ハルと、ふたり暮らし。

永文

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第14話:あと一歩、届かない距離

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 その朝、いつもより少しだけ起きるのが遅かった。
 カーテンの隙間から入ってくる光はすでに強く、初夏特有のもわっとした空気が部屋の中にたまっていた。

 ——今日こそ、話そう。

 そう思っていたのに、私はなぜか、朝ごはんを作る手がぎこちなくて、トーストは少し焦げた。

「……今日、なんか変?」

 悠にそう言われて、私は笑ってごまかした。

「寝起きだからかな。なんでもないよ」

 けれど、そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。
 
________________________________________

 午前中、私は大学へ行き、悠は図書館へ。
 帰宅してリビングに戻ると、彼が先に帰っていて、ソファに座っていた。

「おかえり。……蒸し暑かったでしょ?」

「うん、ちょっと汗だく」

 私は冷蔵庫からアイスティーを出し、ふたつのグラスに注いだ。
 氷がカランと音を立てる。
 その音が、妙に大きく響いた気がした。

「風鈴……今日、鳴かないね」

「風がないからかな」

 そんな何気ないやり取りすら、どこかよそよそしかった。

 ——いつも通りに話しているはずなのに、
 心だけが、少しずつ遠ざかっているような気がした。
 
________________________________________

 午後。
 リビングで並んで過ごしていたはずなのに、
 お互いほとんど言葉を交わさなかった。

 それは決して、険悪というわけではない。
 むしろ、居心地のいい静けさのはずだった。

 でも。
 「あと一言で届く」って分かっているのに、
 その一言が怖くて言えない時間が、一番しんどい。

 ソファでスマホをいじるふりをしながら、
 私はずっと、心の中で問い続けていた。

 ——今、手を伸ばしたら。
 ——この気持ちに名前をつけたら。
 この暮らしは、変わってしまうだろうか。

 それとも、やっと本当の意味で、近づけるんだろうか。
 
「ねえ、悠くん」

「ん?」

「なんかさ……最近、私たち変わったよね」

 彼はほんの少し目をそらして、うなずいた。

「うん。……たぶん」

「悪い意味じゃなくて、ね?」

「わかってる」

 会話が、そこで止まってしまった。
 ふたりとも、次の言葉を待っているのに。
 なのに、どちらも口にできなかった。

 ——もう一歩。
 あと一歩だけ、踏み出せたらよかったのに。
 
________________________________________

 夕方。
 私は少し外の風に当たりたくなって、
「夕飯の買い出し行ってくるね」とだけ言って、家を出た。

 返事をくれた悠の声は、どこか戸惑っていたように感じた。

 買うものなんて、実はなかった。
 ただ、どうしても呼吸が浅くなってしまうリビングから、少し離れたかった。

 コンビニまでの道を、ゆっくり歩いた。
 初夏の風はまだ涼しくて、アスファルトの熱と混じって、肌を撫でる。

「……私、何してるんだろ」

 ポケットの中で、スマホが微かに震えた。
 画面を見ると、“悠”の名前。

【気をつけて。暑いから水分も忘れずに】

 たった一行。
 でも、それだけで胸の奥がきゅっとなった。

 伝えたい。
 けれど、今伝えたら、泣いてしまう気がした。

 私は返信を打つ指を止めたまま、コンビニの駐車場に立ち尽くしていた。
 
________________________________________

 夜、帰宅すると、夕飯が用意されていた。
 唐揚げに、冷しゃぶサラダ。
 そして、お味噌汁。

「……これ、作ってくれたの?」

「うん。なんとなく、作りたくなって」

 私は箸を持ったまま、声が出せなかった。
 ——どうして、あんな優しさを向けてくれるのに、私はそれを素直に受け止めることすら、怖いんだろう。

「ありがとう、悠くん。……美味しい」

「よかった」

 その笑顔が、なによりつらかった。
 
________________________________________

 食後、彼が洗い物をしている間、
 私は静かに、ベランダのカーテンをめくった。

 夜風が少し強くなっていて、風鈴が小さく、何度も揺れていた。

 その音が、胸に染みた。

 ——風鈴って、風が吹かなきゃ鳴らない。
 でも、風が吹きすぎると、音がかき消されてしまう。

 “今の私たち”みたいだな、と思った。

 繊細な想いが揺れているのに、伝えきれないまま、ただ空気の流れに任せている。
 
「ねえ、悠くん」

「うん?」

「……風、強くなってきたね」

「うん。でも、風鈴が鳴ってると落ち着く」

「……そうだね」

 そして、私はその背中に、こう言いかけて——やめた。
「好きだよ」
 それを飲み込んで、私は代わりにこう言った。

「……明日、晴れるといいね」
 
 彼は笑って、うなずいた。

「晴れるといいね」

 ——たったそれだけの、会話。

 でも本当は、そのすぐ裏側に、伝えきれない“好き”が隠れていた。
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