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第十五話 『霧の獣、忍び寄る罠』
しおりを挟む森の空気は、帰り道の方が重たく感じた。
葉擦れの音は遠く、鳥の声も減っていた。
それでもクロは、軽やかに歩を進めていた。
(《赫殻式》……まあ、まだ全然だな)
魔核を作って、ようやく力の基礎が戻り始めた。
今朝の戦闘での感触は——
(軌道は把握してる。力の流し方もわかる)
(けど、身体がついてこない)
(今はせいぜい、一割。下手に無理すりゃ、こっちが折れる)
力任せに突けば、肘に鈍い痛みが走った。
骨も筋も、まだ“魔族”時代の水準には程遠い。
(……ほんと、人間の体ってヤワだな)
それでも、少しずつ“使える感覚”が戻ってきているのは確かだった。
焦る必要はない。じわじわと追い上げればいい。
「クロ様、少しペースを落としていただけますか……!」
後ろからミレイアの声。
クロは振り返って、ちょっと悪びれたように笑った。
「悪い。つい調子が良くてな」
「調子に乗っても死んでは意味がありませんから!」
口は厳しいが、表情に余裕が戻ってきていた。
それが、森の静寂にかき消されていくまでは——あと、わずかだった。
•
最初に気づいたのは、空気の匂いだった。
「……ん?」
クロが立ち止まる。
鼻の奥に、土とも草ともつかない“こもった臭気”が届いていた。
次いで、視界。
辺りがうっすらと白く霞んでいる。
霧——だが、ただの気象現象にしては、濃さが異常だった。
「おい、ミレイア。これ——」
「クロ様、止まらないで!」
ミレイアが声を荒げて前に出る。
その顔は、明らかに恐怖に染まっていた。
「これは……靄獣の霧です!」
「えん……じゅう?」
クロが眉をひそめると、ミレイアは頷いた。
「この森に潜む魔獣の一種です。自分の体から霧を発生させて、獲物の視界と感覚を狂わせる……!」
「感覚まで、か」
「ええ。目だけじゃなく、耳、鼻、平衡感覚、方向感覚——全部がおかしくなるんです」
ミレイアはすぐに腰の袋から、小さな護符を取り出した。
折りたたまれた紙片には、淡い銀の魔術刻印が走っている。
「これを胸元に。霧の干渉を一時的に遮断できます」
「へぇ、用意がいいな」
「屋敷の備蓄から黙って持ち出してきました。今怒られても文句は言いません」
クロは笑って受け取り、胸元に護符を差し込む。
触れた瞬間、冷たい魔力の膜がじわりと広がった。
「霧の範囲が広がる前に、急ぎましょう。走るのは危険です。歩幅を合わせて、耳で気配を感じてください」
「了解」
二人は慎重に歩き始めた。
すでに森の輪郭は薄れ、どこを見ても同じような灰色の空間に変わっていた。
「……この靄獣、どんな姿なんだ?」
「実は、誰も正確には見たことがありません。目撃者は大抵、気を失って発見されるか——行方不明になります」
「へえ……」
(つまり、未確認ってことか)
クロの目が、薄い霧の中を横切る何かを捉えた。
「……気配が、増えてる」
視線の先で、霧の中にわずかな“動き”がある。
音もなければ、匂いもない。ただ、確かに何かがいる。
ミレイアも、息を呑んで立ち止まった。
「クロ様。動きを止めないでください。止まったら……音も、気配も全部飲まれます」
「……わかった」
だが、クロの目はもう笑っていなかった。
霧の中に潜む“獣”の気配は、確かに“狩りの間合い”に入っていた。
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