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本編
第三十三話 小さな料理人の告発
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執事長セバスチャンの冷酷な脅迫が去った後の回廊。リリアナはしばらくその場から動けずにいたが、やがて重い足取りで自室へと戻っていった。
その背中は、この数ヶ月で見違えるほど輝いていた覇気を失い、アステリアから帰国した直後のように小さく萎んで見えた。
その様子を、物陰からじっと見つめる瞳があった。
リコだ。彼女は手に持っていた銀のお盆を強く握りしめ、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「……あいつ、許さない」
リコは遊牧民出身だ。遊牧民は仲間同士の結束が非常に高い。彼女にとって、仲間や家族を脅かす者は、魔獣よりもタチの悪い敵と見なされる。ましてや、彼女の料理を毎食、満面の笑みで食べてくれるリリアナに、あんなにも暗い顔をさせたのだ。
リコは踵を返すと、迷いのない足取りで走り出した。向かう先は、この城で最も強大な力を持つ主の元だ。
ドンドンドン!!
執務室の扉が、非礼を詫びる間もなく叩かれた。
「入れ」
中から低い声が響く。リコが飛び込むと、イグニスは書類仕事の手を止め、怪訝そうに眉を上げた。普段は明るいリコが、肩で息をし、怒りで顔を真っ赤にしているのを見たからだ。
「どうした」
「陛下! あいつです、あのサザランドの眼鏡!」
リコは叫んだ。
「あいつがリリアナ様を脅していました! 『言うことを聞かなかったらドラゴニアを悪者にして孤立させる』とか、『公爵家に利益を流せ』とか……リリアナ様、すごく辛そうな顔をして……!」
バキッ。
イグニスが手に持っていた羽ペンが、粉々に砕け散った。
室内の温度が一気に氷点下まで下がり、同時に空気がピリピリと帯電する。王の身体から立ち上る黄金の魔力が、怒りの炎となって揺らめいた。
「……ほう。俺の庭で、俺の妻を脅迫したと?」
その声はあまりに静かで、逆に恐ろしかった。怒髪天を衝くような怒りではない。絶対零度の殺意だ。
「あの男、やはりただの使者ではなかったか。リリアナの優しさにつけ込み、卑劣な真似を……」
イグニスが立ち上がる。その瞳孔は爬虫類のように縦に裂け、今すぐにでもセバスチャンを八つ裂きにしに行きそうな気配だった。
「待ってください!」
リコが慌てて王の前に立ちはだかった。
「あたいだって、あいつをぶん殴ってやりたいです! でも、今陛下が動いたら、リリアナ様が気に病んじゃいます!」
「……何?」
「リリアナ様は優しいから……自分が原因で陛下や国に迷惑がかかることを怖がってるんです。だから、もし陛下があいつを殺しちゃったら、『わたしのせいで国際問題になった』って、自分を責めるに決まってます!」
リコの必死の訴えに、イグニスは足を止めた。
彼はギリギリと拳を握りしめ、荒い息を吐いた。
その通りだ。リリアナは、自分の価値を低く見積もる癖がある。もしイグニスが暴走すれば、彼女は「わたしが至らないばかりに」と心を閉ざしてしまうかもしれない。
「……では、なぜ俺に報告した。余計なことをするなと言うためか?」
「信じて待つためです!」
リコは真っ直ぐに王を見上げた。
「リリアナ様は弱くないです。あたいは知ってます。あの人は、どんなに硬い食材だって、諦めずに美味しくしちゃう人です。……自分の家族の問題だって、きっと自分で答えを出せます」
しばらくの沈黙の後。
イグニスは、ふぅ、と長く重い溜息をつき、殺気を収めた。
「……分かった」
イグニスは椅子に座り直し、窓の外――リリアナの部屋がある方向を見つめた。
「だが、リリアナがもし助けを求めたら、あるいはお前の言う通り答えを出したなら。その時は遠慮なく、あの眼鏡を地獄へ送ってやる」
「はい! その時はあたいもフライパンでぼっこぼこにしてやりますよ!」
その夜リリアナは自室のベッドに座り込み、膝を抱えていた。
セバスチャンの言葉が頭から離れない。『ドラゴニアを孤立させる』。リリアナが我儘を言えば、この幸せな国が壊される。それだけは避けなければならない。でも、父の言いなりになれば、イグニスやこの国を裏切ることになる。出口のない迷路。
コンコン。
控えめなノックの音がして、扉が開いた。
イグニスだった。彼はリリアナが悩み込んでいることなど気づかないふりをして、いつものようにぶっきらぼうに言った。
「リリアナ。……腹が減った」
たった一言。何の飾り気もない、ただの生理現象の訴え。けれど、その声はリリアナの心の澱を一瞬で吹き飛ばすほど、温かく、日常の響きに満ちていた。
「……ふふっ」
リリアナは思わず笑ってしまった。涙が滲んだ。
(そうだ。この人は、世界がどうなろうと、お腹を空かせて私を求めてくれる。私の料理を、私自身を、必要としてくれる)
「もう、イグニス様ったら。さっき夕食を召し上がったばかりではありませんか」
「足りん。お前の夜食がないと眠れんのだ」
彼は部屋に入ってくると、リリアナの隣に腰掛け、黙って肩を抱いた。
何も聞かない。けれど、全てを知っているような、大きな体温。リリアナは彼に身を預け、目を閉じた。
迷いは消えつつあった。リリアナが守るべきは、面目のためにリリアナを利用する過去の家族ではない。今、ここで温かい体温を分け合える、現在の家族なのだと。
その背中は、この数ヶ月で見違えるほど輝いていた覇気を失い、アステリアから帰国した直後のように小さく萎んで見えた。
その様子を、物陰からじっと見つめる瞳があった。
リコだ。彼女は手に持っていた銀のお盆を強く握りしめ、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「……あいつ、許さない」
リコは遊牧民出身だ。遊牧民は仲間同士の結束が非常に高い。彼女にとって、仲間や家族を脅かす者は、魔獣よりもタチの悪い敵と見なされる。ましてや、彼女の料理を毎食、満面の笑みで食べてくれるリリアナに、あんなにも暗い顔をさせたのだ。
リコは踵を返すと、迷いのない足取りで走り出した。向かう先は、この城で最も強大な力を持つ主の元だ。
ドンドンドン!!
執務室の扉が、非礼を詫びる間もなく叩かれた。
「入れ」
中から低い声が響く。リコが飛び込むと、イグニスは書類仕事の手を止め、怪訝そうに眉を上げた。普段は明るいリコが、肩で息をし、怒りで顔を真っ赤にしているのを見たからだ。
「どうした」
「陛下! あいつです、あのサザランドの眼鏡!」
リコは叫んだ。
「あいつがリリアナ様を脅していました! 『言うことを聞かなかったらドラゴニアを悪者にして孤立させる』とか、『公爵家に利益を流せ』とか……リリアナ様、すごく辛そうな顔をして……!」
バキッ。
イグニスが手に持っていた羽ペンが、粉々に砕け散った。
室内の温度が一気に氷点下まで下がり、同時に空気がピリピリと帯電する。王の身体から立ち上る黄金の魔力が、怒りの炎となって揺らめいた。
「……ほう。俺の庭で、俺の妻を脅迫したと?」
その声はあまりに静かで、逆に恐ろしかった。怒髪天を衝くような怒りではない。絶対零度の殺意だ。
「あの男、やはりただの使者ではなかったか。リリアナの優しさにつけ込み、卑劣な真似を……」
イグニスが立ち上がる。その瞳孔は爬虫類のように縦に裂け、今すぐにでもセバスチャンを八つ裂きにしに行きそうな気配だった。
「待ってください!」
リコが慌てて王の前に立ちはだかった。
「あたいだって、あいつをぶん殴ってやりたいです! でも、今陛下が動いたら、リリアナ様が気に病んじゃいます!」
「……何?」
「リリアナ様は優しいから……自分が原因で陛下や国に迷惑がかかることを怖がってるんです。だから、もし陛下があいつを殺しちゃったら、『わたしのせいで国際問題になった』って、自分を責めるに決まってます!」
リコの必死の訴えに、イグニスは足を止めた。
彼はギリギリと拳を握りしめ、荒い息を吐いた。
その通りだ。リリアナは、自分の価値を低く見積もる癖がある。もしイグニスが暴走すれば、彼女は「わたしが至らないばかりに」と心を閉ざしてしまうかもしれない。
「……では、なぜ俺に報告した。余計なことをするなと言うためか?」
「信じて待つためです!」
リコは真っ直ぐに王を見上げた。
「リリアナ様は弱くないです。あたいは知ってます。あの人は、どんなに硬い食材だって、諦めずに美味しくしちゃう人です。……自分の家族の問題だって、きっと自分で答えを出せます」
しばらくの沈黙の後。
イグニスは、ふぅ、と長く重い溜息をつき、殺気を収めた。
「……分かった」
イグニスは椅子に座り直し、窓の外――リリアナの部屋がある方向を見つめた。
「だが、リリアナがもし助けを求めたら、あるいはお前の言う通り答えを出したなら。その時は遠慮なく、あの眼鏡を地獄へ送ってやる」
「はい! その時はあたいもフライパンでぼっこぼこにしてやりますよ!」
その夜リリアナは自室のベッドに座り込み、膝を抱えていた。
セバスチャンの言葉が頭から離れない。『ドラゴニアを孤立させる』。リリアナが我儘を言えば、この幸せな国が壊される。それだけは避けなければならない。でも、父の言いなりになれば、イグニスやこの国を裏切ることになる。出口のない迷路。
コンコン。
控えめなノックの音がして、扉が開いた。
イグニスだった。彼はリリアナが悩み込んでいることなど気づかないふりをして、いつものようにぶっきらぼうに言った。
「リリアナ。……腹が減った」
たった一言。何の飾り気もない、ただの生理現象の訴え。けれど、その声はリリアナの心の澱を一瞬で吹き飛ばすほど、温かく、日常の響きに満ちていた。
「……ふふっ」
リリアナは思わず笑ってしまった。涙が滲んだ。
(そうだ。この人は、世界がどうなろうと、お腹を空かせて私を求めてくれる。私の料理を、私自身を、必要としてくれる)
「もう、イグニス様ったら。さっき夕食を召し上がったばかりではありませんか」
「足りん。お前の夜食がないと眠れんのだ」
彼は部屋に入ってくると、リリアナの隣に腰掛け、黙って肩を抱いた。
何も聞かない。けれど、全てを知っているような、大きな体温。リリアナは彼に身を預け、目を閉じた。
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