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第一部
落ちた女 ④
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「ごめんなさい、お待たせしちゃって」
小百合は謝罪しながら待ち人の向かいに座った。手提げのバッグを空いている隣の椅子の上に置く。
注文を取りに来た店主にホットコーヒーを注文する。その際、田島のコーヒーが減っていないのを確認した店主が、一瞬だが不満げな表情を浮かべた。田島がそれに気づいたかはわからないが、彼はていねいな態度で水のおかわりを頼んだ。
店主がテーブルを離れると、小百合は沈黙を嫌って先に口を開いた。
「本当に久しぶりよね。何年ぶり?」
「三十年近くになるね」
「そっか、もうそんなに……」
三十年という月日に改めて衝撃を受け、小百合は少し呆然としてしまう。やがて、相手の左手薬指の指輪を確認してから訊ねた。
「田島君、子どもは?」
「いや……。ぼくも妻も望んでたんだけど、結局……」
「そう……」
「勝野さんのほうは、お子さんは?」
久しぶりに旧姓で呼ばれたことに新鮮さを覚えながら、三人いるわ、と小百合は答えた。
「それも男の子ばかり三人よ。もう、毎日大変なんだから」
ここで、小百合が注文したコーヒーと田島が頼んだ水がテーブルの上に置かれた。その後は他愛のない会話が続いた。長男が大学で野球をやっていることや、兄弟で性格がだいぶ違うというようなことを話した。おもに子どもの話題が中心となった。その間ずっと、小百合は田島の鼻の傷跡が気になっていたが、触れてはいけない気がして聞くに聞けずにいた。その傷跡以上に気になっていたのは、彼の目的だ。彼が何を語るつもりでいるのか想像もできなかったが、それはきっと自分にとって愉快な話ではないだろうと確信して本題に入るのを恐れた。かといって、いつまでも世間話を続けるわけにもいかない。会話が途切れたところで、小百合は意を決して切り出した。
「田島君。今日はどうして、わたしに……」
相手は水を一口飲んでから、さも何でもないという風な感じで答えた。
「ぼくらはあのとき、とても曖昧な別れ方をしてしまったからね。だから気持ちを整理するためにも、一度会っておきたいと思って」
別れの原因を作ったのが自分にあることを思い出して、小百合は自分の顔がこわばるのがわかった。
緊張が相手に伝わったのか、彼は慌てて言葉をつないだ。
「いや、勘違いしないでほしいんだ。今日は過去のことをいちいち詮索しに来たわけじゃない。ただ会って、少しでも話ができたらと思っただけだから」
詮索しないという言葉を聞いて、小百合はいくらか警戒心を解いたが、彼を裏切ったことへの罪悪感がジワジワとよみがえってきて胸が苦しくなった。やがて、愚かで浅はかだった過去の自分に対しての怒りに変わる。気づけば、涙がこぼれ落ちていた。
流れる涙に気づいたらしく、田島がバツが悪そうに少しうつむく。
小百合はハンカチで涙を拭うと苦笑して見せた。
「ごめんなさい……。いい年してみっともないわよね」
「いや、そんなこと……」
小百合は涙でうるんだ瞳を田島に向けると、毅然とした態度を作って言った。
「本当なら、わたしのほうから会いにいくべきだったんだと思う。それも、もっと早くに。今さら遅いかもしれないけど、わたし、田島君に謝りたい」
田島が笑顔を浮かべた。
「もう過ぎたことだよ。さっき、詮索しないって言ったろ。今日はあることをする前に、一度君の顔を見ておきたかっただけなんだから」
「え? あること?」
小百合はとっさに反応した。
相手は失言に気づいたようだ。顔が少し引きつっている。
「……田島君。あなた、何をしようとしているの?」
小百合は真剣な眼差しを向ける。相手は視線を外し、いや何も、と口ごもる。ようやく気づいた。彼がただの気まぐれで会いに来たわけではなかったことに。彼は何かをしようとしている。それも何かよからぬことを——。
バカな真似はしないでと言いたかったが、一度彼を裏切っている自分が言える台詞だとも思えず、その言葉は飲み込むしかなかった。
小百合は冷えたコーヒーを口に運ぶ。このとき、スーパーで働きはじめてすぐのころ、この店で飲んだコーヒーの不味さにそれ以降一度も足を運んでいなかったことを思い出す。田島との待ち合わせにこんな店を選んでしまったことに強い憤りを覚えた。他に適当な場所がなかったとはいえ、自分がとても安っぽく思えた。
ここのコーヒーっておいしくないよね、と軽口でも叩きたかったが、彼とはもう恋人同士だったころの親しい間柄ではない。それを思うと、またこみ上げてくるものがあり、涙がさらににじむ。ふと、テーブルの上に置かれたスマホに目がとまる。あのころはケータイなんてなかったんだよなと思う。そしていつの間にか、二歳年下の夫と田島を比べていた——。
突然現れたかつての恋人は、夫とは比較にならないほど素敵な男性になっていた。当時は少し頼りない印象があったが、そんな面影は鳴りを潜め、年相応の落ち着いた雰囲気と品のよさを兼ね備えていた。昔から容姿は良かったが、そこに大人の色気が加わっている。だが、見た目よりも注目すべきは彼の経済力だったろう。着ているスーツと左手に巻かれた腕時計を見れば、夫の収入をはるかに超えていることは想像に難くない。彼のスーツ一着分の金額で、夫が持つ安物のスーツが何着買えることやら——。
田島の妻が妬ましく思えた。高校時代に間違いさえ犯さなければ、自分が彼の隣にいた可能性も少なからずあったのだ。それを思うと、無性に悔しさが込み上げてくる。目の前に座るかつての恋人は、口を開くたびに白い歯を覗かせるが、夫の黄ばんだ前歯を思い出すと、心底げんなりしてしまう。いったいこの差は何なんだ。なぜ、今の夫を選んでしまったのか。自分の美貌なら、いくらでも高望みできたはずなのに——。
テーブルの下に視線を向けて、膝の上に置かれた両手をこすり合わせる。少し手指が乾燥していた。ハンドクリームを塗りたくなった。
夫となる男とは、二十五歳のときに友人の紹介という形で知り合った。とくに強く惹かれたわけではなかったが、見た目が合格点だったことと、相手からの積極的なアプローチもあって、何度かデートを重ねたのちに自然な形で交際に発展した。共通の趣味はあまりなかったが、交際は割と順調に続いた。からだの相性が良かったことが要因だったろう。交際からおよそ一年後、妊娠をきっかけに結婚を決めた。孫の顔が早く見たいと言っていた両親も喜んでくれた。しかし、その選択を小百合は一生悔やむことになる。
当初、妊娠は結婚に踏み切るいいきっかけになったとポジティブにとらえた。だが、焦りの気持ちがそう思わせたのだとあとになって気づく。友人や会社の同僚たちが次々と結婚していく中、乗り遅れたくないという気持ちが結婚を急がせたのだ。当時は、若くして結婚することが一種のステータスだと信じていたから、社会人になって極端に出会いが少なくなった現実も後押しして、交際当初から懸念していた相手の向上心のなさや収入面の不安などは見て見ぬふりをした。結婚すれば、すべての問題は解決するだろうと信じて——。
後悔はすぐに訪れた。結婚後は専業主婦として気楽に暮らせるだろうとたかをくくっていたが、OLを辞めたことで自由にできる金がまったくないことに気づき愕然とした。夫の収入だけでは少しの贅沢も許されず、必然的に、生まれたばかりの長男を保育所にあずけ、パート勤めを強いられることになる。
長男が独りでは可哀相だと思い二人目を作り、どうしても女の子がほしくて三人目を作り——結局、三人目も男児だったが——そのため、生活はどんどん苦しくなっていった。同時に、収入がまったく上がらない夫に対する憎悪も増していった。
一部の幸運な友人たちは、生活費の心配をすることなくエステに行ったり、銀座で高級ランチを楽しんだり、セールの時期など気にせず買い物ができたりと、自由気ままな暮らしを楽しんでいた。それもすべて、旦那の稼ぎでだ。自分よりも遥かに容姿で劣る友人たちのそんな生活を見て、憤らずにはいられなかった。彼女らがストレスとは無縁の生活を送っているいっぽうで、自分はスーパーのレジで愛想を振りまき続けているのだ。夫を憎んで当然だった。また、そんな男を選んだ自分も許せなかった。結婚相手を妥協した結果、優雅にお茶も飲めない生活を強いられてしまったのだ。
なぜ、社会人になってからも週刊少年ジャンプを毎週欠かさず読むような男を選んでしまったのか。なぜ自分は、向上心のかけらもない男を人生の伴侶に選んでしまったのか。今思えば、母性本能が思考を曇らせたことは間違いなかった。なぜなら、当初は相手の未熟さが愛おしく感じられたほどだからだ。きっと、自分と同じように、母性本能が邪魔をして致命的な判断ミスをした女性は少なくないだろう。
当時は若さゆえに、二十代が人生の絶頂期だと信じ込み、その後も何十年となく人生が続くということを理解していなかった。だからこそ、二十代での結婚に固執してしまった。結婚がゴールになっていて、結婚後のことは何一つ考えていなかった。いつまでも手をつないでいられるような仲のいい夫婦でいられたらいいな程度の、漠然としたイメージしかなかった。今思えば、とんでもなくずさんな人生設計だった。いちばん大事な選択を運任せにしたようなものだ。もう一つ言えば、当時は妊娠イコール結婚と決めつけていたが、堕胎という選択肢もあったのだ。もちろん長男を愛してはいたが、この働きづめの生活を思うと代償は大き過ぎた。
ときに結婚生活への不満から、結婚のきっかけとなった大学生の長男を見ては複雑な想いになることもあった。だが、次男や三男よりも、長男をより深く愛していた。はじめての出産の感動が大きかったせいもあるだろう。長男が誕生したときは、それまで籍は入れていたが、どことなく他人のようにも感じられていた夫との間に絆が生まれ、本当の家族になれたような気がした。しかし、そんな気持ちも遠い昔の話で、今は家族とはいえ、夫は嫌悪の対象でしかなかった。夫婦間での会話は、もう久しく前からなくなっていた。髪も薄くなりはじめ、身だしなみにもほとんど気をかけなくなった夫は、休日はテレビを見てるかゲームに興じているかで、一日中ソファに横になっていた。そんなだらしない姿を見るたびに殺意を覚えた。もっと若いうちに、さっさと見切りをつけて離婚に踏み切らなかったことが悔やまれた。
コーヒーの香りで、意識は現実世界に引き戻された。冴えない喫茶店の店内が、急にリアルに迫ってくるように感じられた。半生を呪っている間、どのくらいの時が流れたのか。
小百合は目の前に座る田島を見ていて、ふと、すべてを投げ捨てて彼とやり直したいという淡い願望が脳裏をよぎった。だが、そんな幻想はすぐに吹き飛んだ。当然、そんなことは不可能だからだ。
自分はあの日、甘い誘惑に負けて田島を簡単に裏切り、最悪の事態を招いてしまった。あの日に自分は、人生のボタンを掛け違えてしまったのだ。おそらく自分は、あの日の罰を今も受け続けているのだろう。それは、これから先も生きている限り続くのかもしれない——。
重苦しい沈黙を破るため、小百合は再び田島に問いかけた。
◈
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小百合は謝罪しながら待ち人の向かいに座った。手提げのバッグを空いている隣の椅子の上に置く。
注文を取りに来た店主にホットコーヒーを注文する。その際、田島のコーヒーが減っていないのを確認した店主が、一瞬だが不満げな表情を浮かべた。田島がそれに気づいたかはわからないが、彼はていねいな態度で水のおかわりを頼んだ。
店主がテーブルを離れると、小百合は沈黙を嫌って先に口を開いた。
「本当に久しぶりよね。何年ぶり?」
「三十年近くになるね」
「そっか、もうそんなに……」
三十年という月日に改めて衝撃を受け、小百合は少し呆然としてしまう。やがて、相手の左手薬指の指輪を確認してから訊ねた。
「田島君、子どもは?」
「いや……。ぼくも妻も望んでたんだけど、結局……」
「そう……」
「勝野さんのほうは、お子さんは?」
久しぶりに旧姓で呼ばれたことに新鮮さを覚えながら、三人いるわ、と小百合は答えた。
「それも男の子ばかり三人よ。もう、毎日大変なんだから」
ここで、小百合が注文したコーヒーと田島が頼んだ水がテーブルの上に置かれた。その後は他愛のない会話が続いた。長男が大学で野球をやっていることや、兄弟で性格がだいぶ違うというようなことを話した。おもに子どもの話題が中心となった。その間ずっと、小百合は田島の鼻の傷跡が気になっていたが、触れてはいけない気がして聞くに聞けずにいた。その傷跡以上に気になっていたのは、彼の目的だ。彼が何を語るつもりでいるのか想像もできなかったが、それはきっと自分にとって愉快な話ではないだろうと確信して本題に入るのを恐れた。かといって、いつまでも世間話を続けるわけにもいかない。会話が途切れたところで、小百合は意を決して切り出した。
「田島君。今日はどうして、わたしに……」
相手は水を一口飲んでから、さも何でもないという風な感じで答えた。
「ぼくらはあのとき、とても曖昧な別れ方をしてしまったからね。だから気持ちを整理するためにも、一度会っておきたいと思って」
別れの原因を作ったのが自分にあることを思い出して、小百合は自分の顔がこわばるのがわかった。
緊張が相手に伝わったのか、彼は慌てて言葉をつないだ。
「いや、勘違いしないでほしいんだ。今日は過去のことをいちいち詮索しに来たわけじゃない。ただ会って、少しでも話ができたらと思っただけだから」
詮索しないという言葉を聞いて、小百合はいくらか警戒心を解いたが、彼を裏切ったことへの罪悪感がジワジワとよみがえってきて胸が苦しくなった。やがて、愚かで浅はかだった過去の自分に対しての怒りに変わる。気づけば、涙がこぼれ落ちていた。
流れる涙に気づいたらしく、田島がバツが悪そうに少しうつむく。
小百合はハンカチで涙を拭うと苦笑して見せた。
「ごめんなさい……。いい年してみっともないわよね」
「いや、そんなこと……」
小百合は涙でうるんだ瞳を田島に向けると、毅然とした態度を作って言った。
「本当なら、わたしのほうから会いにいくべきだったんだと思う。それも、もっと早くに。今さら遅いかもしれないけど、わたし、田島君に謝りたい」
田島が笑顔を浮かべた。
「もう過ぎたことだよ。さっき、詮索しないって言ったろ。今日はあることをする前に、一度君の顔を見ておきたかっただけなんだから」
「え? あること?」
小百合はとっさに反応した。
相手は失言に気づいたようだ。顔が少し引きつっている。
「……田島君。あなた、何をしようとしているの?」
小百合は真剣な眼差しを向ける。相手は視線を外し、いや何も、と口ごもる。ようやく気づいた。彼がただの気まぐれで会いに来たわけではなかったことに。彼は何かをしようとしている。それも何かよからぬことを——。
バカな真似はしないでと言いたかったが、一度彼を裏切っている自分が言える台詞だとも思えず、その言葉は飲み込むしかなかった。
小百合は冷えたコーヒーを口に運ぶ。このとき、スーパーで働きはじめてすぐのころ、この店で飲んだコーヒーの不味さにそれ以降一度も足を運んでいなかったことを思い出す。田島との待ち合わせにこんな店を選んでしまったことに強い憤りを覚えた。他に適当な場所がなかったとはいえ、自分がとても安っぽく思えた。
ここのコーヒーっておいしくないよね、と軽口でも叩きたかったが、彼とはもう恋人同士だったころの親しい間柄ではない。それを思うと、またこみ上げてくるものがあり、涙がさらににじむ。ふと、テーブルの上に置かれたスマホに目がとまる。あのころはケータイなんてなかったんだよなと思う。そしていつの間にか、二歳年下の夫と田島を比べていた——。
突然現れたかつての恋人は、夫とは比較にならないほど素敵な男性になっていた。当時は少し頼りない印象があったが、そんな面影は鳴りを潜め、年相応の落ち着いた雰囲気と品のよさを兼ね備えていた。昔から容姿は良かったが、そこに大人の色気が加わっている。だが、見た目よりも注目すべきは彼の経済力だったろう。着ているスーツと左手に巻かれた腕時計を見れば、夫の収入をはるかに超えていることは想像に難くない。彼のスーツ一着分の金額で、夫が持つ安物のスーツが何着買えることやら——。
田島の妻が妬ましく思えた。高校時代に間違いさえ犯さなければ、自分が彼の隣にいた可能性も少なからずあったのだ。それを思うと、無性に悔しさが込み上げてくる。目の前に座るかつての恋人は、口を開くたびに白い歯を覗かせるが、夫の黄ばんだ前歯を思い出すと、心底げんなりしてしまう。いったいこの差は何なんだ。なぜ、今の夫を選んでしまったのか。自分の美貌なら、いくらでも高望みできたはずなのに——。
テーブルの下に視線を向けて、膝の上に置かれた両手をこすり合わせる。少し手指が乾燥していた。ハンドクリームを塗りたくなった。
夫となる男とは、二十五歳のときに友人の紹介という形で知り合った。とくに強く惹かれたわけではなかったが、見た目が合格点だったことと、相手からの積極的なアプローチもあって、何度かデートを重ねたのちに自然な形で交際に発展した。共通の趣味はあまりなかったが、交際は割と順調に続いた。からだの相性が良かったことが要因だったろう。交際からおよそ一年後、妊娠をきっかけに結婚を決めた。孫の顔が早く見たいと言っていた両親も喜んでくれた。しかし、その選択を小百合は一生悔やむことになる。
当初、妊娠は結婚に踏み切るいいきっかけになったとポジティブにとらえた。だが、焦りの気持ちがそう思わせたのだとあとになって気づく。友人や会社の同僚たちが次々と結婚していく中、乗り遅れたくないという気持ちが結婚を急がせたのだ。当時は、若くして結婚することが一種のステータスだと信じていたから、社会人になって極端に出会いが少なくなった現実も後押しして、交際当初から懸念していた相手の向上心のなさや収入面の不安などは見て見ぬふりをした。結婚すれば、すべての問題は解決するだろうと信じて——。
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長男が独りでは可哀相だと思い二人目を作り、どうしても女の子がほしくて三人目を作り——結局、三人目も男児だったが——そのため、生活はどんどん苦しくなっていった。同時に、収入がまったく上がらない夫に対する憎悪も増していった。
一部の幸運な友人たちは、生活費の心配をすることなくエステに行ったり、銀座で高級ランチを楽しんだり、セールの時期など気にせず買い物ができたりと、自由気ままな暮らしを楽しんでいた。それもすべて、旦那の稼ぎでだ。自分よりも遥かに容姿で劣る友人たちのそんな生活を見て、憤らずにはいられなかった。彼女らがストレスとは無縁の生活を送っているいっぽうで、自分はスーパーのレジで愛想を振りまき続けているのだ。夫を憎んで当然だった。また、そんな男を選んだ自分も許せなかった。結婚相手を妥協した結果、優雅にお茶も飲めない生活を強いられてしまったのだ。
なぜ、社会人になってからも週刊少年ジャンプを毎週欠かさず読むような男を選んでしまったのか。なぜ自分は、向上心のかけらもない男を人生の伴侶に選んでしまったのか。今思えば、母性本能が思考を曇らせたことは間違いなかった。なぜなら、当初は相手の未熟さが愛おしく感じられたほどだからだ。きっと、自分と同じように、母性本能が邪魔をして致命的な判断ミスをした女性は少なくないだろう。
当時は若さゆえに、二十代が人生の絶頂期だと信じ込み、その後も何十年となく人生が続くということを理解していなかった。だからこそ、二十代での結婚に固執してしまった。結婚がゴールになっていて、結婚後のことは何一つ考えていなかった。いつまでも手をつないでいられるような仲のいい夫婦でいられたらいいな程度の、漠然としたイメージしかなかった。今思えば、とんでもなくずさんな人生設計だった。いちばん大事な選択を運任せにしたようなものだ。もう一つ言えば、当時は妊娠イコール結婚と決めつけていたが、堕胎という選択肢もあったのだ。もちろん長男を愛してはいたが、この働きづめの生活を思うと代償は大き過ぎた。
ときに結婚生活への不満から、結婚のきっかけとなった大学生の長男を見ては複雑な想いになることもあった。だが、次男や三男よりも、長男をより深く愛していた。はじめての出産の感動が大きかったせいもあるだろう。長男が誕生したときは、それまで籍は入れていたが、どことなく他人のようにも感じられていた夫との間に絆が生まれ、本当の家族になれたような気がした。しかし、そんな気持ちも遠い昔の話で、今は家族とはいえ、夫は嫌悪の対象でしかなかった。夫婦間での会話は、もう久しく前からなくなっていた。髪も薄くなりはじめ、身だしなみにもほとんど気をかけなくなった夫は、休日はテレビを見てるかゲームに興じているかで、一日中ソファに横になっていた。そんなだらしない姿を見るたびに殺意を覚えた。もっと若いうちに、さっさと見切りをつけて離婚に踏み切らなかったことが悔やまれた。
コーヒーの香りで、意識は現実世界に引き戻された。冴えない喫茶店の店内が、急にリアルに迫ってくるように感じられた。半生を呪っている間、どのくらいの時が流れたのか。
小百合は目の前に座る田島を見ていて、ふと、すべてを投げ捨てて彼とやり直したいという淡い願望が脳裏をよぎった。だが、そんな幻想はすぐに吹き飛んだ。当然、そんなことは不可能だからだ。
自分はあの日、甘い誘惑に負けて田島を簡単に裏切り、最悪の事態を招いてしまった。あの日に自分は、人生のボタンを掛け違えてしまったのだ。おそらく自分は、あの日の罰を今も受け続けているのだろう。それは、これから先も生きている限り続くのかもしれない——。
重苦しい沈黙を破るため、小百合は再び田島に問いかけた。
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