が、わずかにずり上がる。
健介は、見てしまった。
遥の白い手首に、誰かの指で強く掴まれたかのような、赤黒い痣があるのを。
「……!」
遥は、健介の視線に気づくと、びくりと肩を震わせ、慌てて袖を元に戻して痣を隠した。そして、何も言わずに、再び食事を始めた。
見てはいけないものを見てしまったような、気まずい沈黙が流れる。美奈子は、二人の間のその緊張に気づいていないのか、あるいは気づいていながら、関わるのを避けているのか、テレビに視線を向けたままだった。
以前の健介なら、きっと気づかないふりをしただろう。面倒なことに関わりたくない、娘に踏み込んで拒絶されたくない、という保身が先に立ったはずだ。
だが、今の健介は違った。左腕の奥で、ダリアが宿した異質な熱が、彼の臆病な心を焼いていた。
夕食の後、家族は蜘蛛の子を散らすように、それぞれの部屋にこもった。健介は一人、リビングのソファに座り、ただ時間だけが過ぎていくのを待っていた。
午後九時。遥の部屋の方から、微かに、しゃくり上げるような声が聞こえた。泣いているのか?
直後、リビングのローテーブルに置きっぱなしになっていた彼女のスマートフォンが、ブブッ、と短く、しかし執拗に振動を繰り返す。メッセージの着信通知だ。健介は、見てはいけないと分かりながらも、その画面に目を奪われた。
『明日、無視したらわかってるよな?』
『マジきもいんだけど』
『金、用意しとけよ』
卑猥なスタンプと共に、脅迫的な文面がポップアップで次々と表示されては消えていく。
『あの小娘が泣いておるな』
ダリアの声が、静かに響く。
『ケンスケ、どうする? 我の世界では、庇護下の者が、己の縄張りで脅かされ涙を流すのは、長の恥ぞ』
その言葉が、健介の背中を押した。
恥。そうだ、これは、父親である自分の恥だ。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。軋む心臓を無視して、遥の部屋のドアの前に立つ。
コン、コン。
ノックをしても、返事はない。ただ、部屋の中から、嗚咽を殺す気配だけが伝わってくる。
「遥」
健介は、自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「父さんだ。少し、話せないか?」
ドアの向こうの沈黙が、まるで永遠のように感じられた。
健介は、逃げることなく、ただじっと、娘からの返事を待っていた。
健介を巡るオフィス内の空気は、劇的に変わっていた。誰も、高橋部長の件を口にはしない。だが、同僚たちが健介に向ける視線には、以前のような無関心や侮蔑の色は消え、代わりに、静かな尊敬と、ある種の連帯感のようなものが宿っていた。
後輩の渡辺は、あれ以来、自分の仕事は自分で片付けるようになり、健介に会うたびに「小林さん、お疲れ様です!」と、以前とは比べ物にならないほど、はきはきとした挨拶をするようになった。ある時は、女性の同僚が「この前の件、ありがとうございました」と、小さな声で、しかし真剣な眼差しでお礼を言ってきた。長年、重くよどんでいたオフィスの空気が、まるで嵐が過ぎ去った後のように、澄み渡っている。高橋部長という理不尽な重しがなくなったことで、無意味な残業も自然と減っていた。
しかし、その職場の小さな好転とは裏腹に、健介は帰り道の風景に、奇妙な違和感を覚え始めていた。
最初は、気のせいだと思っていた。電車を待つホームで、些細なことで乗客同士が掴み合い寸前の口論になっている。クラクションを不必要に鳴らし続け、怒鳴り合うドライバーたち。
(夏だから、みんなイライラしているのか……)
そう自分に言い聞かせた。だが、日に日にその光景は増えていくように思えた。街全体が、まるで微熱を帯びたように、ピリピリとした焦燥感に包まれている。
『……ケンスケ』
その時、ダリアが脳内に警告を発した。
『この地の空気が、淀んでおる。我の同胞の気配ではないが……不快な思念の揺らぎを感じるぞ。何かが仕掛けられておるやもしれん』
その言葉が、健介の胸に漠然とした不安の染みを作った。
その夜の食卓は、冷たい沈黙に支配されていた。
謹慎中という例外はあったが、健介がこうして当たり前に会社帰りに家族と食卓を囲むのは、実に数年ぶりのことだった。それなのに、空気は謹慎中と何も変わらず、重苦しい。
健介は、向かいに座る妻の美奈子に目をやった。パート仕事と家事に追われる彼女の目元には、うっすらと隈ができており、以前は艶やかだった髪も、少しだけ輝きを失っているように見えた。彼女は、ただ機械のようにおかずを口に運び、テレビのバラエティ番組に視線を固定している。その表情からは、何の感情も読み取れない。
娘の遥に至っては、健介と目を合わせようともしない。健介が何か話しかけても、彼女は「うん」「別に」と短い返事をするだけだった。
健介は、味噌汁を啜りながら、俯きがちに白米を口に運ぶ遥の姿を、何とはなしに見ていた。
(いつからだ……? いつから、あの子はあんな顔をするようになったんだろう)
これまで、自分は娘の何を見てきたのだろうか。仕事のストレスと、自分の無力感にばかり気を取られ、家族の本当の顔を見ていなかった。健介は、父親としての自分を、今更ながら恥じた。どう声をかければいいのか分からない。何を言っても、拒絶されるのが怖かった。
その時、遥がテーブルの上の醤油差しに手を伸ばした。羽織っていたカーディガンの袖が、わずかにずり上がる。
健介は、見てしまった。
遥の白い手首に、誰かの指で強く掴まれたかのような、赤黒い痣があるのを。
「……!」
遥は、健介の視線に気づくと、びくりと肩を震わせ、慌てて袖を元に戻して痣を隠した。そして、何も言わずに、再び食事を始めた。
見てはいけないものを見てしまったような、気まずい沈黙が流れる。美奈子は、二人の間のその緊張に気づいていないのか、あるいは気づいていながら、関わるのを避けているのか、テレビに視線を向けたままだった。
以前の健介なら、きっと気づかないふりをしただろう。面倒なことに関わりたくない、娘に踏み込んで拒絶されたくない、という保身が先に立ったはずだ。
だが、今の健介は違った。左腕の奥で、ダリアが宿した異質な熱が、彼の臆病な心を焼いていた。
夕食の後、家族は蜘蛛の子を散らすように、それぞれの部屋にこもった。健介は一人、リビングのソファに座り、ただ時間だけが過ぎていくのを待っていた。
午後九時。遥の部屋の方から、微かに、しゃくり上げるような声が聞こえた。泣いているのか?
直後、リビングのローテーブルに置きっぱなしになっていた彼女のスマートフォンが、ブブッ、と短く、しかし執拗に振動を繰り返す。メッセージの着信通知だ。健介は、見てはいけないと分かりながらも、その画面に目を奪われた。
『明日、無視したらわかってるよな?』
『マジきもいんだけど』
『金、用意しとけよ』
卑猥なスタンプと共に、脅迫的な文面がポップアップで次々と表示されては消えていく。
『あの小娘が泣いておるな』
ダリアの声が、静かに響く。
『ケンスケ、どうする? 我の世界では、庇護下の者が、己の縄張りで脅かされ涙を流すのは、長の恥ぞ』
その言葉が、健介の背中を押した。
恥。そうだ、これは、父親である自分の恥だ。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。軋む心臓を無視して、遥の部屋のドアの前に立つ。
コン、コン。
ノックをしても、返事はない。ただ、部屋の中から、嗚咽を殺す気配だけが伝わってくる。
「遥」
健介は、自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「父さんだ。少し、話せないか?」
ドアの向こうの沈黙が、まるで永遠のように感じられた。
健介は、逃げることなく、ただじっと、娘からの返事を待っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
最強無敗の少年は影を従え全てを制す
ユースケ
ファンタジー
不慮の事故により死んでしまった大学生のカズトは、異世界に転生した。
産まれ落ちた家は田舎に位置する辺境伯。
カズトもといリュートはその家系の長男として、日々貴族としての教養と常識を身に付けていく。
しかし彼の力は生まれながらにして最強。
そんな彼が巻き起こす騒動は、常識を越えたものばかりで……。
勇者の隣に住んでいただけの村人の話。
カモミール
ファンタジー
とある村に住んでいた英雄にあこがれて勇者を目指すレオという少年がいた。
だが、勇者に選ばれたのはレオの幼馴染である少女ソフィだった。
その事実にレオは打ちのめされ、自堕落な生活を送ることになる。
だがそんなある日、勇者となったソフィが死んだという知らせが届き…?
才能のない村びとである少年が、幼馴染で、好きな人でもあった勇者の少女を救うために勇気を出す物語。
最難関ダンジョンをクリアした成功報酬は勇者パーティーの裏切りでした
新緑あらた
ファンタジー
最難関であるS級ダンジョン最深部の隠し部屋。金銀財宝を前に告げられた言葉は労いでも喜びでもなく、解雇通告だった。
「もうオマエはいらん」
勇者アレクサンダー、癒し手エリーゼ、赤魔道士フェルノに、自身の黒髪黒目を忌避しないことから期待していた俺は大きなショックを受ける。
ヤツらは俺の外見を受け入れていたわけじゃない。ただ仲間と思っていなかっただけ、眼中になかっただけなのだ。
転生者は曾祖父だけどチートは隔世遺伝した「俺」にも受け継がれています。
勇者達は大富豪スタートで貧民窟の住人がゴールです(笑)
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
【アイテム分解】しかできないと追放された僕、実は物質の概念を書き換える最強スキルホルダーだった
黒崎隼人
ファンタジー
貴族の次男アッシュは、ゴミを素材に戻すだけのハズレスキル【アイテム分解】を授かり、家と国から追放される。しかし、そのスキルの本質は、物質や魔法、果ては世界の理すら書き換える神の力【概念再構築】だった!
辺境で出会った、心優しき元女騎士エルフや、好奇心旺盛な天才獣人少女。過去に傷を持つ彼女たちと共に、アッシュは忘れられた土地を理想の楽園へと創り変えていく。
一方、アッシュを追放した王国は謎の厄災に蝕まれ、滅亡の危機に瀕していた。彼を見捨てた幼馴染の聖女が助けを求めてきた時、アッシュが下す決断とは――。
追放から始まる、爽快な逆転建国ファンタジー、ここに開幕!
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる