ハルと、ふたり暮らし。

永文

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第15話:手を伸ばした夜

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 夕暮れの空が少し赤く染まって、
 窓から見える雲の輪郭が、いつもよりくっきりとしていた。

「今夜、雨が降るらしいよ」

 キッチンに立つ悠の声が、やけに静かに響いた。

「え? 風、ないのに?」

「雷雲が来てるって、ニュースで」

「……あ、そっか」

 そのとき私の手には、洗い物が少し残っていた。
 でも、泡を流しきれないまま、私はなぜか手を止めて、悠の背中を見ていた。

 ——この背中に、今日こそは言おう。
 そう思って、昨日も言えなかった。

 一歩が、怖い。
 でも、もう引き返せないところまで、来てしまってる。
 
________________________________________

 その夜、雨がほんとうに降り出した。

 ポツポツと窓を叩く音がリビングに広がる。
 風鈴は鳴らなかった。風が止まっている。

 その代わりに、胸の奥が揺れていた。
 ふたりでテレビを見ていたけれど、内容は何も入ってこない。

「……お姉ちゃん」

 急に呼ばれて、私はテレビの音を絞った。

「なに?」

「今日さ……母さんから、正式に連絡があった」

「……うん」

「再来週、引っ越すって」

 その言葉を聞いた瞬間、心がひやりと冷えた。

「……そっか」

「でね。俺も向こうに来ること、勧められたよ。でも……」

「うん……」

「断った」

 その言葉に、私は視線を上げた。

「……」

「“ここにいたい”って言った」

「……お母さんは?」

「ちょっと驚いてた。でも、俺の気持ちを聞いてくれた。ちゃんと」

 私は何か言いたかったけど、言葉が出てこなかった。
 代わりに、手が少しだけ震えていた。

 ——この手で、何かを守れるなら。
 でも、守りたいものの正体をまだ認めるのが、こわかった。
 
________________________________________

 夜10時を過ぎたころ。
 悠が自分の部屋へ戻ったあと、私は洗面所で髪を乾かしていた。

 ドライヤーの音の向こうで、
 風の音が一瞬強くなった気がして、思わず窓を見た。

 雨がまだ止んでいない。
 でも、なぜだろう。
 今夜だけは、ひとりでいるのがいやだった。

 私は、何も考えずに、悠の部屋の前まで歩いていた。
 そして、ノックもせずに、ドアを開けた。

「……お姉ちゃん?」

「ごめん、勝手に……でも、ちょっと話してもいい?」

「……うん」
 
 部屋の照明は落ちていて、ベッドサイドのスタンドライトだけがついていた。
 その淡い光のなかで、
 彼の目だけが静かに、でもまっすぐこちらを見ていた。

「ねえ、悠くん」

「うん」

「私、ずっと……“姉だから”って言い訳してきたと思う」

「……うん」

「でもほんとは、そんな役割とか、呼び方とか、どうでもよくて」

 私は、一歩だけ彼に近づいた。

「あなたがここにいてくれることが、どれだけ心の支えになってたか……今さらすぎるけど、やっと言える気がしたの」

「お姉ちゃん……」

「私ね、今の生活を“守りたい”って思ったの、たぶん、“家族だから”じゃなかった」

「それって……」

 私は、ベッドの端に座って、小さく笑った。

「悠くんが私のこと、特別に思ってくれてるって、気づいてた。ずっと前から」

 悠は驚いたように目を見開いた。
 でも、逃げなかった。

「でも私も、同じだったよ」

 その言葉が、やっと、やっと喉を越えたとき——
 彼の目が、少し潤んだ。

「……ほんとに?」

「うん」

「俺、いつかこの気持ちに名前をつけられる日が来るなら、
 “好き”って言える日が来るなら、
 そのときは絶対に——お姉ちゃんに言いたかった」

「じゃあ、いま言って」

 しばらくの沈黙。
 それから、彼は照明の下で、小さく、でも力強く言った。

「……好きだよ」

 心が、何かから解放された気がした。
 静かな雨音のなかで、
 ふたりの間にあったものが、少しずつ溶けていく。
 
________________________________________

 そのあと、ふたりはただベッドに腰掛けて、
 何も言わずに時間を過ごした。

 キスもしなかった。手もつながなかった。
 でも、それでよかった。

 ——手を伸ばしただけで、ちゃんと届いた気がしたから。

 “好き”を伝えられたことがすべてで、
 そこに言い訳も、名前もいらなかった。

 この夜を、私はずっと忘れないと思う。
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