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第七章
父の告白
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ドアの向こうの沈黙が、まるで永遠のように感じられた。健介は、逃げることなく、ただじっと、娘からの返事を待っていた。
やがて、カチャリ、と小さな金属音がして、ドアがわずかに開いた。隙間から覗く遥の目は、赤く腫れ、父親を拒絶するように鋭く尖っていた。
「……何」
部屋には入るな、と全身で語っている。だが、健介は、その隙間にそっと足をかけた。
「少しだけ、いいか」
遥は何も言わなかったが、それ以上ドアを閉めようとはしなかった。健介はそれを承諾と受け取り、静かに部屋に入る。
遥の部屋は、健介の知らない空間だった。壁にはアイドルのポスターが貼られ、机の上には教科書と、可愛らしいキャラクターの小物が散乱している。そして、ベッドの隅にうずくまる娘。その小さな背中が、か細く震えていた。
以前の健介なら、ここで詰問していただろう。「何があったんだ」「いじめられてるのか」と。だが、今の彼には、それが間違いであることが分かっていた。
健介は、娘のベッドから少し離れた、勉強机の椅子に静かに腰を下ろした。
「遥、すまなかった」
最初に口から出たのは、謝罪の言葉だった。
遥の背中が、ぴくりと揺れる。
「今まで、父さん、お前のことを何も見てやれてなかった。仕事が辛いとか、自分のことばかりで……お前がどんな顔をして、毎日学校に行ってたのか、何も知ろうとしなかった。本当に、すまなかった」
嗚咽が、部屋の隅から聞こえてきた。遥は、顔を膝にうずめたまま、声を殺して泣いていた。健介の言葉が、彼女がずっと張り詰めていた心の壁を、静かに溶かしていった。
健介は、しばらくその嗚咽が収まるのを待った。やがて、彼はおもむろに口を開く。
「リビングで、スマホのメッセージを見た。手首の痣も……見た」
遥の体が、再びこわばる。
「無理にとは、言わない。だけど……父さんに、話してくれないか。何があったのか。力になりたいんだ」
遥は、しばらくの間、膝に顔をうずめたままだった。だが、やがて、ぽつり、ぽつりと、途切れ途切れに話し始めた。
それは、些細なことがきっかけだった。クラスのリーダー格の女子生徒グループ。最初は、無視されるようになっただけだった。それが、陰口に変わった。持ち物を隠されるようになった。そして、ここ最近、街の空気が殺伐とし始めた頃から、いじめは急速に悪質化したのだという。LINEグループでの誹謗中傷、金銭の要求、そして、暴力。
『……下劣な』
健介の脳内で、ダリアが吐き捨てるように呟いた。その声には、人間という種そのものへの、どうしようもない軽蔑が滲んでいる。
『我の世界であれば、その者ども、一族まとめて魂ごと消し炭にしてくれるわ』
(黙ってろ……!)
健介は、心の中で強く念じ、ダリアの殺意を抑えつけた。今は、娘の話を聞くことだけが、彼の全てだった。
一通り話し終えた遥は、顔を上げ、涙で濡れた目で、初めて父親の顔を真っ直ぐに見た。
「……ごめんなさい。お父さんも、会社で大変だったのに……」
その言葉に、健介の胸は締め付けられた。この子は、こんな状況でも、自分のことより、父親を気遣っていた。
「謝るのは、俺の方だ」
健介は、固く、しかし震える声で言った。
「話してくれて、ありがとう。もう、お前が一人で悩むことはない」
健介は、ゆっくりと立ち上がった。その目には、もう以前のような迷いや諦めはなかった。
「明日の朝、一緒に行こう。父さんが、何とかする」
その言葉には、不思議な力が宿っていた。自分でも信じていない、空虚な言葉ではない。左腕に宿る、傲慢で、理不尽で、しかし絶対的な力を持つ存在。彼女の存在が、無力だったはずの中年男に、確かな自信を与えていた。
遥は、ただ、こくりと頷いた。
その夜、父と娘の間に、ほんの少しだけ、失われていた絆が結び直された。
やがて、カチャリ、と小さな金属音がして、ドアがわずかに開いた。隙間から覗く遥の目は、赤く腫れ、父親を拒絶するように鋭く尖っていた。
「……何」
部屋には入るな、と全身で語っている。だが、健介は、その隙間にそっと足をかけた。
「少しだけ、いいか」
遥は何も言わなかったが、それ以上ドアを閉めようとはしなかった。健介はそれを承諾と受け取り、静かに部屋に入る。
遥の部屋は、健介の知らない空間だった。壁にはアイドルのポスターが貼られ、机の上には教科書と、可愛らしいキャラクターの小物が散乱している。そして、ベッドの隅にうずくまる娘。その小さな背中が、か細く震えていた。
以前の健介なら、ここで詰問していただろう。「何があったんだ」「いじめられてるのか」と。だが、今の彼には、それが間違いであることが分かっていた。
健介は、娘のベッドから少し離れた、勉強机の椅子に静かに腰を下ろした。
「遥、すまなかった」
最初に口から出たのは、謝罪の言葉だった。
遥の背中が、ぴくりと揺れる。
「今まで、父さん、お前のことを何も見てやれてなかった。仕事が辛いとか、自分のことばかりで……お前がどんな顔をして、毎日学校に行ってたのか、何も知ろうとしなかった。本当に、すまなかった」
嗚咽が、部屋の隅から聞こえてきた。遥は、顔を膝にうずめたまま、声を殺して泣いていた。健介の言葉が、彼女がずっと張り詰めていた心の壁を、静かに溶かしていった。
健介は、しばらくその嗚咽が収まるのを待った。やがて、彼はおもむろに口を開く。
「リビングで、スマホのメッセージを見た。手首の痣も……見た」
遥の体が、再びこわばる。
「無理にとは、言わない。だけど……父さんに、話してくれないか。何があったのか。力になりたいんだ」
遥は、しばらくの間、膝に顔をうずめたままだった。だが、やがて、ぽつり、ぽつりと、途切れ途切れに話し始めた。
それは、些細なことがきっかけだった。クラスのリーダー格の女子生徒グループ。最初は、無視されるようになっただけだった。それが、陰口に変わった。持ち物を隠されるようになった。そして、ここ最近、街の空気が殺伐とし始めた頃から、いじめは急速に悪質化したのだという。LINEグループでの誹謗中傷、金銭の要求、そして、暴力。
『……下劣な』
健介の脳内で、ダリアが吐き捨てるように呟いた。その声には、人間という種そのものへの、どうしようもない軽蔑が滲んでいる。
『我の世界であれば、その者ども、一族まとめて魂ごと消し炭にしてくれるわ』
(黙ってろ……!)
健介は、心の中で強く念じ、ダリアの殺意を抑えつけた。今は、娘の話を聞くことだけが、彼の全てだった。
一通り話し終えた遥は、顔を上げ、涙で濡れた目で、初めて父親の顔を真っ直ぐに見た。
「……ごめんなさい。お父さんも、会社で大変だったのに……」
その言葉に、健介の胸は締め付けられた。この子は、こんな状況でも、自分のことより、父親を気遣っていた。
「謝るのは、俺の方だ」
健介は、固く、しかし震える声で言った。
「話してくれて、ありがとう。もう、お前が一人で悩むことはない」
健介は、ゆっくりと立ち上がった。その目には、もう以前のような迷いや諦めはなかった。
「明日の朝、一緒に行こう。父さんが、何とかする」
その言葉には、不思議な力が宿っていた。自分でも信じていない、空虚な言葉ではない。左腕に宿る、傲慢で、理不尽で、しかし絶対的な力を持つ存在。彼女の存在が、無力だったはずの中年男に、確かな自信を与えていた。
遥は、ただ、こくりと頷いた。
その夜、父と娘の間に、ほんの少しだけ、失われていた絆が結び直された。
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