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第九章
雪解けの兆し
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あれから数日、小林家の食卓の空気は、奇妙に変化していた。
凍てつくような沈黙を破るのは、いつも遥の方からだった。彼女が、健介に対して、ぽつりぽつりと学校での出来事を話すのだ。健介は、その一つ一つの言葉を、噛しめるように聞いている。
妻の美奈子は、そんな父と娘のやり取りを、何も言わずにただ静かに見つめていた。
「お父さん、今日、数学の小テストが返ってきたんだけど、クラスで一番だった」
「そうか。すごいじゃないか」
その会話は、本当に些細な、日常の報告だった。だが、健介にとっては、ここ数年、聞いたこともなかった宝物のような響きを持っていた。遥は、父親と話す時、まだ少し照れ臭そうに視線を泳がせるが、その表情には以前のような暗い影はない。
健介は、そんな娘の変化を、静かに受け止めていた。
そして美奈子は、夫が一体どんな魔法を使って、あれほど頑なだった娘の心を開いたのか、戸惑いと、ほんの少しの嫉妬が混じったような複雑な表情で、その様子をただ見守るだけだった。
その夜、健介が書斎でぼんやりと本を読んでいると、控えめにドアをノックする音がした。
健介が「どうぞ」と声をかけると、美奈子が静かに入ってきた。彼女は、部屋の入り口に立ったまま、しばらく躊躇していたが、やがて意を決したように口を開いた。
「あなた……あの子に、何かしたの?」
それは、詰問するような響きではなかった。純粋な疑問と、ほんの少しの不安が混じった声だった。
「あの子、最近あなたのこと、前みたいに……嫌がらなくなったから。何か、あったのかと思って」
健介は、読んでいた本を静かに閉じると、妻を真っ直ぐに見つめた。
そして、超常的な力については伏せたまま、事実を告げた。
「……あの子、学校で、少しトラブルがあってな。いじめられていたらしい。だから、俺が、その相手と話をつけてきた。もう、大丈夫だ」
美奈子の目が、驚きに見開かれる。だが、それはすぐに、不安と不信の色に変わった。
「話をつけてきた? あなたが? ……まさか、会社でやったみたいに、また暴力沙汰じゃないでしょうね。それに、なぜ、私に一言も相談しなかったの? 遥は、私の子でもあるのよ!」
責めるような、鋭い言葉。以前の健介なら、ここで口をつぐむか、あるいは逆ギレしていただろう。だが、彼は静かに妻の言葉を受け止めた。
「……すまない。その通りだ」
健介は、深く頭を下げた。
「だが、これは、俺の問題だと思ったんだ。今まで、父親として、何もしてやれていなかった。あの子がそんなに苦しんでいることに、気づいてさえやれなかった。だから……これだけは、俺自身の手で、ケリをつけなければいけないと思ったんだ。お前に相談する資格なんて、俺にはない、と」
これまでのように、言い訳をするのではない。ただ、静かに、誠実に自分の非を認めて謝罪する夫の姿に、美奈子の瞳が、わずかに揺れた。
彼女の心の中で、長年凍り付いていた何かが、ほんの一滴、ぽたりと溶け出したような気がした。
「……そう」
美奈子は、それだけ言うと、健介に背を向け、部屋を出て行こうとした。
だが、ドアノブに手をかけたまま、ほんの少しだけ立ち止まると、小さな声で呟いた。
「……今度は、一人で抱え込まないで。……私たち、夫婦なんだから」
その声は、まだ少し硬かったが、確かに、健介の心に届いた。
美奈子が出て行った後、健介は一人、部屋に残された。
家族の間にできた深い溝が、すぐに埋まるわけではない。だが、その夜、健介は、その溝の底に、一条の、本当に微かな光が差し込んだのを、確かに感じていた。
もう一人で書斎にこもっている気にはなれず、健介はリビングに戻ろうと、ドアを開けた。
すると、廊下の薄暗がりに、遥が息を殺して立っているのが見えた。彼女は、二人の会話を、ずっとドアの外で聞いていたのだ。
父親に気づかれた遥は、びくりと体を震わせた。その目には涙が浮かんでいたが、表情は、ただ悲しいだけでも、驚いているだけでもない。それは、安堵したような、泣き笑いのような、複雑な色をしていた。
彼女は、何も言わずに、健介に一度だけ深く頭を下げると、ぱっと身を翻し、自分の部屋へと駆け込んでいった。
その小さな背中を見送りながら、健介は、娘もまた、この壊れかけた家族の再生を、心の底から望んでいたことを知った。
一人ではない。健介の胸に、温かい何かが、静かに広がっていった。
凍てつくような沈黙を破るのは、いつも遥の方からだった。彼女が、健介に対して、ぽつりぽつりと学校での出来事を話すのだ。健介は、その一つ一つの言葉を、噛しめるように聞いている。
妻の美奈子は、そんな父と娘のやり取りを、何も言わずにただ静かに見つめていた。
「お父さん、今日、数学の小テストが返ってきたんだけど、クラスで一番だった」
「そうか。すごいじゃないか」
その会話は、本当に些細な、日常の報告だった。だが、健介にとっては、ここ数年、聞いたこともなかった宝物のような響きを持っていた。遥は、父親と話す時、まだ少し照れ臭そうに視線を泳がせるが、その表情には以前のような暗い影はない。
健介は、そんな娘の変化を、静かに受け止めていた。
そして美奈子は、夫が一体どんな魔法を使って、あれほど頑なだった娘の心を開いたのか、戸惑いと、ほんの少しの嫉妬が混じったような複雑な表情で、その様子をただ見守るだけだった。
その夜、健介が書斎でぼんやりと本を読んでいると、控えめにドアをノックする音がした。
健介が「どうぞ」と声をかけると、美奈子が静かに入ってきた。彼女は、部屋の入り口に立ったまま、しばらく躊躇していたが、やがて意を決したように口を開いた。
「あなた……あの子に、何かしたの?」
それは、詰問するような響きではなかった。純粋な疑問と、ほんの少しの不安が混じった声だった。
「あの子、最近あなたのこと、前みたいに……嫌がらなくなったから。何か、あったのかと思って」
健介は、読んでいた本を静かに閉じると、妻を真っ直ぐに見つめた。
そして、超常的な力については伏せたまま、事実を告げた。
「……あの子、学校で、少しトラブルがあってな。いじめられていたらしい。だから、俺が、その相手と話をつけてきた。もう、大丈夫だ」
美奈子の目が、驚きに見開かれる。だが、それはすぐに、不安と不信の色に変わった。
「話をつけてきた? あなたが? ……まさか、会社でやったみたいに、また暴力沙汰じゃないでしょうね。それに、なぜ、私に一言も相談しなかったの? 遥は、私の子でもあるのよ!」
責めるような、鋭い言葉。以前の健介なら、ここで口をつぐむか、あるいは逆ギレしていただろう。だが、彼は静かに妻の言葉を受け止めた。
「……すまない。その通りだ」
健介は、深く頭を下げた。
「だが、これは、俺の問題だと思ったんだ。今まで、父親として、何もしてやれていなかった。あの子がそんなに苦しんでいることに、気づいてさえやれなかった。だから……これだけは、俺自身の手で、ケリをつけなければいけないと思ったんだ。お前に相談する資格なんて、俺にはない、と」
これまでのように、言い訳をするのではない。ただ、静かに、誠実に自分の非を認めて謝罪する夫の姿に、美奈子の瞳が、わずかに揺れた。
彼女の心の中で、長年凍り付いていた何かが、ほんの一滴、ぽたりと溶け出したような気がした。
「……そう」
美奈子は、それだけ言うと、健介に背を向け、部屋を出て行こうとした。
だが、ドアノブに手をかけたまま、ほんの少しだけ立ち止まると、小さな声で呟いた。
「……今度は、一人で抱え込まないで。……私たち、夫婦なんだから」
その声は、まだ少し硬かったが、確かに、健介の心に届いた。
美奈子が出て行った後、健介は一人、部屋に残された。
家族の間にできた深い溝が、すぐに埋まるわけではない。だが、その夜、健介は、その溝の底に、一条の、本当に微かな光が差し込んだのを、確かに感じていた。
もう一人で書斎にこもっている気にはなれず、健介はリビングに戻ろうと、ドアを開けた。
すると、廊下の薄暗がりに、遥が息を殺して立っているのが見えた。彼女は、二人の会話を、ずっとドアの外で聞いていたのだ。
父親に気づかれた遥は、びくりと体を震わせた。その目には涙が浮かんでいたが、表情は、ただ悲しいだけでも、驚いているだけでもない。それは、安堵したような、泣き笑いのような、複雑な色をしていた。
彼女は、何も言わずに、健介に一度だけ深く頭を下げると、ぱっと身を翻し、自分の部屋へと駆け込んでいった。
その小さな背中を見送りながら、健介は、娘もまた、この壊れかけた家族の再生を、心の底から望んでいたことを知った。
一人ではない。健介の胸に、温かい何かが、静かに広がっていった。
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