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本編
第三十四話 魔術師の送迎とお弁当マウント
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「――シフォン! 返しなさい! それは私の靴です!」
朝の北の塔に、エレナの悲鳴が響き渡った。
リビングでは、白い毛玉――シフォンが、エレナの靴を口に咥え、器用にソファの上を跳ね回っている。「キュウ! キュッ!」と鳴くその姿は、「遊んでくれないと返さないぞ」と主張していた。
「もう、時間がないんです! 遅刻したら始末書ものなんですよ!」
エレナが必死に捕まえようとするが、魔獣特有の身体能力を持つシフォンは残像を残して回避する。
時計の針は無情にも進み、始業時刻まであと二十分。北の塔から教育棟までは、普通に歩いてちょうど二十分。道中でお貴族様に世間話でもされたら、確実に遅刻する。かといって走って行っても「品がない」と叱責されるだろう。
「……終わりました」
エレナはその場にへたり込んだ。侍女見習いとして初週から遅刻。しかも理由は「ペットと遊んでいたから」。マーサの冷ややかな視線と、マーガレットの勝ち誇った顔が脳裏をよぎる。
その時、寝癖頭のシルヴィスが欠伸をしながら起きてきた。
「……朝から騒々しいぞ。何事だ」
「シルヴィス様……シフォンが靴を……これでは間に合いません……」
「なんだ、そんなことか」
シルヴィスは指をパチンと鳴らした。瞬間、シフォンの体が宙に浮き、咥えていた靴がエレナの足元にポトリと落ちた。
「キュ~……」と不満げに鳴くシフォンを無視し、シルヴィスはエレナの手を引いて立たせた。
「靴を履け。送ってやる」
「え? でも、馬車の手配なんて今からじゃ……」
「誰が馬車など使うと言った。……しっかり掴まっていろ。舌を噛むぞ」
エレナが慌てて靴を履くと、シルヴィスは躊躇なく彼女の腰を抱き寄せた。そして、バルコニーへと出る。
「え、まさか……ここから?」
「最短ルートを行く」
シルヴィスが魔術の詠唱を短く紡いだ。
「――浮遊、疾風」
ふわり、と二人の体が重力を失った。次の瞬間、強烈な風がエレナを襲った。北の塔のバルコニーから、二人の体が弾丸のように空へと射出されたのだ。
「きゃあああああっ!?」
エレナの悲鳴が風に流される。眼下には王宮の庭園がミニチュアのように広がり、分厚い空気の層が頬を叩く。本来なら恐怖で竦むような高さと速度だが、腰を支える彼の腕の温もりが、不思議な安心感を与えていた。
「目を開けろ。もう着くぞ」
数秒にも数分にも感じられた空の旅。シルヴィスは教育棟の中庭上空で急停止すると、今度は羽根が舞い落ちるように優雅に降下を始めた。
地上にいた令嬢たちが、空を見上げてざわめき始める。
「見て、何か降りてくるわ!」
「鳥? いいえ、人よ!」
「まさか、天使……?」
優雅な着地。ふわりとドレスの裾が舞い、エレナとシルヴィスは中庭の芝生の上に音もなく降り立った。
『キャアアアッ!?』
周囲から黄色い悲鳴が上がる。空から舞い降りた美貌の魔術師と、その腕に抱かれた侍女。それはまるで、お伽話のワンシーンのようだった。
「……ふん。余裕で間に合ったな」
シルヴィスは何食わぬ顔で呟くと、まだ足が震えているエレナを支えたまま言った。
「ほら、着いたぞ」
「シ、シルヴィス様!? 王宮上空での飛行魔術は、防衛結界に引っかかるので禁止のはずでは!?」
「俺の侍女が遅刻しそうなのだ。これ以上の緊急事態がどこにある。そもそも、その防衛結界を張っているのは俺だ」
シルヴィスは悪びれもせず言い放った。そして、周囲の令嬢たちが「クローデル卿だわ!」「空を飛んで送ってくるなんて……!」と熱狂する中、彼はエレナの耳元で囁いた。
「……行ってこい。それと夕飯はハンバーグを所望する」
「……は、はい! いってきます!」
シルヴィスは再び風を纏い、今度は一人で空高く舞い上がって去っていった。嵐のような登校劇。エレナは真っ赤な顔で一礼し、教室へと駆け込んだ。
***
「……それで? あの派手な登場は、わたくしたちへの牽制のおつもり?」
昼休み。教育棟のサロンで、マーガレットが呆れたように言った。彼女のテーブルには、専属シェフが作ったという豪勢なランチボックスが広げられている。
「違います。単なる……我が主の過保護です」
「ふん、愛されていること。……で、貴女は何を食べるの? 食堂に行きますの?」
周りの令嬢たちは、サロンで優雅に紅茶を飲んだり、実家から届けられた弁当を広げたりしている。平民のエレナには、そんな優雅なランチは縁遠いと思われているのだろう。
「いえ。私も持参しました」
エレナは鞄から、木製の曲げわっぱを取り出した。包みを開けると、ふわりと食欲をそそる香りが漂った。
「あら……?」
中から現れたのは、宝石箱のように詰められた色鮮やかな料理たちだった。メインは、昨夜の残りのローストビーフを薄く切り、自家製ソースを絡めたもの。脇を固めるのは、彩り野菜のピクルス、出汁をたっぷり含んだ厚焼き玉子、そして飾り切りされたラディッシュ。ご飯の上には、甘辛く煮た牛時雨煮が乗せられている。
「『昨晩の残り物詰め合わせ弁当』です」
エレナは謙遜して言ったが、その見た目と香りは、令嬢たちの豪華なランチを圧倒していた。特に、ローストビーフから漂う、ニンニクと醤油、そして蜂蜜の甘い香りが、サロン中の空腹を刺激する。
「……な、なによそれ。平民の料理にしては、随分と美味しそうじゃないの」
マーガレットが、ゴクリと喉を鳴らして身を乗り出した。
「残り物ですけれど、味は保証しますよ。……一つ、いかがですか?」
「べ、別に欲しくなんてありませんわ! ……でも、貴女がどうしても食べてみてほしいと言うなら、毒見してあげなくもありませんわよ?」
典型的なツンデレ反応を見せるマーガレットに、エレナは苦笑しながらローストビーフを一切れ差し出した。マーガレットは優雅にフォークで口に運ぶ。
「……っ!」
咀嚼した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。冷めているのに、肉は驚くほど柔らかい。噛むたびに溢れる肉の旨味と、甘辛いソースが絶妙に絡み合う。
「……美味しい……」
「良かったです。クローデル様も、これがお好きなんですよ」
「道理で……。この料理で魔術師様の胃袋を掴んだわけですわね」
マーガレットの声に、他の令嬢たちも集まってきた。
「まあ、マーガレット様がそこまで仰るなんて」
「私にも一口いただけます?」
「私、フルーツと交換してくださる?」
あっという間に、エレナの席は即席の試食会場となった。「この卵焼き、どうしてこんなにふわふわなの?」「野菜が甘い!」と称賛の声が上がる。
「ふふ、レシピならいつでもお教えしますよ」
エレナが微笑むと、令嬢たちの瞳から、当初のような冷たい警戒色は消えていた。美味しいものは、身分の壁さえも溶かす。かつて北の塔で証明した事実を、エレナはここでも再現してみせたのだ。
「……悔しいけれど、胃袋に貴賎なし、ですわね」
口元についたソースを拭いながら、マーガレットは少しだけ悔しそうに、けれど満足げに微笑んだ。エレナのお弁当マウントは、見事に令嬢たちの心を陥落させたのである。
朝の北の塔に、エレナの悲鳴が響き渡った。
リビングでは、白い毛玉――シフォンが、エレナの靴を口に咥え、器用にソファの上を跳ね回っている。「キュウ! キュッ!」と鳴くその姿は、「遊んでくれないと返さないぞ」と主張していた。
「もう、時間がないんです! 遅刻したら始末書ものなんですよ!」
エレナが必死に捕まえようとするが、魔獣特有の身体能力を持つシフォンは残像を残して回避する。
時計の針は無情にも進み、始業時刻まであと二十分。北の塔から教育棟までは、普通に歩いてちょうど二十分。道中でお貴族様に世間話でもされたら、確実に遅刻する。かといって走って行っても「品がない」と叱責されるだろう。
「……終わりました」
エレナはその場にへたり込んだ。侍女見習いとして初週から遅刻。しかも理由は「ペットと遊んでいたから」。マーサの冷ややかな視線と、マーガレットの勝ち誇った顔が脳裏をよぎる。
その時、寝癖頭のシルヴィスが欠伸をしながら起きてきた。
「……朝から騒々しいぞ。何事だ」
「シルヴィス様……シフォンが靴を……これでは間に合いません……」
「なんだ、そんなことか」
シルヴィスは指をパチンと鳴らした。瞬間、シフォンの体が宙に浮き、咥えていた靴がエレナの足元にポトリと落ちた。
「キュ~……」と不満げに鳴くシフォンを無視し、シルヴィスはエレナの手を引いて立たせた。
「靴を履け。送ってやる」
「え? でも、馬車の手配なんて今からじゃ……」
「誰が馬車など使うと言った。……しっかり掴まっていろ。舌を噛むぞ」
エレナが慌てて靴を履くと、シルヴィスは躊躇なく彼女の腰を抱き寄せた。そして、バルコニーへと出る。
「え、まさか……ここから?」
「最短ルートを行く」
シルヴィスが魔術の詠唱を短く紡いだ。
「――浮遊、疾風」
ふわり、と二人の体が重力を失った。次の瞬間、強烈な風がエレナを襲った。北の塔のバルコニーから、二人の体が弾丸のように空へと射出されたのだ。
「きゃあああああっ!?」
エレナの悲鳴が風に流される。眼下には王宮の庭園がミニチュアのように広がり、分厚い空気の層が頬を叩く。本来なら恐怖で竦むような高さと速度だが、腰を支える彼の腕の温もりが、不思議な安心感を与えていた。
「目を開けろ。もう着くぞ」
数秒にも数分にも感じられた空の旅。シルヴィスは教育棟の中庭上空で急停止すると、今度は羽根が舞い落ちるように優雅に降下を始めた。
地上にいた令嬢たちが、空を見上げてざわめき始める。
「見て、何か降りてくるわ!」
「鳥? いいえ、人よ!」
「まさか、天使……?」
優雅な着地。ふわりとドレスの裾が舞い、エレナとシルヴィスは中庭の芝生の上に音もなく降り立った。
『キャアアアッ!?』
周囲から黄色い悲鳴が上がる。空から舞い降りた美貌の魔術師と、その腕に抱かれた侍女。それはまるで、お伽話のワンシーンのようだった。
「……ふん。余裕で間に合ったな」
シルヴィスは何食わぬ顔で呟くと、まだ足が震えているエレナを支えたまま言った。
「ほら、着いたぞ」
「シ、シルヴィス様!? 王宮上空での飛行魔術は、防衛結界に引っかかるので禁止のはずでは!?」
「俺の侍女が遅刻しそうなのだ。これ以上の緊急事態がどこにある。そもそも、その防衛結界を張っているのは俺だ」
シルヴィスは悪びれもせず言い放った。そして、周囲の令嬢たちが「クローデル卿だわ!」「空を飛んで送ってくるなんて……!」と熱狂する中、彼はエレナの耳元で囁いた。
「……行ってこい。それと夕飯はハンバーグを所望する」
「……は、はい! いってきます!」
シルヴィスは再び風を纏い、今度は一人で空高く舞い上がって去っていった。嵐のような登校劇。エレナは真っ赤な顔で一礼し、教室へと駆け込んだ。
***
「……それで? あの派手な登場は、わたくしたちへの牽制のおつもり?」
昼休み。教育棟のサロンで、マーガレットが呆れたように言った。彼女のテーブルには、専属シェフが作ったという豪勢なランチボックスが広げられている。
「違います。単なる……我が主の過保護です」
「ふん、愛されていること。……で、貴女は何を食べるの? 食堂に行きますの?」
周りの令嬢たちは、サロンで優雅に紅茶を飲んだり、実家から届けられた弁当を広げたりしている。平民のエレナには、そんな優雅なランチは縁遠いと思われているのだろう。
「いえ。私も持参しました」
エレナは鞄から、木製の曲げわっぱを取り出した。包みを開けると、ふわりと食欲をそそる香りが漂った。
「あら……?」
中から現れたのは、宝石箱のように詰められた色鮮やかな料理たちだった。メインは、昨夜の残りのローストビーフを薄く切り、自家製ソースを絡めたもの。脇を固めるのは、彩り野菜のピクルス、出汁をたっぷり含んだ厚焼き玉子、そして飾り切りされたラディッシュ。ご飯の上には、甘辛く煮た牛時雨煮が乗せられている。
「『昨晩の残り物詰め合わせ弁当』です」
エレナは謙遜して言ったが、その見た目と香りは、令嬢たちの豪華なランチを圧倒していた。特に、ローストビーフから漂う、ニンニクと醤油、そして蜂蜜の甘い香りが、サロン中の空腹を刺激する。
「……な、なによそれ。平民の料理にしては、随分と美味しそうじゃないの」
マーガレットが、ゴクリと喉を鳴らして身を乗り出した。
「残り物ですけれど、味は保証しますよ。……一つ、いかがですか?」
「べ、別に欲しくなんてありませんわ! ……でも、貴女がどうしても食べてみてほしいと言うなら、毒見してあげなくもありませんわよ?」
典型的なツンデレ反応を見せるマーガレットに、エレナは苦笑しながらローストビーフを一切れ差し出した。マーガレットは優雅にフォークで口に運ぶ。
「……っ!」
咀嚼した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。冷めているのに、肉は驚くほど柔らかい。噛むたびに溢れる肉の旨味と、甘辛いソースが絶妙に絡み合う。
「……美味しい……」
「良かったです。クローデル様も、これがお好きなんですよ」
「道理で……。この料理で魔術師様の胃袋を掴んだわけですわね」
マーガレットの声に、他の令嬢たちも集まってきた。
「まあ、マーガレット様がそこまで仰るなんて」
「私にも一口いただけます?」
「私、フルーツと交換してくださる?」
あっという間に、エレナの席は即席の試食会場となった。「この卵焼き、どうしてこんなにふわふわなの?」「野菜が甘い!」と称賛の声が上がる。
「ふふ、レシピならいつでもお教えしますよ」
エレナが微笑むと、令嬢たちの瞳から、当初のような冷たい警戒色は消えていた。美味しいものは、身分の壁さえも溶かす。かつて北の塔で証明した事実を、エレナはここでも再現してみせたのだ。
「……悔しいけれど、胃袋に貴賎なし、ですわね」
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