彼女の指輪は、まだ濡れていた。

永文

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第9話:ただいま、もう一度

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「……こんなに外の空気、きれいだったっけ」

 退院の日、病院の玄関を出た橘さんは、空を見上げて小さくつぶやいた。

 3週間ぶりの空。
 曇っていたけれど、不思議とどこか明るく感じた。

「おかえりなさい」

 僕がそう言うと、橘さんはゆっくりと振り返って笑った。

「……ただいま」

 その言葉を、きちんと彼女の口から聞いたのは、たぶん初めてだった。

________________________________________

「でも……どこに帰ろうかなって、それが問題なんだよね」

 タクシーの中、彼女は苦笑いした。
 夫の家には戻らないと決めた。
 でも、実家ともあまり仲良くないし。友人にも頼れない。

「……俺の部屋、来ますか?」

 そう口にしたとき、正直、迷いはなかった。
 橘さんは一瞬だけ驚いた顔をしたけど、すぐに静かにうなずいた。

「……お邪魔します。帰る場所、ちょっとだけ借りてもいい?」

「もちろんです」
 

 僕のアパートは1DKの狭い部屋だったけれど、彼女が入っただけで、空気がすっと変わった。

 以前、ほんの短い時間だけ“避難場所”として訪れたことがある場所。
 それが、今度は“再スタートの拠点”になる。

「……なんか落ち着く。不思議ね。狭いけど、安心する」

「褒めてます?」

「もちろん。あなたの匂いがする。……安心できる匂い」

 そう言って、彼女はクッションを抱きしめた。
 まるで、自分が帰るべき場所をようやく見つけたように。

________________________________________

 夕飯は一緒にスーパーに行って、冷凍うどんと野菜を買った。

「一緒に買い物するの、初めてだね」

「たしかに。なんか、普通のカップルみたいじゃないですか?」

「“普通”って言葉、ちょっと泣けるね。ずっと憧れてたんだ、普通の暮らしに」

「これから、そうなっていきますよ。少しずつ」

 鍋で湯を沸かしながら、彼女が言った。

「……あなたって、ほんとに変わらないね。どんなに私が壊れても、ちゃんとそばにいてくれる」

「沙耶香さんが変わってないからですよ。俺が惚れたの、あの時のままです」


 彼女は、しばらく何も言わなかった。
 そして、ぽつりとつぶやいた。

「……また、名前呼んでくれた」

「え?」

「“沙耶香さん”って。事故のあと、あなたが呼ぶたびに少しずつ思い出したの。私が、私だったこと」

「……名前、大事ですから」

「うん。私は……橘沙耶香って名前の女で、誰かに“待ってもらえた”女なんだって、やっと思えるようになった」


 その言葉を聞いて、胸の奥に何かがじんわり広がった。
 彼女が、戻ってきた。
 目の前のこの人が、過去じゃなく“今”を生きようとしている。
 それが、どんなに尊いことか。

 

 夜、寝る前。
 ソファに座っていると、彼女がブランケットを抱えてやってきた。

「ねえ、隣いい?」

「もちろん」

 彼女はそっと僕の肩にもたれた。

「……これから、どうなっていくんだろうね。私たち」

「どうにでもなれますよ。だって、もう一度始まったんだから」

「うん。……私ね、今すごく怖いけど、同時にすごく幸せでもあるの。こんなの、初めて」

「だったら、それがきっと本物です」

「……じゃあ、信じてみる」

 彼女は目を閉じて、優しくつぶやいた。

「あなたとなら、“ただいま”って、何度でも言えそうな気がする」
 

 ──壊れた場所から始まった恋が、ようやく帰る場所を見つけた。
 心のドアをノックする音に、ようやく“おかえり”と答えられた。

 何もなかった部屋に灯りがともり、そこに二人分の暮らしが始まりつつあった。
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