王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする

葉山あおい

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前日譚 エレナ・フォスターが鉄の女と呼ばれるまで

第三話 戦場の厨房とひとさじの蜂蜜

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 王宮で働き始めたエレナは、下働きという名の雑事に追われていた。

 王宮に務める従者には明確な階級が存在する。

【下働き→執事・メイド→執事長・メイド長→侍女見習い→侍女→侍女頭補佐→侍女頭→従事長】

 使用人の中でも最下層に位置する下働きがやることは、もっぱら面倒で汚い仕事ばかりだった。

 床磨き、食料品の運搬、汚物や排泄物の汲み取り、洗濯、煙突掃除、他にもたくさん。

 その日、エレナが担当していたのは、厨房での皿洗いだった。

 王宮の厨房は、他の使用人――メイドや執事とは異なる階級を持っている。

【下働き→料理人→副料理長→料理長→従事長】

 一見するとメイドとそれほど違いが無いようにも思えるが、厨房の下働きは期間がとてつもなく長い。どんなに短くても十年。場合によって二十年の時を経て、ようやく料理人を名乗れる。

 王族が口にするものを扱うわけだから、最高の一品を作るのは当たり前として、信頼と信用、毒物や呪いに対する知識など、幅広い経験と実績が要求される。

 手伝いとして来ているエレナは例外だが、周囲にいる厨房の人間は一様に殺気だった雰囲気を纏っている。料理好きの衛兵が転職してくるケースも多く、全体的にゴツイ男が多かった。

 飛び交う怒号、立ち上る湯気、ガチャガチャと鳴り響く調理器具の金属音。そこは男たちの城であり、力と技だけが支配する場所だ。

 そんな荒々しい空間の片隅にある洗い場で、エレナは来る日も来る日も、山のように積まれた皿と格闘していた。

「おい新入り! 皿が足りねぇぞ! もっと早く回せ!」

「はい! ただいま!」

 怒鳴り声に負けない大声で返し、エレナは熱湯に手を突っ込む。手はすでに洗剤と湯で荒れ、指先はひび割れていたが、痛みを感じている暇などない。

 王宮の晩餐会、貴族たちの茶会、そして数百人に及ぶ使用人たちの食事。ここから出る汚れ物は無限に湧いてくる魔物のようだった。

(負けるもんか。これくらい)

 エレナは唇を引き結び、スポンジを走らせる。

 パン屋の娘として育ったエレナにとって、厨房の熱気や食材の匂いは、どこか懐かしく、心を落ち着かせるものでもあった。油の焦げる匂い、ハーブの清涼感、煮込まれるブイヨンの濃厚な香り。それらが混然一体となって鼻腔をくすぐる

 皿を洗いながらも、エレナの鼻は無意識に厨房全体の状況を嗅ぎ取っていた。

(あ、あっちのスープは煮詰まってきた。こっちは肉が焼けるいい匂い)

 そんなある日のことだった。厨房の中央、一番大きな鍋の前で、料理長が眉間に深い皺を刻んで立ち尽くしていた。

 彼は王宮の食を預かる責任者であり、その腕は国一番と称される気難しい職人だ。

 その彼が、テイスティング用の小皿を片手に、何度も首を傾げている。

「……何かが足りん」

 煮込んでいるのは、鹿肉のローストに合わせる特製の赤ワインソースだ。

 周囲の料理人たちも固唾を呑んで見守る中、シェフは塩を足し、胡椒を振り、それでも納得いかない様子で唸っている。

 洗い場から新しい皿を運んできたエレナは、その鍋の横を通り過ぎざま、ふわりと漂ってきた香りに鼻をひくつかせた。

 赤ワインの酸味と、フォンドボーの旨味。でも、どこか角が立っている。

(……あ)

 かつて母が、同じような匂いのシチューを作っていた時のことを思い出した。

(あの時、お母さんは何を入れていたっけ)

 思考するより先に、独り言が口をついて出た。

「……蜂蜜」

 その声は、喧騒の中でも不思議と通りがよかった。

 ピタリ、とシェフの手が止まる。

 厨房の空気が凍りついた。料理人たちが一斉にギョッとした顔でエレナを見る。

 ただの皿洗いの小娘が、あろうことか料理長の味付けに口を出したのだ。しまった、と思った時にはもう遅い。シェフがゆっくりと振り返り、鋭い眼光でエレナを睨みつけた。

「……おい。今、何て言った?」

「あ、いえ! その、独り言で……!」

「蜂蜜だと?」

 シェフは大股でエレナに歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。怒られる。

 エレナが身を縮こませた、その時。シェフは無言で近くにあった蜂蜜の瓶を掴み、スプーン一杯分を鍋に垂らした。

 木べらで静かにかき混ぜ、再び味を見る。一口含んだ瞬間、シェフの目が大きく見開かれた。

「……これだ」

 先ほどまでの角が取れ、まろやかなコクと深みが生まれている。蜂蜜の隠し味が、すべての素材を繋ぎ合わせたのだ。

 シェフはニヤリと口角を上げ、エレナを見た。

「お前、名前は?」

「え、エレナです」

「エレナか……」

 シェフは豪快に笑うと、エレナの背中をバンと叩いた。

「皿洗いの合間でいい。あっちのジャガイモの皮むきを手伝え。包丁は使えるか?」

「は、はい! 使えます!」

「よし。全員ボサッとしてんな! さっさとまわすぞ!」

「「「ウィ、シェフ!!」」」

 管轄違い、ではある。エレナはメイドであって、料理人を目指しているわけではない。だが、料理長が食材に触ることを許可した事実は、ただの下働きから、料理人を目指すことを認められた証でもあった。

 男たちの戦場に、たった一輪咲いた野花のような少女。だが、その花は踏まれても折れない強さと、確かな才能の種を秘めていた。

 エレナは赤く腫れた手でエプロンを締め直した。山積みの皿が、少しだけ輝いて見えた気がした。
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