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番外編 オブシディウス・ドラゴニア
第二話 国境の幻影とすれ違う伝令
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サザランド王国の北端、ドラゴニア王国との国境地帯。そこには、歴史的な緊張が走っている――はずだった。
ゲオルグ・ヴァレンタイン公爵率いるサザランド精鋭軍、総勢一万。
彼らは重厚な鎧の上から分厚い獣毛のマントを羽織り、槍の穂先を天に向け、足並みを揃えて行軍していた。兵士たちの表情は硬く、寒さと、これから始まるであろう激戦への覚悟と恐怖が入り混じっている。
指揮官であるゲオルグは、愛馬の手綱を強く握りしめ、国境を流れるルビコン川の対岸を睨みつけていた。
「……セバスチャンよ」
「は、はい」
「敵軍はどこだ?」
ゲオルグの声は、風鳴りだけの雪原の荒野に虚しく響いた。
彼が単眼鏡越しに目にしているのは、セバスチャンの報告にあった「サザランド侵攻を目論む凶悪なドラゴニア大軍」ではない。
そこに広がっていたのは、拍子抜けするほど牧歌的な光景だった。
川の向こう岸には、いくつかの天幕が点在している。そこから立ち上るのは、狼煙ではなく、夕げの支度をする煮炊きの煙だ。
武装した兵士の代わりに、山羊を追う牧童が走り回り、川辺では老人たちが焚き火を囲んでのんびりと茶を啜っている。
武器の手入れをする金属音の代わりに、風に乗って聞こえてくるのは、遊牧民の奏でる素朴な笛の音色だった。
「……これは、どういうことだ?」
ゲオルグが冷ややかな視線を執事に落とす。セバスチャンは脂汗で前髪を額に貼り付けながら、必死に言葉を紡いだ。
「これこそが、野蛮かつ狡猾な竜人どもの罠なのです!」
彼は震える指で、平和そのものの集落を指差した。
「我々を油断させているのです。広大な山腹に身を潜め、好機を待っているのです! あの遊牧民たちも、竜王イグニスに魔術で操られているのです! 我々の戦意を挫くために!」
「……ふむ」
ゲオルグは眉をひそめた。執事の言うことにも一理あるかもしれない。だが、長年貴族として、そして軍の指揮官として培ってきた直感が告げている。『あれは、ただくつろいでいるだけだ』と。
ドラゴニアは「眠れる獅子」として知られている。その強大すぎる武力ゆえに、他国からの干渉も、他国への干渉もしない。自国内で完結している国だと。
もし、セバスチャンの報告が過剰な反応だったとしたら? 無抵抗な国に、一方的に軍を雪崩れ込ませるなど、騎士道精神に悖る行為ではないか。
国際社会からの非難を浴びるのは、ドラゴニアではなく我々の方になるかもしれない。
「……全軍、待機せよ」
ゲオルグが手を挙げた。
侵攻を躊躇う空気が、軍全体に広がる。
セバスチャンは顔面蒼白になった。ここで引き返されれば、自分の虚偽報告が露呈する。それだけは避けなければならない。
その時だった。対岸の様子を探らせていた斥候の一騎が、砂埃を上げて戻ってきた。
「閣下! ご報告いたします!」
兵士は馬から転げ落ちるように降りると、息を切らしてゲオルグの前に跪いた。その顔は興奮と義憤に紅潮している。
「どうした。敵の伏兵を見つけたか?」
「いえ、そうではありません! ですが、遊牧民への聞き込みにより、衝撃の事実が判明いたしました!」
兵士は唾を飲み込み、叫んだ。
「彼らの仲間である『リコ』という名の娘が……竜王イグニスによって連れ去られたとのことです!!」
「なに……?」
ゲオルグの瞳孔が収縮した。
――事実、リコはイグニスによって半ば強引に城へ連れて行かれていた。それは間違いない。
遊牧民たちは、「リコは竜王様に気に入られて連れて行かれたんだよ(今は王妃様の料理人として、仕送りもたっぷりくれるんだ、鼻が高いよ)」と語っていたのだが、功を焦り、またドラゴニアへの恐怖心があったこの若い兵士は、前半の「連れて行かれた」という部分だけで思考を停止し、後半のハッピーな事情を聞かずに飛んで帰ってきてしまったのである。
しかし、その断片的な真実は、今のゲオルグにとって、これ以上ない劇薬となった。
「……おのれ、竜王め」
ゲオルグの中で、迷いが霧散し、確固たる怒りの炎が燃え上がった。
リリアナだけでなく、罪のない遊牧民の娘までも毒牙にかけているというのか。
遊牧民はどこの国にも属さない自由の民だ。彼らを守る法は曖昧だが、だからこそ、彼らを守ることは高潔なる貴族の義務である。
この戦いには、大義がある。
娘を奪われた父としての怒りと、弱き民を守る貴族としての正義が、完全に合致したのだ。
「聞いたか、者共!」
ゲオルグは剣を抜き放ち、高らかに咆哮した。
「敵は、無垢な民を拉致し、尊厳を踏みにじる卑劣な怪物である! これより我々はルビコン川を越え、ドラゴニアへ鉄槌を下す!」
「「「おおおおおおおおっ!!」」」
兵士たちの雄叫びが轟いた。セバスチャンは胸を撫で下ろし、陰湿な笑みを浮かべた。
これでいい。理由など何でもいいのだ、戦争さえ始まってしまえば。
「全軍、突撃ぃぃぃッ!!」
公爵の号令と共に、一万の軍勢が地響きを立てて動き出した。川の水飛沫が上がり、平和な国境線が踏み荒らされる。
彼らは知らなかった。その川を越えた先にあるのは、栄光の戦場ではなく、規格外の災害が待ち受ける絶望の地であることを。
ゲオルグ・ヴァレンタイン公爵率いるサザランド精鋭軍、総勢一万。
彼らは重厚な鎧の上から分厚い獣毛のマントを羽織り、槍の穂先を天に向け、足並みを揃えて行軍していた。兵士たちの表情は硬く、寒さと、これから始まるであろう激戦への覚悟と恐怖が入り混じっている。
指揮官であるゲオルグは、愛馬の手綱を強く握りしめ、国境を流れるルビコン川の対岸を睨みつけていた。
「……セバスチャンよ」
「は、はい」
「敵軍はどこだ?」
ゲオルグの声は、風鳴りだけの雪原の荒野に虚しく響いた。
彼が単眼鏡越しに目にしているのは、セバスチャンの報告にあった「サザランド侵攻を目論む凶悪なドラゴニア大軍」ではない。
そこに広がっていたのは、拍子抜けするほど牧歌的な光景だった。
川の向こう岸には、いくつかの天幕が点在している。そこから立ち上るのは、狼煙ではなく、夕げの支度をする煮炊きの煙だ。
武装した兵士の代わりに、山羊を追う牧童が走り回り、川辺では老人たちが焚き火を囲んでのんびりと茶を啜っている。
武器の手入れをする金属音の代わりに、風に乗って聞こえてくるのは、遊牧民の奏でる素朴な笛の音色だった。
「……これは、どういうことだ?」
ゲオルグが冷ややかな視線を執事に落とす。セバスチャンは脂汗で前髪を額に貼り付けながら、必死に言葉を紡いだ。
「これこそが、野蛮かつ狡猾な竜人どもの罠なのです!」
彼は震える指で、平和そのものの集落を指差した。
「我々を油断させているのです。広大な山腹に身を潜め、好機を待っているのです! あの遊牧民たちも、竜王イグニスに魔術で操られているのです! 我々の戦意を挫くために!」
「……ふむ」
ゲオルグは眉をひそめた。執事の言うことにも一理あるかもしれない。だが、長年貴族として、そして軍の指揮官として培ってきた直感が告げている。『あれは、ただくつろいでいるだけだ』と。
ドラゴニアは「眠れる獅子」として知られている。その強大すぎる武力ゆえに、他国からの干渉も、他国への干渉もしない。自国内で完結している国だと。
もし、セバスチャンの報告が過剰な反応だったとしたら? 無抵抗な国に、一方的に軍を雪崩れ込ませるなど、騎士道精神に悖る行為ではないか。
国際社会からの非難を浴びるのは、ドラゴニアではなく我々の方になるかもしれない。
「……全軍、待機せよ」
ゲオルグが手を挙げた。
侵攻を躊躇う空気が、軍全体に広がる。
セバスチャンは顔面蒼白になった。ここで引き返されれば、自分の虚偽報告が露呈する。それだけは避けなければならない。
その時だった。対岸の様子を探らせていた斥候の一騎が、砂埃を上げて戻ってきた。
「閣下! ご報告いたします!」
兵士は馬から転げ落ちるように降りると、息を切らしてゲオルグの前に跪いた。その顔は興奮と義憤に紅潮している。
「どうした。敵の伏兵を見つけたか?」
「いえ、そうではありません! ですが、遊牧民への聞き込みにより、衝撃の事実が判明いたしました!」
兵士は唾を飲み込み、叫んだ。
「彼らの仲間である『リコ』という名の娘が……竜王イグニスによって連れ去られたとのことです!!」
「なに……?」
ゲオルグの瞳孔が収縮した。
――事実、リコはイグニスによって半ば強引に城へ連れて行かれていた。それは間違いない。
遊牧民たちは、「リコは竜王様に気に入られて連れて行かれたんだよ(今は王妃様の料理人として、仕送りもたっぷりくれるんだ、鼻が高いよ)」と語っていたのだが、功を焦り、またドラゴニアへの恐怖心があったこの若い兵士は、前半の「連れて行かれた」という部分だけで思考を停止し、後半のハッピーな事情を聞かずに飛んで帰ってきてしまったのである。
しかし、その断片的な真実は、今のゲオルグにとって、これ以上ない劇薬となった。
「……おのれ、竜王め」
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遊牧民はどこの国にも属さない自由の民だ。彼らを守る法は曖昧だが、だからこそ、彼らを守ることは高潔なる貴族の義務である。
この戦いには、大義がある。
娘を奪われた父としての怒りと、弱き民を守る貴族としての正義が、完全に合致したのだ。
「聞いたか、者共!」
ゲオルグは剣を抜き放ち、高らかに咆哮した。
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「「「おおおおおおおおっ!!」」」
兵士たちの雄叫びが轟いた。セバスチャンは胸を撫で下ろし、陰湿な笑みを浮かべた。
これでいい。理由など何でもいいのだ、戦争さえ始まってしまえば。
「全軍、突撃ぃぃぃッ!!」
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