ハルと、ふたり暮らし。

永文

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第11話:ずっと黙っていたこと

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 初夏の陽ざしがやさしく、風は少しだけ湿っていて、気づけば6月に入っていた。

 洗濯物はよく乾くけど、夜はじっとりと暑い。
 クーラーを入れるほどじゃない微妙な気温に、窓を開けて眠る夜が続いていた。

「……梅雨、そろそろ来るかな」

 アイスティーを飲みながらそう呟くと、悠は「たぶんね」とだけ返した。
 ベランダの手すりに干したシャツが、風にゆれている。
 たったそれだけの景色が、なぜか愛おしい。
 それなのに。

 その数時間後、一本の電話が、私の心に冷たい波紋を投げかけた。
 
________________________________________

 午後3時すぎ。
 スマホの画面に「母」の名前が表示された。

 少し珍しかった。
 ここ最近、母から連絡あまり来なかったから。
 再婚してから、なんとなく“親”というより“大人のひと”になったような距離を感じていた。

「久しぶり。元気?」

「うん、まあ。悠くんも、ちゃんと暮らしてるよ」

「そう。……実はね、少し話があって」

 その口調が、いつもと違った。
 胸の奥がざわついた。
 
「悠のことなんだけど……」

「……なにかあったの?」

「いえ、何かってわけじゃないの。ただ、ちょっと……今の生活をちょっと見直そうかな、って」

「……え?」

「再婚もしたことだし、彼の都合に合わせて引っ越そうと思ってるのよ。それで、もし悠が希望すれば、一緒に暮らせるように手続きも考えてるの」

「……待って。それってつまり、悠くんがここから引っ越すかもしれないってこと?」

「そう。高校入学に向けての環境も、考えてあげたいし」

 言葉が、胸の奥に突き刺さった。
 そのまましばらく何も言えずにいた。

「……わかった。本人にも、聞いてみるね」

 やっとの思いでそう答えた声は、いつもより少し低く震えていた。
 
________________________________________

 通話を終えたあと、スマホを胸に抱えたまま、私はしばらくソファに沈み込んだ。

「ここから……いなくなるかもしれない?」

 言葉にしてみると、想像以上に現実味を帯びて胸に刺さる。

 さっきまで笑っていた。
 一緒に紅茶を飲んで、アイスの味を比べていた。

 それが、急に“終わりかもしれない”なんて——

 怖かった。

 でも、それ以上に。
 私はずっと、黙っていた。

 この暮らしが続けばいいと願いながら、
 “姉以上の感情”を抱いていることを、何も伝えずにここまで来た。

 ずっと、ふりをしていた。
 「家族です」と、“いい子”の仮面をかぶって。

 でも、もしも——
 このまま彼がいなくなってしまったら、
 私は、何も言えないまま終わってしまう。
 
________________________________________

 夕方、リビングに悠が戻ってきた。

「カレー、温めとこうか?」

 私の問いかけに、彼は少し首を傾けて笑った。

「うん。……なんか、声、疲れてる?」

「え、そんなことないよ」

「……なにかあった?」

「……ううん、なんでもない」

 でも、なんでもないわけがなかった。
 彼のそのやさしさが、むしろ胸にしみた。

「……ねえ、悠くん」

「ん?」

「もし、今の暮らしが……ずっとは続かないって言われたら、どう思う?」

 その言葉が、口から出るまでに、何度も心の中で転がった。
 悠は目を細めて、私の顔をじっと見た。

「……そんなこと、考えたくないな」

「……だよね」

「だって俺、この家が一番落ち着くから」

 その一言に、泣きそうになった。
 でも泣いたら、きっと何かがこわれてしまう気がして、
 私はぐっと口を結んだ。
 
「なにかあったら、ちゃんと言って」

 悠はそう言って、自分の分のカレー皿を運んでいった。
 それだけのことが、今夜の私には、重たく響いた。
 
________________________________________

 夜。
 彼の寝室からは、かすかに本をめくる音だけが聞こえていた。
 私はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。

「言えなかったな」

 心の中で、そっとつぶやいた。

「好きだよ」って。
「いなくならないで」って。

 それを言葉にするには、私たちはあまりに“普通すぎる姉弟”で、でも心の中では、“そうじゃない気持ち”がずっと前から灯っていた。

 私がいちばん恐れていたのは——
 この気持ちを伝える前に、“終わり”が来てしまうこと。

 明日も、いつものように「おはよう」と言えるだろうか。
 その声が、明後日も、来週も、聞こえてくれるだろうか。

 答えは、まだない。
 でも、そろそろ言葉にしなきゃいけないのかもしれない。

 それでも。
 まだ、怖い。
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