左腕のDALIA

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第八章

父親の威光

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翌朝。健介と遥は、並んで家を出た。
二人で一緒に駅へ向かうのは, 遥が小学生の時以来かもしれない。父と娘の間には、まだぎこちない沈黙が流れていた。健介は、約束はしたものの、これから自分が何をすべきなのか、具体的な計画があるわけではなかった。ただ、もう逃げないと決めただけだ。遥は、そんな父親の後ろを半歩下がって、不安げに、しかしどこか期待するような眼差しでついてくる。
​『ケンスケ、まどろっこしいぞ』
脳内で、ダリアが苛立ったように言った。
『先ほどの小娘との会話、聞かせてもらったぞ。リナ、とかいう虫けらか。我が行けば、一瞬で終わらせてやるものを』
​(駄目だ。暴力は、もうこりごりだ。これは、父親として、人間としての俺の問題だ)
健介は、心の中で強く言い返した。初めて、ダリアの提案を明確に拒絶した。ダリアは少し不満げに黙り込んだが、それ以上は何も言わなかった。
​健介は、その日一日、有給休暇を取った。遥に主犯格の女子生徒――リナという名前らしい――が、放課後によく仲間と集まっているという駅前のカフェを聞き出し、彼はその向かいの喫茶店で、ただひたすら時間を潰した。熱いコーヒーはとっくに冷めきっていた。新聞を広げてはいたが、その文字は全く頭に入ってこない。本当に、自分に何ができるというのか。何度も、心が折れそうになった。
​夕方。遥からの『出てきた』という短いメッセージを受け、健介は店を出た。
人通りの少なくなった路地に入ったところで、健介は彼女たちの前に回り込み、静かにその道を塞いだ。
「……え、誰、このおっさん」「キモいんだけど」
三人の女子生徒が、値踏みするように、侮蔑的な視線を向けてくる。その中心にいる、勝ち気そうな少女がリナだろう。
​「君が、リナさん、だね」
健介の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「娘の遥から、話を聞いた。手首の痣のことも、スマートフォンのメッセージのことも」
​リナの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。だが、すぐに虚勢を張った笑みを浮かべる。
「は? 何それ、意味わかんないんだけど。あんたんトコの娘が、勝手にやってるだけじゃん?」
取り巻きの二人も、嘲るように笑っている。
​健介は、彼女たちの芝居がかった態度を、ただ静かに見つめた。
その瞳は、もはや以前のような、自信なさげに揺らぐものではなかった。それは、絶対的な力を持つ存在を内に宿した者の、全てを見透かすような、深く、そして冷たい光を放っていた。
​「そうか」
健介は、ただ短く呟くと、すぐそばにあった金属製のゴミ集積所のフェンスに、何気ない仕草で左手を置いた。
​「もう二度と、私の娘に関わらないでほしい。金輪際、だ」
​その言葉と同時。
ミシリ、と、フェンスの太い鉄格子が、低い呻きのような音を立てて、まるで粘土のように彼の指の形に歪んでいく。健介は、それに一切の力を込めているようには見えない。ただ、そこに手を置いているだけだ。
​少女たちの顔から、嘲笑が消えた。目の前で起きている、ありえない現象。そして、目の前の男が放つ、得体の知れない威圧感。それは、不良や教師が振りかざす暴力とは、全く質の違う、根源的な恐怖だった。
​「もし、この約束が守られない場合は――私も、大人のやり方で、君たちに対応することになる」
健介は、歪んだフェンスから静かに手を離すと、続けた。
「娘のスマートフォンに残っている記録、手首の痣の診断書……それら全てを揃えて、君たちの学校に、ご両親に、そして、場合によっては警察にも、相談することになるだろう。そうなった時、誰が一番困るか、わかるかな?」
​彼の声は、どこまでも穏やかだった。だが、その穏やかさが、逆に少女たちを震え上がらせた。
リナは、真っ青な顔で、何も言えずにただ小さく頷くことしかできなかった。
​健介は、彼女たちに背を向けると、その場を静かに立ち去った。
すると、近くの電信柱の物陰から、その一部始終を息を殺して見守っていた遥が、駆け寄ってくる。彼女は、父親と、彼が歪ませたフェンスとを、信じられないという目で見比べていた。
​「……お父さん、今のは……?」
「ああ。少し、力が入りすぎたみたいだ」
​健介は、そう言って、ぶっきらぼうに笑った。その左手を見ながら、彼自身もまた、自らに宿った力の、底知れない恐ろしさを感じていた。
​その日の夜の食卓も、やはり重い沈黙に支配されていた。
だが、健介が席を立った時、後片付けをする美奈子の隣で、遥がぽつりと呟いた。
「……ごちそうさま」
それは、健介の耳にも届くか届かないかくらいの、小さな声だった。だが、ここ数ヶ月、そんな言葉すら聞いた覚えがなかった。健介は、何も言わずにリビングへと向かった。
​夜が更け、健介が書斎でぼんやりと座っていると、廊下を通り過ぎる遥の気配がした。彼女は一度通り過ぎ、そして、少しだけ戻ってくると、書斎のドアの隙間から、小さな声で言った。
​「……あの、ありがと」
​健介が顔を上げる前に、遥はもう自室へと走り去っていた。
​短い、ぶっきらぼうな一言。だが、健介の乾いた心には、その言葉が、どんな賛辞よりも温かく染み渡った。
​翌々日の夜。
食卓の雰囲気は、まだぎこちないながらも、以前のような凍てつく冷たさは消えていた。
学校から帰ってきた遥の表情が、ここ数ヶ月、見たこともないほどに穏やかだったからだ。
​「遥、学校は……どうだ?」
健介は、おそるおそる、尋ねた。
遥は、少し驚いたように目を丸くしたが、やがて、はにかむように、小さく笑った。
​「うん。……もう、大丈夫」
​その、数年ぶりに見たかもしれない娘の屈託のない笑顔に、健介の胸は熱くなった。
健介の、失われた絆を取り戻すための戦いは、まだ始まったばかりだった。
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